第四章 後にちょっと問題となった手紙

第四章① 九月の日常

 九月の終わり。


 大講義室で学生は授業が終わってほとんどはけてしまっていたが、わたしは先生に質問があって残っていた。


 傍らでは歩が待っていてくれたが、話の内容には興味が持てないようで、帰り際の男子学生たちに軽口を叩いたりしていた。


 質問は授業の内容とは関係のないことだった。


 先日読んだ本にいたく感銘を受けたものの、ちょっと疑問が残った。それでわたしは専門家に意見を聞いてみたかったのだ。


 何かいま失礼な誰かの心の声が聞こえたような気がしたので弁明しておく。


 わたしはあくまで真面目な女子学生である。勉強する時はちゃんとしているのだ。


 決して年がら年中ラーメン食べたり、猫と遊んだり、で、またラーメン食べたりを繰り返しているわけではない。


「結論は出ないってことが結論になっちゃうんですか、つまりは」

「そうだねえ。文章の美しさと、物語の美しさを両極に存在するものとして捕らえることが正しいのかも、そもそもはっきりとした答えはないからね。俳句や短歌は言葉の持つエネルギーを濃縮させた芸術だけれど、その果てには物語が浮き立ってくることになるわけだから。あとは長友さんのいうとおり、映画の出現は、小説の歴史と発達に大きく影響しているだろうね」


 知恵熱に浮かされたわたしの拙い質問に、中年の男性教授は丁寧に答えてくれた。


 どの先生に聞けばいいものかわたしは迷ったが、どうやら正解だったようだ。


 わたしが読んだ本というのは川端康成の『掌の小説』という有名な短編集。


 わたしの貧相な読書歴において、ああ、こりゃ面白かった、と興奮した経験は数あれど、きれいだったなあという感想を本に持ったのは初めてのことだった。


 それは文章そのものの美しさを指してもいたし、文章によって描かれる世界の美しさのことでもあった。


 大正から昭和にかけての日本の風景。白い衣を着て駆けていく少女。夏祭りの夜。


 百貨店の喧騒すら趣に満ちている。


 それは例えるならば、外に雪の降り積もる朝に空気の入れ替えをしろといわれ、強制的に窓を全開されて清らかに過ぎる刺すような冷風に身をさらされた時のように、脳みその今まで使われることのなかった部分を開かれた気分だった。


 ところが小説の美しさに感動した一方で、今まで読んだ物語が急に色あせて見えてしまったのだ。


 入り組んだ構成や、物語のテクニックが余計なものに見えてきた。


 小説とは物語の表現形式なのか、それとも絵画や音楽と真の意味で等しい芸術なのか。


 一人悶々と考えても答えの見つからなかったわたしは、こうして先生のところに押しかけた。


 世の中の大概の問題は、人によって違う、という答えにおさまってしまうもので、それに納得できない人たちが話をややこしくして、歴史というものは作られていくようである。


 先生にお礼をいって大講義室を出た。


 すぐに次の講義があるので小教室のある一般五号館へ歩と向う。


 途中で向こうからやってきた男女二人組の男の子のほうが知り合いであることに気付いて、すれ違う時に「こんちは」と声をかけた。


 向こうは軽く手をあげた。そしてお互い立ち止まらずそのまま通り過ぎた。


「歩、今のがこの前話した人。高校のバスケ部のチームメートで、今は和さんたちの同級生。となりにいたのが去年の秋頃から付き合いだした彼女さん」


「ああ、やっぱり」


 もしわたしが現役でこの学校に入学していたら。


 精神衛生上そんな不毛な仮定はするべきでないのだが、その場合わたしはあの人と付き合うことになっていたような気がする。


 わたしがかつてこの町での暮らしに思いを馳せていた時、ともに歩きたいと願っていた相手はあの人だった。


 でも現実は、彼が今どの辺のアパートに住んでいるのかもわたしは知らない。人の運命とはつくづくままならぬものだ。


「そんでマーくんのやつがさあ」


 歩が話題を変えて、近頃良く聞くマーくんの話を始めた。


 出だしだけを聞くと、出来たばかりの彼氏のことを語りたくてしょうがない、色恋沙汰に頭がとろけてしまったお軽い女子学生のようだが、彼女に限ってそんなことはない。


 って言い方は失礼か。


 マーくんとは、歩が近頃家庭教師を始めた中学三年生の男の子のことだ。


「とにかく勉強してくれないのよ。母親にもよく叱られているみたいなんだけどね。成績はそこそこなんだけど志望校に入るためにはこれから結構がんばらないと難しいくらいなのに、全然緊張感がなくってさあ」


