第二章⑨ 遠藤歩の見た夢

 歩と話していたのは背の高い男の子だった。


 細身だが足腰や肩にしっかりとした筋肉がついていて、一見して野球をやっている人なのだろうということが推測できた。


 そしてなんとまあ、えらく格好いい。


 くっきりとした目鼻立ちの彼は、歩を見て親しげに笑っていた。


 男の子を見上げる歩の表情はこちらからはわからない。


 二人は球場の柱の影に立っていた。人目を避けているようだった。


 わたしはぜひとも紹介してもらいたかったが、思いとどまった。


 試合は終始、秋高のペースだった。


 送りバントを多用して、派手ではないが堅実に一点ずつ得点を重ねていく。


 守備も安定していた。


 どんなスポーツでもそうだろうが、ミスをやらかしてしまうとそれは流れを変えるきっかけとなるのだが、そうはさせない。


 わたしはまた球児たちとの間に壁を感じた。


 実際に両者を隔てている金網のフェンス以上に高い壁を感じた。


 高校生の頃はわたしもこの向こう側にいたのだ。


 わたしが立っていた場所は体育館のコートで、うちのバスケ部は強いチームではなかったけど、少しでも理想のバスケに近づけるよう毎日四苦八苦していた。


 壁のあっち側にいる限り、いつか何かを成し遂げる可能性はゼロではなかったのだ。


 歩と男の子はさっきの場所からいなくなっていた。


 そのあと外に出る階段の途中で歩とすれ違ったが、「油断禁物、油断禁物、一回負けたら終わっちゃうんだから!」と元気よく自分に言い聞かせるように叫んで、彼女はすぐに走り去っていった。


 外の壁にもたれかかって座り一人休憩をしている高木くんを見つけたが、わたしは声をかけなかった。


 彼はなにか車のカタログのようなものを、思いつめるような眼差しで眺めていた。


 この大会。最後に優勝することになったのは、あの小柄な好投手を擁した秋田商業だった。


 秋田高校は、この日は快勝したものの次の試合で球運つたなく敗れてしまう。


 後日のことになるが、バイトも終わったある日、駅前のデパートで買い物をした帰りにわたしは広場に人だかりを見つけたことがある。


 その奥に並んでいたのは、まさに今これから甲子園に向おうとする秋田商業の選手たちだった。


 壮行会が行われていたのだ。


 わたしは背伸びをして、何重もの群集の壁の隙間からのぞく選手の姿を見ようとした。


 あの小さな左投手の姿がひと目だけ見えた。


 彼らは甲子園でも健闘を見せた。


 この日の秋田高校の選手の勇壮な姿がわたしの中で強い印象として残っているのは、次の試合で敗れてしまった、というはかなさの記憶と重なりあっていることが、理由の一つだと思う。


 試合が終わる間際に歩と話すことができた。


 彼女は、母校の応援席とは離れたところに一人でいた。


 大量リードしているにも関わらず、心細そうな表情でグラウンドに目をやっていた。


「あーゆみっ、まだ心配?」


「お、長友。いや勝つとは思うけどね」


「さっきさ、誰かと会ってた?」

 歩はグラウンドを向いたままだったが、一瞬、試合の様子は頭から全て飛んだようだった。


 固まった表情の奥で、いろいろなことが巡り巡っているようで、わたしは結論が出るまで少しの間待っていた。


 歩はゆっくりとこっちを向いた。


(みーたーなー)という彼女の心の声が聞こえたような気がした。


「白くなったって言われたんじゃない?」


「ま、まあね」

 白くなった歩のかわいいお顔は、今は赤くなっていた。


 彼女は、いつも学校で男の子達と屈託なく楽しそうにおしゃべりをしている。


 わたしよりも確実に男子の間では人気があるはずだ。

 

 男の子と二人だけで話している姿も何度か見ているので、端から見ている分には別に不自然なことではないのに、当の本人がこれだけわかりやすく取り乱してしまっては、これはもう自白したも同じことである。


