第四章② 家庭教師、みどり
廊下の向こうのふすまが開いて、由里ちゃんが姿を現した。
黒いジャージ姿の、背が大きな女の子。確実に175cm以上はある。
わたしは上海の古時計がなったときのように「うおっ」と低い声を出しそうになったがなんとかこらえた。
彼女の身長は高木君よりはるかに高くて、和さんと変わりないくらい。
髪は短く前髪が横に流れていて、その下には切れ長でかたちのいい瞳がのぞいていた。
もてそうな男子に見える、というかそうとしか見えない。
わたしはしばらく彼女を凝視してしまい、本当に女の子であることを確信してから「こんばんは、由里ちゃん。よろしくね」と声をかけた。
「宜しくお願いします」
かすれ気味の声が可愛らしい。
由里ちゃんは礼儀正しく頭をぺこりと下げた。その様子もなんだか男の子っぽく見える。
高校のとき、バスケ部の後輩の男の子が学校の廊下でわたしとすれちがうと、よくこんな感じで会釈してくれた。
彼女の部屋に入れてもらい、わたしは出されたグレーのクッションに座った。
今日のところはとりあえず世間話で時間をつぶすことにする。
これは家庭教師のバイトを申し込んだ時にもらった、『誰にでも出来る家庭教師』のような冊子に、初日は世間話で生徒との距離を縮めるべしと書いてあったのだ。誰にでもできる、などとあえて銘打つからには、やはり誰にでも出来るものではないのだろう。
母親が二人分のコーヒーを持ってきてくれた。
いきなり志望校を聞くのも無粋だと思ったわたしは、とりあえず部屋の中を見回してみた。
自分の中学生のころの部屋と比べてみても、由里ちゃんの部屋はこざっぱりとしていた。
ベージュのカーテンにクリーム色のカーペット。白いパイプベットの上にはグレーの布団。木製の本棚には小説とCDがびっしり詰まっていた。
わたしは本棚に目をとめた。話題の宝庫。そのなかから自分も持っているものを見つけ、話をつなげていく。はじめ彼女は自分の嗜好を語ることを照れていて、わたしはまたしても男の子と打ち解けようと努めているような気分になったが、徐々に表情はやわらぎ、わたしのちょっとしたしょうもない冗談に笑い声を上げてくれるようになった。
それから段々に本題へと入っていく。
彼女の志望校は秋田北高校。由緒正しき女子校で、秋田市ではナンバーツーの偏差値を誇っている。才色兼備のお嬢様学校としてのイメージが定着していて、秋田高校に入れる成績でもあえてここを選ぶ女の子も多いと聞く。
北高を出るといいお嫁さんになれる、といわれているそうな。
「で、由里ちゃんの成績はどんなもんなの? いけそう?」
「ま、家庭教師をお願いするくらいだから、ぎりぎりですよね」
最近の模擬試験の成績表を見せてもらった。
「こりゃまた、絵に描いたようにぎりぎりねえ」
「でしょ」
「わたしは責任重大だね。高校受験は半年あればどうにでもなっちゃうからね。飛躍の可能性もあれば、今はまだ眠っているのんびり屋の子達に逆転される可能性だって十分ある」
「先生に恥はかかせません」
「わたしはいいけどさ。自分のためにがんばりな」
「うん」
素直に返事をしてくれる由里ちゃんに、わたしはこの子となら上手くやっていけそうだという感触を得つつあった。それから今後の勉強の進め方について話し合い、次回訪問する時までにやっておく範囲を参考書の中から指定して残りの時間はまた世間話をしていた。
母親がもう一度様子を見に来た。わたしは彼女に説明した内容をもう一度簡単に話した。
「先生、もうすこしで晩御飯ができますんで」
これが家庭教師のバイトが人気である秘密である。食事つき。貧乏学生たちにとってこれは余りにも大きい。
「由里ちゃん、あとほかに聞いておきたいことってある?」
「うーん、あることはあるかな」
「なに、言ってみてよ」
「先生、わたしの身長のこと何にも言わないんですね。初め見たときびっくりしてたでしょ。でもなんにも言わないんですね。どうして?」
彼女が急に真面目な顔つきになってそういったので、わたしはどきりとした。
「別に理由なんてないよ。ほかに話したいことがあったから、そっちを優先しただけ」
