第五章 コンちゃん
第五章① ほろ苦すりおろしりんご
由里ちゃんのマンションへ家庭教師のアルバイトで通う日々は、唐突に終わりを告げた。
初雪こそまだだったがすっかり冬めいて、町が冷たい灰色に覆われたような十一月。
彼女は勇気を出して両親にバレーボールの名門、古川商業へ進学したいという意思を伝えた。
父親も同伴の状態で切り出したのは、そっちに突破口があるかもしれないという和さんの助言を基にわたしが判断した末のことだった。そして、その話し合いの場にはわたしもいたのだ。
「あなたが由里を焚きつけたんでしょ」
由里ちゃんが話している途中、かなり早い段階からお母さんはわたしのことを睨んでいた。
おかしいなあ、と思いつつ展開を見守っていたのだが、お母さんは由里ちゃんとの問答もそこそこにわたしに噛み付いてきた。
「相談には乗りました。でも焚きつけるだなんて」
「由里は成績がいいのに、バレー漬けの高校生活を送らせるなんて考えられないわ。それに怪我でもして選手としてもお払い箱にされたら、その先にどんな人生があるのよ。やめてよね。あなたみたいな子供が、他人の将来について軽々しく意見をするなんて、許されないことだわ」
「ちょっと、母さん。先生にひどいこと言わないでよ」
「何が先生よ」
父親が口を挟んだ。
「おい母さん、よさないか。先生はよくやってくれているじゃないか」
由里ちゃんの母親は嫉妬が深い性質の女性だった。だから父親がわたしを弁護したことは、まったくの逆効果となってしまった。
「自分の言葉に責任を持とうとしない人は子供以外の何者でもないでしょ。みどりさんあなたはね、ドラマか何かの見すぎなのよ。夢をあきらめるなとか、一度きりの人生は挑戦しろとか、わたしそういうの大嫌い。あなたは教師の適正に欠けているとしか思えないわ。悪いことは言わないから、他の仕事にしなさい」
こんな人だったんだ。わたしは母親の醜く歪んだ顔をしばし唖然として眺めた。
「あの、他人にリスクを強要する感覚はおかしいというのは、お母さんの言う通りだと思います。でもお母さんがいう進路の先には本当にリスクが何もないんですか? 人生、どこでどうなるかなんてわからないじゃないですか。自分で決めても、他人に決められても、うまくいくときはあるし、後悔する時はするんだと思います。でもだからこそ、もう少し由里ちゃんの話を聞いてあげてくれませんか」
「わからないの? あなたには口出しする権利がないって言ってるの」
「お母さんは一般的な考え通りに行動していれば、失敗しても世間に批判されないで済むと思っているだけじゃないんですか? それであなたは、由里ちゃんの人生に口出ししなければならない義務をちゃんと果たしていると言えるんですか?」
わたしは言いすぎた。完全に言い過ぎた。必死にまくしたてたのだが、それでは由里ちゃんの立場が悪くなるばかりで、彼女のことを思うならば、耐えるべきだったのだ。
最後は母親がこう言って、話し合いは終わった。
「浪人なんかした学生が家庭教師なんて、初めから嫌だったのよ」
由里ちゃんが、わたしのために立ち上がって激高してくれた。父親の怒鳴り声が部屋に響いた。それでも母親は自らの頬を流れる涙によって、純真な被害者となることが出来たのである。
マンションを去るとき、閉まるドアの向こうで由里ちゃんの「先生」と言った声が最後に聞こえた。
自分のアパートに帰りついたのは夜の九時過ぎだった。部屋に入るなりわたしは、手にしていたコンビニの白いビニール袋をベッドに放り投げ、布団でほわんと弾んだそれを追いかけるように自らも倒れこんだ。
袋の中身は、のりしおのポテトチップスと、イチゴ味のカプリコーンと、缶チューハイが二本。わたしはこれからやけ酒を敢行するのだ。晩御飯をお菓子で済まそうとしているのだ。もうどうなってもかまうものか。
わたしはすりおろしりんごの缶をぷしゅっと威勢よくあけて、それを三分の一ほど一気に首を傾けてのどに流し込んだ。
ぷはああ、と景気づけに言ってみたが気分はちっとも盛り上がってこない。
先週出したコタツの上に広げたポテトチップスをぼりぼりとかじりながらすりおろしりんごを飲み進めると、胸の奥がほんのりあったかくなってきた。
入学した当初に比べればお酒も少しだけ強くなったようなのだが、まだまだ歩師匠にくらべれば赤子同然で、このままハイペースで飲んでいれば、特に憂さが晴れるわけでもなくあっという間に眠りこけてしまい、明日の朝自分が人間界の底辺にいることを宣告されたような気分で目が覚めることは必至だった。
そんなわたしを、師匠たちが救いにやって来てくれた。
突然玄関のドアが、どんどんどんと三回強く鳴る。
夜分遅くのいきなりのこれは、わたしに大変な恐怖を与えた。
もしどこかの怖い人が一人暮らしをしているところにいきなりやってきたら、実際のところどう対処すればよいのか。だいたい我が家には立派な呼び鈴がついているというのに、なぜドアを叩く。
「あけろー、あけるんだー!」
歩の声だ。そしてまたドアをどんどんどんどん。
「ご近所迷惑だ」
わたしは立ち上がって玄関に向った。思っているよりも酔いが回っていて、玄関まで最短距離で向うことはかなわず少し蛇行しながら進んだ。
ガチャリと鍵を回すと、その瞬間に勢いよくドアが開いた。チェーンロックがビーンと張って、その向こうには浮かれた笑顔の歩と、高木くんがいた。
「みどり、部屋に入れて」
「君ら酔っ払ってる?」
二人して足元がおぼつかない様子だった。
チェーンを外した途端に二人は部屋の中に飛び込んできた。
「がさ入れだー!」
「すまないが部屋を調べさせてもらうわ!」
「何でよ、ちょっとこら」
「あ、高木警部これを!」
「どうしたー!」
「容疑者は一人で酒を飲んでいたようであります」
「本当だ。お、ポテトチップス」
ぽりぽりぽり。
「どうだ」
「本官はうすしお以外のポテトチップスを食すやつは基本クズだと思うのであります」
じゃあ、食べるな。
「さて長友、あんたも飲んでたんなら話は早い。今日は全力で飲もう」
歩は自分が持ってきた、コンビニの袋の中身を床にがらがらどさーっとばら撒いた。
缶ビール、缶チューハイ、プリッツ、缶チューハイ、チーズ、たけのこの里。ワイン。ポテトチップスうす塩。缶ビール。
「なんなのよ、ほんとに」
「歩と飲んでた」
高木くんが、ポテトチップスの袋を背中から開いた。
「二人で?」
「二人で。そんで歩から、今日みどりがバイト先でひと悶着ありそうだって聞いてさ」
「様子、見に来てくれたんだ」
高木くんは、こたつテーブルの上のすりおろしりんごとのり塩に目をやった。
「祝い酒って感じじゃないもんな」
ほろりとしてしまった。高木くんに泣かされたとあっては、彼に頭に乗る材料を与えるだけだったので、わたしは涙をこらえて明るく言い放った。
「分かった。飲もうじゃないの。全力を見せればいいのね」
「長友よ。心のブレーキを全て外すのだ」
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