 歩の過去の恋愛話については、出会ってからいままで具体的な話は聞きだせずにいた。


 わたしのほうも歩にそういった話をしたことはない。


 全く過去に何もないわけではなかったが、その記憶はタイムカプセルのように入れ物に蓋をして、地面に埋めて熟成している最中なので、今はまだ開けることができない。


 いつかそのうち、何かの拍子にひょいっと彼女に伝えることができたらいいと思う。しかし、それは今ではない。


 歩はどうなのだろうか。


 わたしは、軽い口調で歩に聞いてみた。そのほうが話しやすいかと思ったのだ。


 彼女とて話すときではないのならば、それでいい。


「なんだか訳ありの二人に見えたよ。すごくカッコいい人だったじゃない。野球部?」


「訳なんか、なんにもないよ。あいつ、試合見ないで帰っちゃったし」


「へ? 何しにきたのよ」


「うん、母校の試合を見るつもりでもちろん来たんだけどね。球場の雰囲気を目の当たりにしたら、どうしてもいたたまれなくなったみたい。ちょっと今大変なのよ、あの人」


「ふうん。事情聞いてもいいのかな? 言いたくなければ無理には聞かないよ」

「大丈夫。むしろ長友には聞いておいてほしいかも」


「嬉しいこと言ってくれるね」

「ふふ」


 歩の固い表情がようやくほどけた。


「あの人ね、うちのエースで四番だったのよ。投げても、打っても、もの凄かったんだから」

「へえ」


「それであの見た目でしょ。もててたわよ、尋常じゃなく。甲子園に出たことでそれは頂点に達したわ。あの頃、女性週刊誌で変な企画があったのよ。『抱かれたい甲子園球児ベスト10』みたいな、聞くほうも答えるほうもなに考えてんだって言いたくなるような、軽薄な企画。だって女性週刊誌って基本的には年いったおばさんが読むものでしょ」


「まさか、それにランクイン?」

「というか、優勝してた」

「優勝ぉ?」


「甲子園から帰ってきてからは、普通に道端でサインを求められるようになったわ」

「想像のつかない世界だ」


「そんなスター様がね、わたしがずっと好きだった人なの」

「うん」


 わたしは、特に驚きはしなかった。


「相手にされなかったけどね。チームの仲間として、ある程度は仲良くなれたけど、彼女とかそういう対象としては最後まで見てもらえなかった。気持ちを伝えたこともあったけど、駄目だった。あの人には当然何人か付き合った女の子がいたんだけど、わたしは平気なふりして見ているしか出来なかった。笑っちゃうでしょ。わたしみたいな、普通きわまりない人間が、あんな怪物相手にいつかは奇跡が起きるなんてかすかにでも思っていたんだから」


「まったくおかしくない」


 にこにこしながら話す歩が見ていられなくて、わたしは顔をグラウンドの方に背けながらそう答えた。


「ありがとう、長友」

「本当にそう思っているのよ、わたしは」


「あの人、告白したところでわたしをさっぱり特別扱いはしてくれなかったけど、ただ一点なんでか最後までわたしの事だけは名前じゃなくて苗字で『遠藤』って呼んでたなあ。さっきもそう呼ばれて、懐かしかった。特に意味なんてなかったのかも知れないけど、ちゃんと好きだって伝えたわたしのことを、他の気安い友達とは少しだけ区別してくれてたのかな。そんなほんのちいさな違いでも、わたしは嬉しかったんだ。でね、長友。あんたにこの際はっきり言っておきたいことがあるの」


 そのときちょうど試合が終わり、大きな歓声と溜息に球場が包まれた。


「よし、勝った。ねえ長友。わたしはとてつもない無謀な相手を本気で好きになって、真正面から取っ組み合って木っ端微塵になった人間なの。だから、だからね。長友がこれからどんな選択をして行動したからと言って、決して笑わないからね。そんな資格がわたしにはないし、それにわたしは駄目だったけど、自分に近しい人にせめて幸運が訪れることを本気で見てみたい。あんたに重圧をかけたいわけじゃないんだけど」


 呆然、といって差し支えない目で歩をただ見つめるわたしをよそに、秋田高の選手たちは応援席の前で一列に整列して、深く礼をした。


 観客席から大きな拍手が起こる。


 ダッシュでベンチへと戻っていく選手たち。厚い壁の向こうの存在にも思える選手たち。


 そのとき、その中の一人が不意にこちらを見たような気がした。


 そして隣の選手に声をかけて、彼はこっちを指差した。


 歩が「やっべ、見つかった」と言った。


 グラウンドの男の子たちの何人かが歩に向って手を振り、拳を突き上げた。


「おーい、歩さーん。勝ったぞー!」

「うわ、歩さんが小奇麗になってる!」


 選手たちは、命を削って手に入れたかけがえのない一勝を誇って、飛び跳ねた。

 

 歩は右の拳を高く掲げて応え、「おーい、おーい!」と後輩たちに叫んだ。


 わたしは小さな体を一杯に伸ばす歩の後姿をずっと見つめていた。


 それは、選手たちとともに、光に包まれているようにわたしには見えた。


 選手たちがベンチに消えると、歩は大笑いしながら、ほんの少し涙を滲ませながら、わたしの肩をばしばし叩いた。


「痛い、痛い、痛い」

「小奇麗ってなによ、小奇麗って。誉めるんだったらもっとちゃんと誉めろよなあ。いやあ、長友どうしよう。後輩に誉められちゃったよ。わたし嬉しいよう」


 後輩たちにとって、それから四番でエースだった彼にとっても、きっと遠藤歩はいつまでたったところで、かつて一緒に苦楽をともにした愛しい存在なのだった。


 歩のあこがれの君はこの時期大変だったそうだ。


 進学した大学の野球部で人間関係が上手く行かず、彼の人生のなかで一番苦しい時期だったという。


 野球を続けられるかどうかの瀬戸際だった。


 そんな状況だったから歩にだけ現状の報告をして、球場をあとにしてしまったのだ。


「でもあの人はきっと大丈夫。スーパースターだもん」


 歩がそういって笑ったのを、あのときの彼女の背中とともによく覚えている。

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