「そうですか?」
彼女は沈黙した。自分の中の感情の起伏と、静かに向き合っているようだ。
「本当だよ」
「わたしね先生。いっつも身長のこと言われるんですよ。うんざりするくらい。いつからそんなに大きくなったのとか、服のサイズがないんじゃないのとか。町を歩いていてもあからさまにじろじろ見られて。正直、不愉快な思いをするときが結構あります。でも、勝手な言い草なのかもしれませんけど、その逆に内心ではでかいなあって思っているくせに、言わないですまして笑っていられるのもなんだかいやなんです。言いたいことがあるなら言えよって思っちゃうんです」
分かる。
わたしはなんにも気にしないからね、そのままでの君でいてってのもなんだか癪に障るときがあるんだよなあ。
「ままならないもんだわねえ」
「先生、怒った?」
「ううん、別に」
不安気な彼女を見ていて、いい子だなと改めて思った。家庭教師と生徒とかは関係なく、人としてちゃんと向き合ってみようかという気になった。
次はこっちの手札を一枚見せておく番だろう。
「そろそろ台所にいってみようか。何か手伝うことがあるかも知れないし。わたしお腹減っちゃたよ」
わたしが立ち上がって部屋を出ようとすると、由里ちゃんは呼び止めた。
「やっぱり怒ったんじゃない?」
「怒ってないってば」
「じゃどうして行っちゃうの? 話はまだ終わってないのに」
わたしはドアのところで立ったまま、彼女に向き直った。
「由里ちゃんの気持ちは分かったと思うよ。気付けないままにしないでよかったわ。言ってくれてありがとう。でも、そういわれたからってあなたの背のことを話題にするかどうかは、今度はわたしの問題じゃない?」
「どういうことですか」
「ひねくれてんのよ、わたし。ここで言われるがままに『部活なにやってたの』とか素直に聞いちゃうような人間ではないの。それじゃ無神経さとしてはたいして変わっていないと思うのよ。あなたの身長のことは話題にする必要なし。悪いけどわたしがそう決めたの」
わたしはうつむいて考え込んでいる彼女を残して部屋を出た。
晩御飯は豪華だった。メンチカツにサラダにエビフライ。
「やあ、わたし太っちゃうなあ」
「先生やせているじゃないですか」
「そうでもないんです、お母さん。ただでさえちょっとやばいサークルに入っているんで、気をつけないと簡単に太っちゃう」
一年生三人で腹を割って話し合ったことがある。ラーメン・ライダーズに入ってから何kg太ったか。
わたしは3kg、歩は2kg、それから高木くんは5kgだった。
5kgて。
途中で由里ちゃんの父親も仕事から帰ってきて、賑やかで楽しい夕食となった。
食後のコーヒーは、由里ちゃんの部屋に持ってきてもらった。
由里ちゃんはおそらくさっきのやり取りでは納得しきれてはいないだろう。こっちは長い付き合いにするつもりだからそう急ぐことはないかと思うが、もう少し話を聞いておいてもいい。
しばらく下を向いてちびりちびりとコーヒーをすすっていた由里ちゃんは、やがて意を決したように顔をあげた。
「みどり先生。話を聞いてもらえますか。先生を見込んで、相談したいことがあるんです」
「おや、見込まれた。うん、いいよ」
「わたし、バレーボールを小学校の時からやってるんです」
「ほう、活躍してそうね」
コーヒーがおいしい。わたしが常飲しているインスタントとは、はっきりと味が違う。ちょっと高くついてもおいしいコーヒーがいいな。お金がたまったら、コーヒーメーカーを買っちゃおうかな。
「結構がんばったんですよ。中学最後の大会は東北大会までいけました」
「すごいじゃない」
「わたし本当は北高じゃなくて、ほかに行きたい学校があるんです。どうしたらいいですかね」
「ふうん。・・・・・・え?」
会ったばかりで生徒に心根を吐露させることに成功するとは、わたしもなかなかのものではないか。
それはいいのだが、なんだか話が面倒な方向に向い出していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます