第三章⑤ 長友みどり

 歩はまた酒が強くなったようだ。


 クマさんとも意気投合して、彼の太鼓腹を笑いながらぽこぽこ殴っていた。


 クマさんは真っ赤な顔で活発に這いずり回り、みどりが逃げ回っていた。


 俺も今となっては、すっかりみんなの輪に溶け込むことが出来た。


 和さんに昼間吐き出した不満が消えたわけではなかったが、この集団の中に身を置くことに僅かながら居心地の良さを感じ始めていたことも確かだった。


 これは良い傾向なのだろうか? それとも自分の将来を小さくしてしまう、妥協という名の忌むべき境地なのだろうか?


 翌日の朝食は朝ラーだった。


 朝ラーとは朝からラーメンを食べること。


 てっきりうちのサークルが勝手に言っているのだと思ったら、喜多方の町に伝わるオフィシャルな用語だった。


「うわ、本当にこんな時間からラーメン屋が開いている。おい、大丈夫かよ歩」


「大丈夫じゃない」


 ふらふらしながら歩は俺にもたれかかってきた。酒臭い吐息が俺の鼻腔をくすぐった。


「クマさんに張り合っていくらなんでも飲みすぎた。頭が痛い。ねえ、高木くん見てみて。わたしの頭、割れてない?」


「ああ、割れてる。なにかへんなものがこぼれ落ち続けてるわ。こりゃだめだ」


 昨晩彼女は居酒屋から宿に戻ってから、そこでさらにクマさんら一部の酒豪たちと飲んでいたのだ。


 それでも歩は喜多方ラーメンをしっかり食べていた。


 ついさっきまで飲んでいた彼女にとっては、朝食というよりも飲み会の締めだ。


 二日酔いの人間はほかにもいたがそれでもみんなそれなりに食が進んだのは、喜多方ラーメンが太麺あっさり系の代表格であるからにほかならなかった。


 麺はもちもちしている。これこそラーメンである。


 陸上競技で言えば百メートル走のように、全力で走るという一番シンプルな動作を極限まで煮詰めたような感じ。


 ああ俺は今ラーメンを食べているんだという気分に心の底から浸らせてくれる。


 透き通ったスープは魚だしの旨みが実に丁度良いバランスで染み渡っていた。


「やあうまい。これなら昼食もラーメンでも確かにいけるわ」


 俺は二日酔いではなかったが、昨日のあれの苦い記憶を喜多方ラーメンはきれいに払拭してくれた。


 こってり系も俺は大好きだが、それだと食べ歩くのはなかなか厳しい。


 食事の後は、市内を散策することにした。蔵の形を模した馬車に、数班に分かれて乗った。俺はみどりと一緒の馬車になった。


「見て高木くん、うわ、これ、馬、でか!」


 みどりは動物が好きならしく、嬉しさのあまり日本語が片言になっていた。


 俺が早く乗れと促しても、満面の笑みでいつまでも馬の顔をなでていた。


 大きな茶色い毛並みの馬が、暑いさなか馬車を引っ張って町中をゆっくり練り歩く。


 一般道を徐行する馬車のせいで、後ろに渋滞ができている。


「ラーメン屋と蔵の隙間で一般人が生活しているような町だなあ」


 俺は馬車の手すりにもたれながら呟いた。


 人口が六万にも満たないこの町には、本当にラーメン屋と蔵と、あとは田畑くらいしか存在しない。


 俺は持ち込んだペットボトルのお茶を一口飲んだ。屋根があっても暑さは感じる。


「いいところだねえ」


 みどりは大きな麦わら帽子を左手で押さえながら町並みを見つめて笑う。


「そうだな」


 俺が気の抜けた相槌を打つとみどりはこっちを振り返り、またいつもの観察するような目で俺のことをじっと見た。


「何だよ」

「別にぃ」


 みどりはまた景色の方を向いてしまい、寂れた商店街を興味津々の面持ちで眺めた。


 たとえば俺がここで、彼女のことを突然「みどりさん」などと呼んで敬語で話しかけたりした場合。彼女はどれほど傷ついてしまうのだろう。


 彼女の誕生日は十一月だと聞いたことがある。


 そして今年の十一月で、彼女は二十歳になる。俺と歩の一つ上。和さん、コンちゃんと同い年。


 みどりが実は年上だということを、昨日和さんから聞くまで俺は知らなかった。


 大学に浪人して入ることなど、さほど後ろめたいことではない。一年余計にかかっても、それで自分の志望する学校へ入学できたのなら、俺からすればうらやましいことこの上ない。


