第二章⑦ 和也さん深夜にさらに語る


 和也さんの話は続いた。


「いいやつだな、みどりは。そんでさ、普通に考えたらさ。俺のようなタイプは権力の世界ではあっさり淘汰されるはずなんだよね。多分、おれと似たような青くさいこと考えて、何も出来ずに消えて言った人間なんて、世界中に数えるのが面倒なほどいるはずだ。でもしょうがないじゃないか。もしかして俺ならっていう思いがどうしても消せない。問題なのはそこだと思うんだけど、おれは自分に途方もない期待をしているんだ、きっと半端なく大きな。普通にできないからこそ、特別なやりようがあるんじゃないかって。たとえば湾岸戦争の時は歯がゆかった。どうにかならないものかとずっと思ってた。このままいっても中東と西側諸国は泥沼にはまっていくだけだ。今までの歴史をちょっと振り返って眺めれば、これからの展開は誰でも分かっているはずなんだ。それなのに日本はアメリカに協調しているだけで何やってるんだって。足並みが揃っているなかで、一人で違う方向に向うことが平気な俺には、なにか役目があるんじゃないかって。地球に人間が現れてから今まで、あわせて何人が存在しているのかなんて想像も出来ないけど、その誰にも出来なかったことが俺に出来てどうしていけないんだろうって。本気で思ってるんだ。ダメで当たり前だけど。その可能性が本当にないのか、ちゃんと確認しないで死ぬわけにはいかないって。こうして話していると、なるほど間抜けなくらいに壮大なほら話に自分にだって聞こえるけど、でもこれはある意味ではすげー単純な話なんだ」


 何十発もの花火が轟くのにも似る語り口だった。


 小松和也は普段、傲慢な面がまるでない人間だ。しかし能力の高さは疑うべくもない。


 高校時代の成績は相当に良かったらしく、いまも数学学科でトップクラスを維持している。


 大学受験の際、親や教師は彼に大きな期待を寄せたらしいが、彼は誰の進言にも耳を貸さず、自分の一存だけでこの学校を選んだ。


 そのときの彼にとっては、教師の道が一番ぴんと来たからだ。


 はぐれものと自分ではいうが、とくに計算をしているようでもないのに何故か敵を作らない。風に揺れるススキのようにしなやかで、自由で。そんな彼が突然こんな途方もない話をしたことに驚き、その勢いに軽率に飲まれただけなのかもしれないが、和也さんならばその大きすぎる理想に限りなく近づくことができるかも知れないと、わたしはこのとき真剣に思った。わくわくしていた。


「いいのかな。わたしなんだか気が楽になった。まだ、自分のなかで考えがまとまりきってないけど、和也さんの話聞いてたら勇気が出て、気が楽になった。」


「よかった。考え無しなのも、考えすぎるのも、どっちも良くないから」


「うん、ありがとう」


 ぼを~ん。

「だは」

 振り子時計。みどり驚愕。和也さん伏笑。


「いや、もう慣れろよ。三十分おきに鳴るんだよこれ」

「だって」


「いい時間になっちゃったな。もう帰って寝ないとまずいだろ、みどり」

「うん、帰ろっか」


 名残惜しかったがわたしは立ち上がった。薄いズボンのポケットを探り財布を手にする。

「いいよ、俺払う」

「えっ、いやいやいや、そんなの悪いよ」


わたしは慌てて手をふる。


「カッコつけさせてよ、こういうときは。そのかわり、みどりもいつか誰かに奢ってやって」

 和也さんは、そういって二人分のお金を払ってくれた。


 店の奥さんはほんの僅か口元に笑みを浮かべて、おつりを返した。


 店を出るときに「おまえ今日も丸いなあ。またくるよ」と和也さんは、にょもにょもと猫を撫でた。


 わたしもごそごそと猫のお腹をまさぐった。あったかい。


 そして触り続けながら「深夜ラーメン屋上海、お前の勝ちだあ」と宣言した。


 秋田大付近の深夜ラーメン屋派閥争い。今日をもってわたくし長友みどりは上海派となりました。


 和也さんが振り返ってにっこり微笑んだ。


 巨猫は一瞬気持ち良さそうに目を細めたのだが、すぐに元の不機嫌な顔に戻ってしまった。


 店の中と比べると、外はわずかに涼しさを感じた。


「あしたも、バイトしっかりね」


「うん。またミスはしちゃうかもしれないけど、全力出す。ねえ和也さん。今日はもう自分のアパートに帰るの?」


「ああ、帰るよ」

「そ」


 和也さんとコンちゃんが、二人してコンちゃんのアパートから登校してくる姿は、何度か目撃されている。


 今夜も和也さんは、本当はコンちゃんのアパートへと向うのかもしれない。でもそれ以上わたしには追求できなかった。


 しかし、それはできなかったわたしなのに。


 和也さんは「さて」と言って一歩後ずさり、青と白の綺麗なバイクに跨ろうとした。


 彼が遠ざかり始めたそのとき、わたしは混乱したのだと思う。熱と、計算と、拒む気持ちと、感情を明確に説明するのは叶わぬことだけれど、それによって導かれた行動はごく簡単に描写することができるものだった。


 わたしは和也さんの左腕を掴んだ。強く掴んだ。自分のもとへ引き寄せようとでもしたかのようだった。


 すぐそばを通る車の、低いエンジン音とタイヤが道路を削るように転がっていく音がした。


 店の中のざわめき。あの猫がわたしのために鳴いていたのだろうか。


 長い時間だったように思う。


 和也さんは何も言葉を発せず、その大きな瞳にはわたしの行為によってどんな光が新たに生まれたわけでもなかった。


 彼の沈黙は、拒絶だったのだろうか。それともわたしに何かをいう猶予を与えてくれていたのだろうか、


 どちらにしても定められた時を使い切ったわたしは、彼の手をはなした。


 和也さんは何事もなかったかのようにバイクに跨り、走り去っていった。


 夜の空気を震わせたマフラーの音は、いつまでもわたしの耳に残った。


 わたしは帰る途中で、さっきとは別のコンビニに立ちよった。ここまで遅くなってしまったのだから、もう十分十五分ここにいたところでたいした違いはない。わたしは本棚の前でしゃがみこみ、少年ジャンプの続きを読んだ。


 これが、わたし史の中で『平成上海事変』と後に呼ばれることになった、一夜の出来事である。

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