 秋田南高校という中堅進学校ならばなんとか入れるくらいの成績を今現在マーくんは取っているらしい。


 しかし、親や教師がなんとか滑り込んで欲しいと願っている学校は天下の秋田高校だ。歩の母校。


「受け持つことになったのも何かの縁だから、なんとかしてあげたいんだけどなあ」

「本人に熱がないと難しいよね。なんでもそうだろうけど」


 そういうわたしも今日から家庭教師を始めることになっていて、人ごとではなかった。


 わたしが受け持つことになった生徒も中学三年生だ。


 女の子ということは聞いているが、姿かたちも現在の成績も、行って本人に確認をして見なければわからない。これはなかなか怖いことである。


 次の講義は歴史の授業だった。


 江戸時代の庶民の生活についての話の中で、ちょっと横道にそれた。


 話がよく逸脱する先生はわたしの価値観では良い先生だ。それた話によって本題への理解が深まるようならば、より良き先生だ。


 学生食堂で歩と昼食をとっているとき、その横道にそれた話の件になった。


 今日は天気がいいので外のテーブルに出てみた。


 椅子もテーブルもちっともおしゃれではなくて、オープンカフェと呼ぶにはあまりにも貧相な代物だったけれど、快晴の空の下、風に吹かれると気分がいい。


 わたしはから揚げをほおばりながら語った。


「わたしが知っている話と、少しだけ違っていた」

「へえ、どこが」


「浮田幸吉が空を飛ぼうと思ったのは、彼が人並みはずれた好奇心と冒険心を持っていたっていうのも理由だけど、わたしの知っている話では、恋人の父親に結婚の許しをもらうために飛ぶことになったのよ」


 江戸時代に空を飛んだ日本人、鳥人浮田幸吉。


 わたしが子供のころ、本だったか、ドラマだったかで確かに見た記憶があるのだ。


 和紙と布と竹で作ったハング・グライダーを背負って、必死の形相で、全速力で橋の欄干を駆け下りる若者。下から見守る恋人。


 幸吉の足が地面から離れた。恋人は恐怖につぶされそうになりながらも、顔を上げ、目を見開き、幸吉の愛の証を見届けた。


「そのほうが素敵な話じゃない」

「でしょ? 教室のあの場で、先生それだけじゃありません! って立ち上がって叫ぶつもりまではなかったけど、わたしはわたしの記憶のほうを支持するわ」


 夕方まで授業を受けて六時から家庭教師のため生徒の自宅を訪ねることになっていた。


 朝から、食事をしていても授業を受けていても、頭の片隅には家庭教師のことが常に離れなかった。


 歩もマーくんの家に行くことになっていて、放課後わたしたちは拳を軽く合わせてお互いの健闘を誓い、それぞれの生徒宅へと向った。


 水色の自転車に乗って夕暮れの町を走る。


 九月になったとたんに気温はぐんぐんと下がってきていて、この時間帯になればもはや肌寒いといってもいいほどである。


 生徒宅は、大学からだと自転車を二十分ほど走らせた場所にある。


 駅の東口エリアに線路と並行に伸びる大通りを走って、途中で西に折れて明田地下道をくぐる。


 急な下り道でスピードが付いてしまい、怖くなってブレーキをかけた。


 そのまま手押しで最下点を通り過ぎて、それから向こう側の出口まで、こんどは体中の筋肉に精一杯がんばってもらって、どうにか自転車を押し切って上った。


 そして呼吸の整わないうちに、目的地の八階建てのマンションに着いた。


 自転車を駐輪場の片隅において大きな玄関をくぐる。そしてエレベーターを使って五階まで上った。


 長い通路を歩いて、512号室のドアの前で十秒立ち尽くし、意を決して呼び鈴を押した。


 インターホンから母親の声が聞こえた。わたしは上ずった声で名乗った。


「先日連絡させていただいた、長友です」

「ああ、どうも。いらっしゃい」


 高い、明るい声で返事が聞こえたあとにドアが開いた。


 中から出てきたのはお母さん。髪は長くて年は四十歳くらい。白いトレーナーの上に薄いピンクのシャツ。口元の端を僅かに上げた笑みに上品な印象を持った。この人とは電話で一度だけ話をしている。


「長友さん、今日から宜しくお願いします。由里、先生がいらっしゃったわよ」


 それが、わたしが生まれて初めて先生と呼ばれた瞬間だった。

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