第四章③ 由里ちゃんの頼みごと
「よその学校にライバルがいるんです。正確で変幻自在なトスと、強力なサーブを誇るセッター。わたしブロックもスパイクも自信があるんですけど、彼女には試合のたびに振り回されていました。でも最後の対決ではわたしが何とか勝つことが出来て、試合のあと二人でじっくり話したんです。ネットを挟んでなら小学校の時から何度も向かい合ってきたのに、ちゃんと話をするのは初めてでした。わたし言ったの。高校でもまた勝負しようって。それに対する彼女の答えは意外なものでした。彼女は言いました。『想像してみてよ。わたしのトスをあなたがスパイクしたら、一体誰にそれを止めることが出来るだろうか』って」
「その子と同じ学校に行きたいのね?」
由里ちゃんは黙って頷いた。
「わたしたち宮城の古川商業に行きたいんです」
「バレーの物凄く強い私立だよね。宮城か。・・・・・・宮城かあ。親には何にも言ってないんだ」
「母が北高出身なんです。昔から北高、北高って言われて育ったもので、とてもじゃないけど県外にスポーツ留学なんて切り出せません。先生、お願い力になって」
わたしは、深い溜息を禁じえなかった。それから由里ちゃんのことを、もう一度眺めてみた。
わたしの生徒。
翌日から、歩との会話はお互いの生徒についてのことが多くなった。
マーくんは相変わらず勉強に身が入らないらしい。一方由里ちゃんは、勉強に対する姿勢は模範生そのものだった。
バレーボールで、東北大会まで行くほどの選手だったのだから、いままでは部活一色の生活だったはずだ。恐らくわたしのバスケ部時代とは比較にならないほどだろう。
それでも名門北高に手が届く範囲の成績を収めていたのだから、実力はそもそもあるのだ。
わたしのすることは、いままで時間が無くて、もう一歩の理解の突き詰めが足りなかった部分に下駄を履かせることだけだった。
もし教師というものが、試験で点数を取る技術を与えるだけの職業ならば、これでよかった。
由里ちゃんの母親は娘が県外の私立を受験したがっていることなど全く想像していなかった。
夏休み前にあった最初の三者面談でも由里ちゃんはまったくそんなことは言わなかったそうだ。彼女の担任教師も北高一本やりで、とても言い出せなかったのだ。
わたしが家庭教師として週に一度、あの急な地下道を自転車を押して通うようになって三週間後にあった模擬試験では、前回よりも学校内の順位が十番上がった。
わたしは飛び上がらんばかりに喜ぶ母親に握手を求められ、引きつった笑顔でそれに応えた。
(お母さん、小躍りしてる場合じゃないっすよ)
古川商業の受験は一月だ。
由里ちゃんが狙っているのはスポーツ推薦、あわよくば奨学生。
これに必要な条件は、一つは部活動で十分な成績を収めていること。もう一つは中学校三年間の成績が中の上くらいであること。
由里ちゃんはこの二つを楽にクリアしている。
試験そのものは、スポーツ枠の場合作文と面接だけだから、はっきり言って教科の勉強は根を詰めてやる必要がないのだ。
日々の受験勉強は、彼女の根がまじめであることもあって、わたしへの義理立てとしてやってくれているといっていい状況だった。
わたしは、彼女が見込んでくれたのにも関わらず申し訳ないけど適切なアドバイスなど与えることが出来ずにいた。出来るのはただ話を聞いてあげることにより、いくらかでも彼女の気分を晴らしてあげることだけだった。
由里ちゃんは週に何回かバレー部の後輩たちの練習に参加していた。むしろこれこそが彼女の受験勉強だった。
古川商業では十二月になるとスポーツ受験を予定している中学三年生たちを宮城に集めて、合宿が張られるのだ。
厳密にはルールから外れた行為なのだが、これは実質、部活動が始まっているのと同じであり、また、ここでふるいにかけられて生き残ったものだけが、作文と面接の形式的な試験で入学できる資格を得ることができるのだ。
母親は、娘が高校でバレーボールを続けることには反対していないので(あくまで北高でだが)、彼女が体のなまらないよう鍛錬を続けていることについて、何の疑問ももたなかった。
歩が、頭を抱えるわたしに言った。
「由里ちゃんの学習態度を伝え聞いたとき、生徒を交換して欲しいくらいだって思ったものだけど、撤回するわ。そんなのわたしだってどうしていいのかわからない」
この間に、家庭教師以外にも単発のアルバイトを何件かこなしていた。九月は前期試験が講義ごとに行われる時期なので多忙だった。
わたしは疲労がたまっていたが、一度本荘に戻って病院で定期的な検診を受けたときには幸い数値に異常はみられなかった。
白髪の男性医師は、一年前からずっとお世話になっている。最初の大学受験のときには彼に随分迷惑をかけてしまった。
「もっと疲れる思いしても、大丈夫ですか?」
