第五章② 夜はこれから
こうして、わたしの部屋で宴が始まった。すでに十分な量のお酒をたいらげて絶好調の歩と高木くんに追いつくべく、わたしは精一杯の痛飲に走った。
「弁当とか、まともな食事も買ってくればよかったかな。みどり、こんなので夜メシ済ましちゃっても大丈夫なの?」
「平気よ。一日くらい」
わたしは酔いがだいぶ回り始めていたのだろう。答えてから缶チューハイをもう一口飲んでひと息つくまで、高木くんの言った意味をちゃんと理解できなかった。
(お、こいつ。誰かにわたしのかつての病気のことを聞いたな)
わたしは歩にくらいしか直接その件を話したことはなかった。彼女は言いふらしたりはしない。でも恐らくわたしに近しい人は全員知っているのだ。そういうものだ。
高木くんは、彼が酔っ払った時には近頃恒例になりつつあったのだが、買おうとしている車の話を始めた。
わたしはちんぷんかんぷんながらも、聞き手に回った。特に嫌ではない。
「単に高性能だっていう、そんな生易しいものじゃないんだってB―16Bは」
「なんじゃそれは。爆撃機?」
「違う。シビックタイプRが積んでいるVTECエンジンの型名だよ。ホンダの名工が、手で部品を磨きこむんだ」
「いまどき手作り?」
「人間の手の作業精度を舐めるなよ。速度ではそりゃ機械に劣るから、月に何台作れるかで勝負したら敵うわけがないけどな。B―16Bに使われている部品の寸法精度は、他社のエンジンと比べて小数点以下の桁がひとつ違うと言われているんだ。VTECはなあ、音が変わるんだよ」
「話が飛ぶなあ、何よ音って」
「全然飛んでない。ちゃんと聞けよ、みどり」
「なんだとう」
一方、歩は一人、ハイペースなマイペースで杯を空けつつ、テレビを見てけらけらと笑っている。
「回転数が6000を越えると、VTECエンジンは音が変化するんだよ。そのとき自動でギア比が切り替わって、トルクが増大する。これは高回転域重視型エンジンの弱点である低速トルクを補う為に開発された技術で、これをびしっと決める為には部品の寸法精度が大事になってくるんだ。分かったか」
「分かりません」
「これを見ろみどり、バックミラーだ」
「説明をあきらめるな。なにそれ、大きいバックミラーね。君はそんなものを持ち歩いているの?」
「これを取り付けると後ろが格段に見やすくなるんだよ。今日、車用品の店で買ってきた」
「車がまだないのに?」
「待ちきれなくてさあ、買っちゃったよ。あとこの前は車内用の芳香剤も買って、それは結局自分の部屋で使っている」
「ちょっと冷静になったほうがいいんじゃない? そんで肝心の車そのものは買うのにまだ掛かりそうなの?」
「もう注文はした」
「え!」
「ほんとに!」
歩もテレビから視線を外してこっちを向いて、わたしと一緒に驚いた。
「お金、たまったの?」
「かなりたまった。それから十二月になると、この前一緒に働いた居酒屋が忘年会で大忙しになる。そこで目一杯働くつもりだから、更にたまる。これで目標にしていた頭金の額にとどく」
「へえ」
「残りのローンは親に頼んだ。約束したんだ。俺が自力でこれだけ頭金を準備するからって」
歩が笑顔を見せた。
「そうなんだ。良かったじゃない。高木くんおめでとう」
彼女があんまり素直に祝福するものだから、わたしは憎まれ口を叩くしかなくなってしまった。
「十二月の居酒屋を乗り越えられたらの話でしょ。そこでずっこけちゃうのが高木くんって感じがする」
「うるさい。俺は絶対にずっこけない。一月には納車されるんだ。嬉しいよ、いよいよだ」
楽しい宴は、それからしばらく続いた。
高木くんはわたしのベットにずうずうしくも座り込んでしまい、わたしと歩はベットのふちに背中をもたれるかたちで、並んで座った。
二人の心の友のおかげで、わたしは僅かにでも気晴らしをすることができた。
十一時を過ぎると三人とも疲れが見え始めてきた。酔いのせいで動きがぬるぬるしだしたころ、高木くんはふうっと息を付いてうつむきながら呟いた。
「愚痴をこぼしてもいいのに、みどりは我慢強いな。つーか俺じゃ役者不足か」
もう一度息をつく高木くんを、わたしは困ったような笑顔で見つめた。
「格好つけたがる性質なのよ。高木くんごときに遠慮する必要もないと思ってはいるんだけどね」
「ごときとはなんだあ」
彼は弱くそう吼えて、それからまたうつむいて目を閉じた。
「君こそ大丈夫? 疲れているんでしょ」
「楽しいよ、毎日」
わたしはその言葉を聞いて、ふいに彼の頭をいい子いい子してあげたいような衝動に駆られたが、思いとどまった。
「そりゃあ、良かったね」
横では、歩がコップの中の赤ワインをゆらゆらと回しながら見つめていた。
「そんじゃ、俺はそろそろ寝かせてもらうわ」
「ちょ、高木くん、誰が泊まっていいって言った?」
「むにゃむにゃ」
「おい、こら!」
高木くんはわたしの枕に顔をすっぽり埋めて、突っついても反応を示さなくなった。
「まったくもう」
わたしは、こたつの上に置いておいたテレビのリモコンを取って、音量をわずかに聞こえる程度まで下げた。
「じゃあ、わたしは帰ろうかな」
「え、いや、歩、それはちょっと」
高木くんと二人きりになってしまうではないか。
「後は若い二人に任せて」
「どこのおばさんよ。布団あるからあんたも泊まってってよ」
