第五章④ 和さんはがんばった
「わたし家庭教師のバイトやめたの。暇ができちゃった」
「ああ、そうなんだ」
和さんは打球に頭から飛び込む外野手にカメラを向けながら言った。
ボールは外野手のグラブに当たったが捕球はできず、彼の後ろの芝生を転々とする。
起き上がった外野手が振り向いて、ボールを追いかけようと走り出したその瞬間に、和さんはカメラのシャッターをきった。
「居酒屋でもバイトしてたんだろ。大変だったろうに」
「そうそう凄く大変だったのよ。夜中まで動きっぱなしでさあ」
居酒屋。コンちゃんとクマさん。わたしは、平静を装いつつ、話が危険地帯をさまよっていることに緊張していた。
「コンから聞いたよ。あいつ店に行ったんだろ、クマさんと二人で」
「あ、知ってたんだ。あの二人、意外と仲がいいんですね」
「そうみたいな。つーか、コンとは夏にちょっとあってさ。それからあんまり二人では会ってないんだよね」
わたしは和さんの言葉に体がこわばるのを感じていた。どう応じるのが正しいのか、分からないのだ。でもなにかを言わなければ。
「ケンカしたんですか。あ、あれかな、ひょっとして。和さんが鹿児島に一人で旅行に行っちゃって、コンちゃんがつまんなそうだったっていう」
「それもあったけど、もっと強烈なのが」
「ほう」
遠くから歩の笑い声が響いてきた。野球場にくると血が騒ぐ体質なのだろうか。
「和さん、その話、聞かなくちゃ駄目?」
彼はカメラを下ろして力なくこちらを見て笑った。
「俺だって、自分の胸の中に溜め込んでいるのが苦しい時くらいあるよ」
「そう、じゃあしょうがないね」
それは今年の夏休み。ラーメン・ライダーズ喜多方遠征から一週間後のことだった。
秋田の夏祭りといえば、まず名前が挙がるのが竿灯まつりだが、全国区のものがもう一つある。
大曲の花火大会。
大曲市は人口が四万人の小さな町だ。そんな小さな町に花火大会の日には四十万人の観光客が押し寄せる。
テレビで全国中継されて、毎年有名人がプライベートや取材で訪れる。そして今年は総理大臣がやってくることになっていた。
その情報の出所はクマさんだった。
クマさんこと岩隈助教授は、出身大学の同窓生に何人もの政治家、官僚がいるという。彼は秋田にいながら、中央政界に人脈を持っていた。議員として立候補してみてはどうかという話が持ち上がったこともある。
クマさん自体そういった世界が嫌いではなく、適正もあるらしいのだ。わたしが目にしている下劣な姿からは想像ができない。それとも逆に考えれば、あれこそが適正といったものなのかもしれない。
そんなバックグラウンドと彼の奔放さを、和さんはとても気に入っていた。
クマさんの言葉は和さんを焚きつけた。
「これはめったにないチャンスじゃねーか、和。俺が協力する。お前の思うところを、総理大臣様にびしーっとぶつけてやれよ」
コンちゃんは大反対した。和さんとは何度もこの件で喧嘩したし、クマさんとも言い争いになった。
そんなことをして何になるというのか。下手な騒ぎ方をして、警察沙汰、新聞沙汰にでもなったら、一生を棒に振ってしまいかねないではないか。
彼女の説得にもかかわらず、男二人の決意は変わらなかった。コンちゃんにできたのは祈ることだけだった。
その祈りは、ある意味では届いたのかもしれない。和さんは今もこうして、お天道様の下を潔白な人間として歩くことができている。でも知らないところで、ある程度はマークされる存在となってしまったかも知れない。
花火大会の日、小松和也は内閣総理大臣の前にたった。
河川敷に何千もの炎の花が咲き乱れる中、彼は自分の思いを、ポマード頭のあの人に向けて言い放ったのだ。
現状を憂う思い。日本の進むべき道。政治家は自分の保身などしている場合ではないのだ。
しかし何も起きなかった。
あたりの何人かが振り返っていた。呼びかけた相手にも聞こえてはいたのだと思う。けれど、何をいうでもなく花火のほうに視線を戻してそれっきり。
側近のような人が去り際にぼつりと声をかけたという。
「君の意見はすごく平凡だよ。何べんも聞いたことがある」
「俺には特別な力なんてなかったんだ」
わたしはうつむいて、手元の枯れた芝生を千切っていた。
「花火、綺麗だった?」
「うん、すごく」
「良かったわね。わたしも見に行きたいな」
「急ぎすぎたのかな俺。それとも結局はいつかこうなって、それがちょっと早かっただけなのかな。正直に言うよ。俺後悔しているんだ。あんなことをしなければ、もう少しのあいだ自分に夢を見ていることができたのにって」
自分のなかで光り輝く存在である和さんの口から『後悔』という言葉が出てきても、わたしに失望はなかった。
たいしたものだわ。よくも、そんな無謀な挑戦をすることができたものだ。それでこそ和さんだ。
「コンに愛想をつかされてしまったかな。俺にあいつを責める資格はないよ」
わたしはその言葉にぎくりとした。
和さんはシャッターを切りながら、口笛を口ずさんだ。
「みどり、この曲ってなんだっけ」
明るい曲調。子供のころから、何度も、何度も聞いたことのあるそのメロディ。
「うわ、曲名が出てこない。これって老化現象なのかな」
「大学受験時が脳のピークだって奴は多いらしいから、あるいはそうかもな」
「やだ、そんなの。意地でも思い出す」
わたしは口笛が吹けないので、彼に合わせてハミングで歌い出した。
二人の歌は、誰にも届きはしなかった。
赤く染まった山々も、グラウンドのくすんだ芝生も、ただ命と時間の流れに身を任せるのみで、それに抗う愚か者たちの言葉になど耳を貸すつもりはないようであった。
「ちゃらったらった、ちゃらったらー♪」
わたしの歌がやけ気味の熱唱に変わった頃、歩がこちらにとことこと戻ってきて、「ふたりとも、楽しそうね」と怪しい人間を見つめる視線を投げかけた。
「ねえ、歩。この曲なんて名前だっけ」
「オクラホマミキサー」
わたしと和さんは、うわーと言って天を仰いだ。なぜそれが出てこない。
それから、わたしは一人で球場を後にした。和さんと歩はもう少し残っていく。
駐輪場に戻って自分の自転車でキャンパスを出た。
正門の道路向かいにある体育館の横を通って、駅前まで足を伸ばすつもりだった。
別に買い物があるわけではなかったが、少し一人でお店を見て回りたい気分だった。
そのとき体育館の開かれた扉の向こうから聞き覚えのある声がしたので、わたしは自転車を降りてのぞいてみた。
中では学生たち数名が、Tシャツにジャージの気楽な格好でバスケットボールをして遊んでいた。
そしてその中に、赤いジャージに白いTシャツのコンちゃんがいた。
「みどりだ」
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