第三章 ある男の独白
第三章① ある男の独白
俺の話を聞きたいってのはあんたかい?
いいぜ、話してやるよ。
俺は忙しい身なもんで、そう時間があるわけじゃないし、正直あまり思い出したくはない出来事ではあるんだがまあいいさ。
俺のちんけな話からあんたが何か教訓を見出したいっていうんなら、好きにすればいい。
ただし、何にも得るところがなかったからといって、後から俺に食ってかかるのはよして欲しいな。そいつはお門違いってもんだ。
俺は何も、『迷えるあなたに啓示を与えます』なんて看板を立てて待ってたわけじゃない。
あんたが勝手に来たんだ。
俺はあんたから何ももらってないんだから、当然適切な対価を払う義務もないのさ。
もっとも酒の一杯でもこの俺に奢ってやろうかっていう酔狂な心持があんたにもあるんなら、それを無下にする理由もないがね。
ただそれによって俺の話す内容は上がりもしなければ下がりもしない。
あったことをあった通りに話すだけだ。
さてさっさと本題に入るとしようかね。さっきも言ったが俺には時間があんまりないんだ。
じゃあ、話す。ま、適当に聞いててよ。普通に話すからさ。
俺べつに普段はこんな喋り方してないし。
俺の大学一年生の夏休みは、ようやく後半に入っていた。
何もしたくないなら、何にもしないでいることが許される少々長すぎる時間。
俺はもっぱら労働に費やしていた。
同じ学科の友人で、朝から晩まで部屋にこもりっきりでゲームをやっているやつがいるけど、あいつは九月になったらちゃんと社会復帰できるのだろうか?
鉱山学部の学生は百人いればそのうち五十人は留年を経験することになるのだそうだ。
とにかく出来の悪い連中の集まりなのだ。
ほかにどこにも引っかからなかったから仕方がなくいるだけで、この学部に入りたくて入ってきたやつなんてまずいない。
入学して間もない頃、いやな言い伝えを聞いた。それは『カモシカを見ると留年する』というものだ。
カモシカって。国指定天然記念物じゃねーか。
心配しなくてもカモシカなんて見られないだろうと、それを聞いたときおれは思った。
でも比較的高い確率で見ることができてしまうらしい。
それも野山に楽しくピクニックにいった際などではなく、町中の日常生活のなかで。
学校の横には小ぶりな山が寄り添っている。
この山を越えるとその向こうには医学部のキャンパスがある。
そして山はカモシカたちの快適な住まいなのだ。
テレビで衝撃的なュースを見た。
大学のそばの民家に、元気なカモシカが乱入して部屋の中をめちゃくちゃにして走り去っていったのだ。
民家のおじさんは割れた窓ガラスとひっくり返ったテーブルを前にして「しょうがないよね」と寂しく笑った。
カモシカだよ? しょうがないの? マジで?
なんてこった。俺が目にしたいと望んでいるのはきれいな女子学生や、もしくは自分の目標とすることのできる俺のライバルとなりうる遊び上手で頭の切れる男たちであって、断じてカモシカなんかではないのだ。
俺はカモシカを見ない。絶対に見ないぞ。
何でか、言えば言うほど危険が高まっているような気がしたものだが、俺は負けない。
お盆明けの時期に、三日間一切バイトを入れない期間をスケジュールのやりくりをして作っておいた。
ラーメン・ライダーズの喜多方遠征に参加するためだ。
春先俺はある失敗をしていてしまって、サークルのメンバーにはあまり顔を合わせたくないものがいたが、会いたい人間も数名いるので、俺はその旅行をまあそれなりに楽しみにしていた。
遠征当日の早朝、集合場所に向う途中で歩と一緒になった。
「おはよう高木くん」
「おう、おはよう。なんだその格好は」
彼女が着ているTシャツは、四角い升目上に赤と白が交互に配色された、サッカーのクロアチアのユニフォームに似たようなものだった。
派手というか、変だ。
「お泊まり旅行バージョン」
「どこに売ってんだ、そんなの」
遠藤歩は会いたいほうの人間に属する。こいつはいい奴だ。
人が悩みを相談すれば一緒になって真剣に悩んでくれる。
珍妙なところがあって、学食でうどんとそばを同時に注文して並行に食べたり(すげー量になるぞ)、校内の池を泳ぐ鯉を虫取り網でつかまえようとして怒られたりしている。
でもいいやつだ。
彼女の本質はものすごく真面目なのだと思う。
始めは能天気そうな女だなあとしか思ってなかった俺も、この数ヶ月で段々とわかってきた。
あと、胸が大きい。
みどりがいた。
「おはよ」
彼女は俺の呼びかけに、声は出さず口の動きだけでおはようと返した。そしてカーテンが朝方の微風になびく程度に手を振った。
みどりは静かに笑う。
彼女の微笑み方は何かに似ていると思っていたが、先日ようやく思い当たった。
それは夜中までのバイトが終わり疲れ果ててようやく帰る途中、見上げた空に浮かんでいた新月の光。
見渡す限りの闇につけられた一筋の切り傷のように見える。
