間章

間章

 困った。どうしても眠れないではないか。


 わたしは一旦あきらめて、ベットからはいだした。


 そして本棚の端からアルバムを取り出し開いてみた。

 

 それは大学に入ってから撮った写真を集めたアルバムで、夏の喜多方遠征の際の写真は大きな割合を占めていた。


 悔しさ、という感情から、人が解き放たれることは永久にないのだろうか。わたしは思うことがある。


 屈辱をばねにして大きく、強く、しぶとく成長していくことは素晴らしいことだ。


 悲しい思いを一切しなくてもすくすくと伸びていくことのできる人というのは、世の中にいるのかも知れないがわたしはいまだかつて出会ったことがない。


 和也さんは大志をわたしに語ってくれた。


 自分だからこそできる役目を果たして、叶うならば世界を変えたいと。


 しかし、わたしに勇気を与えてくれたその言葉の裏にすら、『普通』というくくりの中にまぜてもらえなかった彼の哀しみが重く積み重なっていた。


 彼がもしもっとエキセントリックな気性の持ち主で、自分は天才である、自分を理解できない世間はバカだ、といきまくことができるくらいだったら、まだ楽だったろう。


 いつもと変わらないようで、本当は少し違う夜。おまけに雨まで降っている。


 こんなときわたしは普段ならば見て見ぬふりをしている物事とまともに目が合ってしまい、考え事が止まらなくなってしまう。


 ある幸運な人間が自分の成したことによってかつての無念を晴らすことができたとしても、恐らくその全てが消えてなくなるわけではない。


 付随する、忘れたふりをすることしかできない切ない思い出は、無数にあるのだと思う。


 それに糧とすることが出来たからといって、悔しい目にあってよかったと心の底から人は思えるものなのだろうか。


 世間知らずのままで構わないから何一つ挫折のない人生を送ることができたら、あのときの悔しさを避けて通ることができていたら、そのほうがどんなによかっただろうと時に思ってしまう人の心の弱さを、笑うことのできるものはこの世にいるのだろうか。


 一方、(今のところ)何の挫折もない快調な人生を歩んでいる人間がいたとして、その者には理解できない感情、その存在すら認識できない思考、気付かずにいられない自らの欠落がどれほどあるか。


 それとて、自分ではどうしようもない何かに翻弄された末の結果であるというのに。


 アルバムのページをめくり、喜多方遠征のときに撮った和也さんと高木くんが二人で写っている写真に目が留まった。


 畳敷きの休憩所でテーブルに向かい合ってあぐらで座る二人は、ひどく疲れ果てているようにみえる、顔色もなんだか青白い。


 猫背でテーブルに肘をついたままで、カメラを向けたわたしに弱弱しいピースをして見せた二人。目が全然笑っていない。


 喜多方までの移動は確かに長距離ではあったが、それにしたってこの二人がどうしてここまで憔悴しているのか。


 わたしは一応その仔細を聞いてはいるが、実際に体験したものでなければ、その迫力を正確に伝えることは困難なのではないかと思われる。


 なのでここはあえて、我が親しき友高木くんにご登場願い、その一部始終を語っていただくことにしよう。


 わたしはどうにか眠気が訪れてきたようなので、ぬくぬくと眠らせてもらいます。思い出話を夢にでも見ながら。


 しかるべきときにまた会うこととなるでしょう。


 それでは高木くん。バトンターッチ。

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