 誰かさんのようにまわりに流されて、そのうち考えるのが億劫になってどさくさまぎれに進路を決めてしまい、後からうじうじ悩むよりよっぽど健全だ。


 しかし、事情は人それぞれにあって、経歴の外っ面だけを眺めてその人の心の内を察することなど出来ない。


 和さんは、みどりからこのことを直接聞いてはいない。彼と同じ数学科の二年生にみどりと高校で同級生だった男がいて、情報の出所はそいつなのだとか。


 高校三年生のとき、みどりは秋大教育学部に十分現役で合格できる範囲の成績をキープしていたという。


 バスケ部の活動していた時期でも模擬試験でB判定以下はとったことがなく、誰もが磐石の体勢で受験を突破できるものと考えていた。


 しかし突然の病が彼女を襲ったのは一月のことだった。


 幸い現在では完治していて、酒を飲もうがラーメンを食べ歩くサークルに入ろうが問題はないそうだ。


 彼女がこのサークルに入ったのは、食事制限していたときの反動というのも潜在的な理由としてあるのかもしれない。ただ多分、定期的な検査は受けているのだと思う。


 問題は、発症したのがセンター試験当日だったということだ。


 朝自宅を出た時点で体調の異変は感じていたが、まだ耐えられる程度だった。


 しかし、その日の昼頃には、傍目にもわかるほど状況は悪化していて、まっすぐ歩くことも厳しい状況だったという。


 昼休みの間は机に伏して休息をとり、なんとかごまかしつつ一日目の試験は終えた。そして病院に直行。


 医者には即入院と言われた。


 しかしみどりは断固抵抗した。


 ここで入院なんかしたら、今までの苦労と死ぬ思いで切り抜けた一日目の試験が全て無駄になってしまう。


 担任の教師も病院に駆けつけ、その日遅くまで話し合いは続いたという。


 そして結局二日目の試験会場にみどりは現れた。


 気休めの投薬で体調は多少戻っていたが、試験が始まるとまたすぐに苦しくなってきた。


 試験官にも状況は伝えてあり、気遣われつつみどりは必死にマークシートを塗りつぶし続けた。


 そして彼女はなんとか全ての試験を終えて、病院へ。今度こそそのまま入院した。


 試験終盤は意識朦朧だった彼女の試験結果は散々だった。


 約一ヶ月後に控える二次試験のころには、外出が出来るくらいに回復するはずだった。


 だがその為には十分な休息を取らなければならない。受験勉強などもってのほかである。


 センター試験の自己採点結果をもとにした合否判定は、限りなくDに近いCだった。


 そんな絶望的な状況でも彼女はあきらめなかったという。


 友人に協力を仰ぎ、親の目を盗んで病院に参考書類を持ち込んだ。


 しかし昼は看護婦さんが様子を見に来るし、夜はすぐに消灯になってしまう。


 体調はすぐれず効率はすこぶる悪かったが、みどりはやれるだけのことをやった。


 教師になる夢もあったし、同級生たちと一緒に合格したい気持ちもあった。


 それにみどりは、秋田市で学生生活を送ることを昔からものすごく楽しみにしていたのだ。


 秋田大での二次試験が終わったまだ寒い日のこと。みどりは友人とともに秋田の町をしばらく歩いて回った。


 そしてアパートはこの辺に借りたいだとか、休日には駅前のデパートで買い物をして回りたいとか、祈りをつむぐかのように四月からの新生活について希望を語った。


 でも駄目だった。


 大学生協を出て図書館に向う途中の道端に、横に長い掲示板がある。


 主にサークル勧誘のビラが貼られていて、俺がラーメン・ライダーズに声を駆けられたのもここだった。


 そしてここは入試の合格発表が貼られる場所でもある。


 一年前の冬の終わり。この場所でみどりは、空が破けてしまったかのような悲痛な声で泣いた。


 和さんにその話をした男というのは、みどりと割と親密だったのではないかと思う。


 参考書を病院に届けたのもそいつだったそうだし、きっと合格発表の場にも一緒にいたのだ。今現在、つきあいがあるのかは知らない。


 さて。整理してみようか。


 俺が暮らしているあの町には、何もない。


 俺にとっては欠けているものばかりだ。


 コンビニも足りなければ、テレビ局も少ない。服を見にいっても品揃えの悪さとセンスのなさは目を覆うばかり。


 人間の気質も、数名を除くと、新しいことに飛び込んでいく熱のようなものがさっぱり感じられず保守的に過ぎる。


 でも、長友みどりはあの場所にたどりつくために、誇張なくまさに生命を賭けたのだ。


 一年遅れても願いを叶えることが出来たからといって、敗れた時の無念さが全て拭われたかといえば、恐らくそうではないと思う。


 損なわれてしまったもの、もう取り返しがつかないものもきっとあるはずだ。


 しかしみどりは笑って毎日を生きている。


 メニューが充実しているわけでもない学食でいつまでも楽しげに話しこんでいる。


 不器用ながらもバイトに奔走し、ミスしてしょげて帰っても次の日の朝にはまた気合を入れなおしてやってくる。


 田舎からさらに田舎に旅行に来て、その平べったい町並みを、いま俺の目の前で愛おしそうに眺めている。


 ふと彼女が俺のほうを向いた。


 また何か憎まれ口を叩くのかと思ったが、彼女はただ新月のような微笑を見せただけだった。


 みどりがささやかに大事にし続けているものたちを、よそからやってきたある男は事あるごとに腐し続けた。


 悪意があるならまだましだったが、彼女がどんな思いをこめて日々の生活を送っているかなど男は考えたこともなかった。


 俺はいままでそんな愚かなことをしていたのか。


 その哀しみは、俺だって良く知っている類のもののはずであるというのに。


 彼女は俺のことをきっと憎んでいるのだろう。和さんから峠で話を聞かされたとき俺はそう思った。


 馬車が市内を一周して、元の場所に戻ってきた。


「高木くん、高木くん」

「え、何だよ」


 先に馬車を降りた俺に、みどりはにやにやしながら降り口の階段の上からかしこまって右手を差し出した。


 意味を理解した俺はその手を取って、ガラスで出来た花束を受け取るかのようにそっと彼女を地上に降ろした。


「いま大正時代のお嬢様っぽかったよね。わたし」

「はいはい」


「君は下僕っぽかったよ」

「そうでしょうともよ」


 みどりは馬の横顔を最後にもう一度やさしく撫でて「元気でね」と言った。

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