本当はこの闇を取り払えば、そこにはいつでも光に満ちた青空があって、だけど今は訳あってそれをいっとき隠しておかなければならなくて、しかしそれでも全ては覆いつくせず、もしくは確固たる彼女の意思を示すものとしてその光は夜空をささやかに切り裂くのだ。
彼女の服装は白いノースリーブと紺色のスカート、丈は長くて膝を全て隠している。そこには僅かに花柄がちりばめられている。
大き目の麦藁帽子の影にのぞく瞳は俺のことを観察するように見つめながら「君らは国旗か?」といって、また月のように薄く笑った。
歩のクロアチア模様に張り合うつもりなど毛頭なかったのだが、今日の俺はイギリスの国旗を模したTシャツの上に黒いデニム生地のシャツを着ていた。
俺は彼女に借りが一つあるのだった。
そのことを、俺はこの旅行の途中でようやく知ることになる。
こいつは「ほう、一つだけだと思ってるの?」と淡々と手帳をとりだして、あれとこれと、これだって借りだわよね、それともあなたの常識ではこれは借りでないとでもいうのかね、などとびっしり書かれた小さな文字を赤ペンでチェックし始めかねない。そういうやつだ。
確かにそうなのかもしれないが、とにかく中でも明確な借りが一つあった。
諸先輩方に俺は軽くあいさつをしてまわり、殊勝なところを見せる義務を果たした。
俺が春にぶつけた車の持ち主の加賀さんは、表情を一切変えず目の動きだけで返事をした。
逆の立場なら俺でもそんな態度になってしまうと思われるので、これは仕方がない。
彼の車はいつもの集合場所である駐車場の端に停めてあった。
黒のプレリュード。
俺はこの大人の色気に満ちているかっこいい車に対して、あるいは持ち主に対するもの以上の申し訳なさを感じていた。
ごめんなプレリュード。上手に運転してやれなくて悪かった。お前にもう触れることはないだろうことが残念だよ。
和さんが、みどりに何か渡していた。小さなキーホルダーのようなものだ。
みどりはとてもうれしそうだ。和さんは同じものを歩と俺にもくれた。サツマイモに手足が生えていて、無骨な眼差しでこっちを睨みつける変なキーホルダー。
「和さん、これは?」
「鹿児島行ってきた。暑かったぜ」
彼はかなり日焼けしていた。
並んで立つと頭一つも向こうの方が背が高い。薄手だけど黒い長袖に身を包んで、バイクで旅行する為の戦闘態勢。
部長のところに行ってなにやら話し込みだした。
「鹿児島って」
手にしたサツマイモとにらみ合いながら俺が呟くと、コンちゃんが横にきて「バイクで旅行してきたのよ」と言った。
「へえ、バイクで。いいすね。でもコンちゃん疲れたんじゃないですか」
「わたしは行ってないもん」
コンちゃんは目を細めてサツマイモを至近距離で見つめた。
少しより目になって、それすらも可憐だ。
彼女が近づくと長い髪からいいにおいがした。
ウェーブがかかった茶色い髪の毛を今日はポニーテールにしている。
和さんと二人乗りをするので、彼女の紫のシャツも長袖。下はジーンズ。
「旅行は行きたかったんだけどね。バイクに二人乗りで鹿児島なんて過酷すぎるから、他のところにいきたいっていったの。わたしは夏の北海道に行ってみたかったのよ。電車を使って。バイクじゃなく。そしたら和也ったら何の躊躇もなく、じゃ俺は一人で行ってくるわ、って寝袋かついで行っちゃったのよ。ねえ、優斗くん。これってどう思う?」
「どうしたもんだか。和也さんらしいっすねえ」
コンちゃんはぷんぷんと思い出し怒りしている。それすらも可憐だ。
彼女は俺がつまんで掲げているサツマイモのキーホルダーを、指でえいっと弾いた。
「あ」
「ん、何? 優斗くん」
「指輪だ」
「おっ、目ざといねえ」
コンちゃんの右手の薬指には銀色の指輪が輝いていた。先月彼女を見かけたときには間違いなくそんなものはなかった。
「和也が買ってくれた。誕生日プレゼント」
「なんだあ、言ってくれれば俺も何か準備したのに。ちなみにいつなんですか」
「ふふ、本気にしちゃうよ。あのね、八月七日。のび太と一緒。優斗くんは?」
「十二月十八日」
「心に留めて置こう」
「光栄です」
コンちゃんはしとやかに微笑を見せてくれた。
いいなあ。もって帰りたいなあ。
それから間もなく参加者が全員揃った。
今回は総勢十七名。バイク組は和也さんを含む三台。車は四台。
部長さんが出発の前に、みんなの中心に歩み出て注目を促した。
その後ろからヘルメットを手にした和也さんが続いた。
「出発の前に和からなんか話があるそうなので、ちょっと聞いてやってよ」
「なんだなんだ」
「婚約か?」
笑えぬ。
「えっとですね。今日、途中でちょっと別行動とらせてもらいます」
「いつものことじゃないか」
「高木と一緒に寄り道します」
はい?
サークルの面々が俺のところを見た。なんだ。どういうことだ?
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