第五章③ 目撃

 翌日は朝から授業が入っていた。


 昨日が火曜だったというのならば、今日は水曜日である。只の平日である。


 いくら昨日のワインが残っていて頭が痛くても、わたしたちはもぞもぞと動き出さなければならなかった。


 小鳥がチュンチュンと鳴く中、姿身を変わりばんこに覗き込みながら三人は身だしなみを簡単に整えて、お互い言葉少ななままアパートを出た。


「寝不足だわ」

「歩、服装が昨日と一緒だけど気付く人いるかな。服貸してあげたのに」


「別に気付かれてもいいわよ」

「頭かゆい。こういうことは週末にやろうな」

 高木くんは教科書類をとりに自分のアパートを通っていくことにした。わたしと歩も少し遠回りになるけど高木くんと一緒に行って、それからコンビニで適当に朝食を調達することにした。


 わたしと高木くんのアパートの間には、コンちゃんの住むアパートがある。


「長友、コンちゃんちを襲撃してみよっか」

「和さんが出てきたら、どうすんのよ。こんな疲れた顔みられたら、わたしそのまま自分のアパートに引き返すからね」


 風体もそうだし、今朝はなんだか和さんの顔を見るのは気まずいような気分だった。


 コンちゃんのアパートは、接する道路に対して垂直に部屋が並ぶような構造をしている。


 そしてとなりにもアパートがあって、各部屋の入り口は建物の影になっている。


 つまりその横を通る時に、わたしたちはほんの一瞬だけコンちゃんの部屋の鉄扉を目にすることになった。


 ほんの一瞬だったのだ。だからそのタイミングの悪さについて、わたしは何者かの意志を感じずにはいられないのである。


 そのくすんだ赤いドアは半分ほど開いていた。そしてその中から人が出てくる瞬間を、自転車を漕ぎながらわたしの目は捉えた。


 クマさんだった。


 わたしの中で、その刹那音が全て消えた。


「コンちゃんの部屋、左から三番目だよね。カーテン、水色なんだ。かわいいね」

 歩がアパートの後姿を振り返りながら言った。彼女も高木くんも、至って普通にふらふらと自転車を漕ぎ続けている。


 クマさんの姿を見たのは自分だけだった。


 クマさんは、以前居酒屋で見かけたときのようにきちっとしたスーツ姿だった。髪とか、髭とか身だしなみもちゃんとしていたように思う。


 彼と二人で飲んでいたときのコンちゃんのリラックスした顔を思い出して、わたしは背筋に冷たいものが走った。


 もう二日酔いなど、駅の向こう側に吹き飛んでしまっていた。


 西洋文学史の授業が終わった後の大講義室で、歩が学科の同級生たちに、服装が昨日と同じであることをあっさり見破られてからかわれていた。


「あゆ、完全に朝帰りじゃん」

「大人になっちゃったんだな、あゆ」


「まあねえ。あんたたちもわたしを目指してがんばりなさい」

 違う違うと慌てるよりも、こうして肯定してしまったほうがなんだかかえって嘘っぽくなるようだ。わたしは横で聞きながら、歩の高等テクニックに感心していた。


 その日の授業を混沌に満ちた脳の状態でなんとか乗り切ったわたしは、疲れた体を癒すため救いを求めるように学食へ歩と二人で向った。


その途中で人ごみの中、青と白のバイクを押して歩く和さんの背中を見つけた。


「かーずさん」

 歩が駆けだして彼に声をかけた。いやん、こんな日に限って出くわしてしまうものなのね。


 わたしは力なく首を横に振りながら、二人を追いかけた。


 和さんはキャンパスの隣の大学野球場に向う途中だった。肩にはカメラの入った黒い革のバックを掛けている。


「たまにさ、動くものを撮影する練習に運動部の連中を撮ってるんだ」


 彼はバイクを球場の横に停めた。それからわたしたちは球場の敷地内にはいって、内野席の位置にある芝生の坂に腰掛けた。


 すぐ横には照明の鉄塔があった。


 特に野球部が強豪なわけでもないうちの大学だが、秋田県でナイター設備がある野球場は現在のところここだけなのだとか。しかしそれ以外の作りは古い。手入れも万全とは言いがたい。


 グラウンドでは、硬式野球部がシートノックをしているところだった。


「おい歩、そういえば聞いたぞ。おまえ軟式野球部の打ち上げに乱入しただろ」

「おや、よく知ってますね。和さん」


 和さんはカメラに望遠レンズを装着しながら、咎めるように歩を見た。


「ベーラン一気、お前もやったんだって」

 ベーラン?

「何それ?」


「軟式野球部がシーズン最後の試合を終わって、ここのグラウンド上に座敷を敷いて、酒も持ち込んで打ち上げをやったんだよ。で、あいつらの恒例行事なんだけど、宴もたけなわになってくるとさ、四人がホームから三塁ベースまでに一人ずつ酒瓶と紙コップを持って立つんだ。そんで別の一人がベースランニングするんだよ。各々の塁上で、一気飲みを繰り返しながら」


「うわ、危な」

「俺も一度見たことがあるけど、ランナー役は色々と小芝居を織り交ぜるんだ。ヘッドスライディングをしたり、挟まれたふりをして行ったり来たりして、三塁まで行ったと思ったら二塁に戻って、もう一杯のんだりして」


「盛り上がるのよね、あれ。わたしヘッドスライディングできるんですよ」

 歩は特に悪びれるでもない。


「女子があれやるのなんて聞いたことねーよ。歩お前、ジャージ着てきたんだって? 最初からやる気まんまんだったってわけだ」


「軟式野球部に知り合いがいたしさあ。一度やってみたくてつい」


「めっ!」

「きゃー、ごめんなさい」


 怒られた歩は、バックネットの方に走って逃げていった。途中で芝生を転げ落ちそうになっていた。


 硬式野球部のマネージャーとも知り合いのようで、ネット越しに話しかけていた。


「和さん、髪伸びたね」

 わたしは、カメラを構える彼の横顔に目をやりながら言った。


 ふかふかのついたこげ茶色のコートを着た和さんの、軽くカールしたふわふわの髪の毛がなびいた。

風が二人の間を、特に気遣うでもなく冷たく通り過ぎて行く。


「和さん。昨日はコンちゃんのところにいたの?」

「んー、いや。自分のアパートにずっといたよ」

「そ」


 その言葉が本当かどうか伺おうとじっと見ていたら、彼はこちらを向いて、「本当だよ」と微笑んだ。


「別に疑ってないよ。改めてかっこいいなあと思って鑑賞していただけ」

「アホか」


 和さんはぷいっとあっちを向いてしまった。わたしは引き続き彼の髪の毛を眺めながら、声は出さずにふわふわ、ふわふわ、と呟いた。


 球場に野球部員たちの掛け声がこだまして、鉛色の空に吸い込まれる。


 晩秋のグラウンドには独特のもの悲しさがある。ノッカーのバットが放つ金属音もどこかうつろだ。


 もうまもなくグラウンドは雪に覆われ、来年の春までこの光景は見られなくなる。


 わたしは秋が好きだ。一度滅びる間際の、世界がその事実を受け入れていく様を見つめていると、静かな気持ちになることができる。


「カメラも面白そう」


 わたしは顔にかかる髪の毛を手ですっとはらった。そして言葉を続けた。

「和に教えてもらおうかな」


 わたしは、和さんの横顔を覗き込んだ。彼は、顔はカメラに向けたまま、目線だけでちらりとこちらを伺った。


 わたしはちゃんと笑おうと思ったのだが、寂しさにさえぎられて眉をしかめてしまった。


「みどり、今日変だ」

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