「冗談よ。まあそうなるわな」
歩は赤ワインをくいっと飲み干した。それからワインのボトルを手にして、コップに半分ほど自分で注いだ。
部屋に心地のよい沈黙が流れた。テレビでは『ガキの使い』をやっていた。(ちなみに今日は火曜日である。どうして日曜日にやるはずの『ガキの使い』がここでやっているのか、その理由は以前述べたと思う)
「高木くんと、どこで飲んでたの」
「『酒保』のカウンター」
「二人で飲みにいったり、結構してるんだ?」
「高木くんとは、どうだったかな。たぶん三回目」
「ふうん」
わたしは赤ワインを自分のコップに四分の一ほど注いで、ちびりと舐めた。
「君ら」
わたしは言葉を一拍区切ってたずねた。
「つきあってないよね?」
「ないない、それはないよ」
歩は微笑みながら、手を左右にゆっくり明確に振って否定した。
「わたし鈍いんだから、言われなきゃずっと気づかないまま邪魔し続けるわよ」
「わたしも高木くんも、ちゃんとした相手が出来たら長友には教えるよ」
「高木くんはどうかな。影でこそこそ遊んでいるんでしょ?」
「あくまで遊んでるだけみたいよ」
「本命はいるのかねえ」
「どうだかねえ」
歩は肩をすぼめた。彼女もまたわたしに今日降りかかった出来事について、わたしからの言葉を待っていてくれているのかもしれなかった。並んで無言でテレビを眺めながら、わたしは思案した。
それから脈絡なく言った。
「悔しかったら自分を磨けってやつですわね」
「まあ、そうだわね」
「由里ちゃんはわたしを頼ってくれたのに、助けてあげることができなかった。自分に力がないことなんて分かっていたわよ。由里ちゃんだって、大学にはいったばかりの人間に大人を説き伏せるようなことが本当にできるとは思っていなかったかも知れない。でも、わたしに助けて欲しいって、あの子言ったのよ。ほかにいなかったからじゃなくて、わたしがいいって選んでくれたのよ。なのに」
歩は床に置いてある箱ティッシュから二枚取り出してわたしに渡した。わたしの両目からは涙が堰を切ったように流れ出していた。
しばらく泣いて、ようやくわたしは落ち着いた。時を見計らったかのように、次は歩が語り出した。
「せっかくだから、わたしも話聞いてもらっちゃおうかな」
「いいわよ」
「この前ね、夢をみたの。いい夢」
「いい夢?」
「うん。夏に野球場で長友も見た人。あいつが出てきた」
「話したの?」
「結婚を申し込まれた」
「なんと。OKした?」
「もたもた話しているうちに目が覚めちゃった。なんだかね。設定がおかしいのよ。何年先の話なのかわからないけど、あいつはプロ野球選手になってるの」
「どこのチーム?」
「オリックスだった。ま、それは今年オリックスが秋田で試合をして、それを見に行ったからだと思うけどね。わたし言ったのよ。あなたは今やプロ野球選手。それがどうしていまさら、わたしのような平凡な人間と一緒になりたいなんて思うのでしょう。同情ならば、どうかやめて。わたしはわたしの人生をすでに歩み始めているのだから。そしたら彼は答えたわ。『こんなに時間が掛かってしまったよ、遠藤。君の価値は俺にとって、なによりも高く尊いものだ。プロ野球選手にでもならなければ、君を迎えに来る勇気が持てなかったんだ。またせて済まなかった』やあ、思い出すと恥ずかしいわ」
「聞いていても恥ずかしいなあ。言われてみたいと思うけど、恥ずかしいなあ」
わたしもつられてにやけてしまった。
「でも、目が覚めたあとに、本当だったら良かったのにとは不思議と感じなかったの。すごくうれしくて、今もうれしくて。そして思った。きっともう終わったんだなあって」
わたしは静かに頷いた。次に進む準備が彼女の中で整ったことを夢は告げていたのか。
「わたしの話はこんなところかな。さてところで」
「何、歩」
歩は振り返って、ベッドで突っ伏している高木くんを見た。
「こいつ、全部聞いてたような気がするんだけど」
わたしも振り返った。高木くんは枕に顔を伏せたまま動かないが、そう言われてみるとなんだか怪しい。
歩がふいに、高木くんの耳をかぷりと甘噛みした。
「起きてんでしょ?」
歩が囁く。なんだか声が艶っぽい。わたしは目が点になってその様子をみていた。
「長友がやったら、起きるかも」
「噛めと?」
「舐めてもいいけど」
ええと。高木くんはなおも動かない。彼の首筋のあたりを見ていたら、酔いも手伝って妙な気分になってきた。
「えい」
わたしは彼の首筋に唇を押し当ててみた。汗のにおいを少し感じた。
「わ」
高木くんは飛び起きた。
「ほら、やっぱり起きてた。おりゃー」
歩が高木くんの上にのしかかって、きゃっきゃと笑いながら首を絞めた。
「聞いてんじゃないわよー、このー」
「今起きたんだよ。あんなことされたら起きるって。うわ、こら」
嘘だ。わたしも乗り遅れまいと、彼のお腹のあたりをしゃもしゃもとまさぐってみた。
「ぜんっっぶ、聞いてたんだ」
わたしも笑っていた。別にこの人になら聞かれても構わなかったので。
それから三人で、ベッドの上でじゃれて遊んだ。わたしもまあ、どさくさにまぎれて色んなところを触られたり、触ったりした。
お父さん、お母さん。わたしは元気に暮らしています。
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