こんな質問を先生にしたのは自分のかつての病が完全の完全に治ったのかどうかを確かめたかったからなのだが、後にして思えばこの問いかけはいかにも宿命的だった。
先生は言った。
「誰でもが体を壊すような真似をすれば、君も体を壊す。そりゃそうだ。一つ言えることは、もしこれから君が大変な苦難に立ち向かうことになったとき、病気を理由に妥協することはしちゃいけない。君の体はもう治っている。精神が弱気になって行動をためらうことの方が、病後の人間にとって得てして深刻な問題となるんだ」
わたしは頷いたが、『大変な苦難』という単語を未だどこか他人事として捕らえていて、やがてある吹雪の夜、先生の言葉を自分の認識の甘さの自覚とともに思い出すことになるのである。
交通量の調査という地味なアルバイトにも一度手を出したことがある。
一度で十分だと思った。
前から気になっていた仕事ではあったのだ。山王通りの交差点で椅子に座って、かちゃかちゃとカウンターを押すその姿は、のんびりしていてそれでいて時給も結構いい。
でも実際やってみると、睡魔と、まったく進まない時間との追いかけっこで思いのほか過酷な仕事だった。
二人一組で交差点に座らせられるのだが、わたしが組んだ男の子がまるで無口な人で、何度話しかけても会話はまるで弾まず苦痛が増していくばかりだった。
このときの唯一と言っていい良き出来事は、通りかかった和さんと久しぶりにちゃんと話が出来たことだった。
彼がバイクでやってきたのは偶然ではない。この日この場所でわたしが交通量調査をすることを、彼には教えてあった。
「つらいでしょ。俺もやったことあるから、よく分かる」
「和さん、わたし眠い」
「寝たら死ぬぞ。労働者としての意味で」
和さんは、ペットボトルの飲み物を二本、差し入れとして持ってきてくれた。
わたしはそれを受け取って、一本を隣に座る男の子に渡した。
彼は無言で会釈してそれを受け取り、それから和さんに、非常に聞き取りにくい声で「どうも」と言った。
和さんは、これからクマさんと食事する約束があるらしかった。
あのお下劣なクマ野郎。
「コンちゃんじゃないけど、ああいう良くない子と付き合うのはお姉さん、あまり感心しないな」
「あの人凄いんだぜ?」
それからわたしは和さんに、由里ちゃんの志望校の件を話してみた。和さんは話を聞き終わると深い溜息を一つついた。
「困るよね。こんなこと相談されても」
「いいよ。みどりだって困ってんだろ。いつかは切り出して親御さんの理解を得るしかない話なんだけど、それが難しいんだろうな」
「我の強いお母さんではないんだけどね。由里ちゃんに聞いた話だと、自分と違う考えの人を理解するのが苦手なのよ。わたしはこんなに娘のことを考えているのにどうしてこの子は分かってくれないんだろうって、自分が被害者みたいに思い込んじゃって終わりになることは目に見えているみたい」
「それじゃみどりが話を切り出したって同じことだろ。そもそも家庭教師の職務の範疇じゃないし。でもみどりは自分で何とかしてあげたいと思っているから、そんなに悩んでいるんだよね」
隣の男の子は、わたしと和さんの話が聞こえていないわけがないのだが、顔をこちらに向けず一切の関心を示そうとはしなかった。
「わたしが憎まれ役になって、問題が解決するならそれでいいよ。家庭教師をくびになっちゃったら悔しいけど、結果、由里ちゃんが古川商業に行けたなら、わたしのなかでそれは勲章として残っていくと思う」
和さんは話を聞きながら、わたしのカウンターを拝借してぺちぺちと流れ行く車の数を数えていた。
太陽は照っていたが、夏の日差しの鋭さはとうに消えていて、秋と冬がもうすぐそこに並んで待っているのが実感できるような日だった。
「みどり」
「うん?」
「俺でもきっとそうする」
わたしは彼の優しい眼差しを覗き込むようにして微笑んだ。
「ありがとう」
和さんは何も答えずカウンターを差し出して、わたしは右手で受け取った。そして彼は立ち上がってバイクのエンジンをかけた。
「ただ、父親はどうなの」
「二回会ったけど、進路については母親に任せているみたい。思春期だけあって、由里ちゃんとはほとんど口聞いていないみたいだけど、なんていうか腕白でもいい大きく育てって感じの人」
「そっちを攻めることは、一考したほうが良さそうだな」
「わたしも聞いてみたよ。ほかに助けてくれそうな人がいないか。父親とか、担任とか」
「由里ちゃん、なんて答えた?」
「みどり先生に、助けて欲しいって」
和さんのバイクが去ってだいぶしてから、隣の無口な男の子は、一言ポツリと「彼氏?」とたずねてきた。その言葉だけでもわたしの彼に対する評価は大いに上がったものだったが、上がったところでそれ以降彼はまったくしゃべらなかったので、さしたる意味はなかった。
和さん、少し元気がなかったかな?
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