第二章⑥ 和也さん深夜に語る
ラーメンを食べる手を止めるのはもったいなかったけれど、切り出された和也さんの言葉に、彼に聞いて欲しい話が自分の中からあふれ出してきた。
わたしは箸を置き目の前の窓ガラスの暗闇に浮かぶ自分を一瞥してから、話し始めた。
「自分がちゃんとした一人前の勤め人になれるのかなって、子供のころから考えたことはたまにですけどありました。でもそのときは気難しく考えなくても、大人になれば多分何とかなる、で済ますことが出来たんです。でも、なんていうか、制限時間が自分で気付かないうちにいきなり残り少ないところまで来ていたような、それなのに準備がちっとも整っていないような、そんな焦りを今感じています」
「みどりはあせってんの? 子供の頃と今のみどりは違うの?」
「選択しましたから。進路を決めるときも悩みましたけど、結果、教育学部国語学科に入ることをわたしは選択して、そしてそれは叶いました」
「うん、よくやった」
「小学校の先生になりたいんです、わたし。だから頑張りたいんです」
「俺は中学校の教師志望。それから陸上やってたからさ。その顧問もできたらいいかなとは考えてる」
わたしはうなずいた。
「俺も選択はした。でもそれは絶対ではないよ」
和也さんはそういって、麺をすすった。
「絶対ではない? 教師にならないかもしれないってことですか?」
「教師になるつもりがあってこの学校に入ったのは俺だって同じだけどさ。でもそれは、そっちの方向に向って一歩進んだってだけであって、教師になる道以外の方向を壁で塞いだわけではない。だってこの先何があるかなんてわかんない。ものの考え方だって間違いなく変わっていくだろうし。ほかになりたいものができたら方向転換することに抵抗はない」
わたしはうつむいた。そして考えた。お店の中のざわめきが耳に響く。上を見上げれば電灯の柔らかい光がわたしを眺めていて、横をむくと巨猫がわたしを睨む。
わたしは目を逸らして、入り口の横の本棚に並ぶ、油で湿って少々汚くなっている雑誌の列をみた。
巨猫はのそのそと本棚とわたしの間に割って入ってきて、そしてまたわたしをじっと睨む。
猫め。あんた、実はわたしのこと好きでしょ。
「ま、みどりの考え方が一般的だろうから、あまり俺の言うことなんか気にしないで」
「そうじゃないんです」
わたしは和也さんのほうを向いた。巨猫が初めて鳴いた。シンプルなニャーではなく、なんかごにょごにょと、明らかになにか猫語を喋っていた。単語と、文法の存在がそこには感じられた。
「和也さんの話を聞いて気付いたの。わたしは心のなかで教師以外の道をふさいでいることを。後がない状況を作って、自分を追い込むことが良い方法なんだって。どうしてだろう。こうして言葉にしてみると何か違和感がある」
「ビール飲む?」
「え?」
「いや、俺のせいで変に迷わせちゃったかなって思って。なんだったら責任もって話聞くから。時間かかってもいいから」
「ありがと、和也さん。でもお酒はいい」
「そう?」
「お酒飲むと、心身ともに萎びちゃうんですよね。弱いんだと思う。飲めば飲むほど元気になる歩が信じらんない。わたしはたぶん真面目な話をしたい時はお酒抜きのほうがいいタイプなんだと思う」
「うん、わかった。じゃあ酒抜きで。とりあえずラーメン食べちゃおうか」
「はい」
それから牛タンラーメンを最後まで美味しくいただいたわたしは、ふうっと息をついた。
ぼを~ん。
「わあ」
振り子時計が鳴った。またも飛びすさわんばかりにわたしは驚く。そしてテーブルに突っ伏して肩を震わす和也さん。
わたしは彼をじとっと見つめた。時計は十二回、わたしをあざ笑うかのように鳴り続けた。
店のなかはお客がまだ残っているけど、満員ではないので居座っていても迷惑ではないと思う。
「えっとね。和也さん。予備校での話は聞いた?」
長友みどりの乱心。駅前予備校にて。
「うん、聞いた。コンは怒ってないよ。みどりの心配してた」
胸が痛んだ。わたしは今日この短い時間で、和也さんにどんどん近づけている気がしていた。しかしコンと呼んだ彼の眼差しの放つ温度は、その名をもつ者が小松和也にという人間にとって他の誰とも違う、彼の中の特殊なカテゴリーにぽつんと一人でいる存在なのだということを語っていた。
そしてそれは、わたしに宣告していた。自分に入り込めるのはここからここまでなのだと、ある場所で明確に線引きをしていた。
出会う順番が何か意味を成しているのかは、わたしには分からなかった。
わたしの胸中に浮かんだのは、例えわたしと和也さんがまず初めに出会っていたとしても、一年後現れたコンちゃんは、どんな立場での出会いであろうと、自然にきっと彼と惹かれあうのだろうということだった。
そして結局わたしは遠いところから二人を見つめるしかできなくなるのだ。
わたしと和也さんは、気が合うほうだとは思う。しかし、それが確認できたところで切なさは増すだけだった。
『話してみたら最初の好印象とはちょっと違っていた』とでも、無理やり思い込んでいたほうがきっと気分は楽だった。
「子供のころは先生が物凄く大人に見えて、平気な顔して授業やってるように見えたけどさ」
黙ってしまったわたしがよっぽど予備校の件を気にしていると思ったのか、和也さんは少し首を傾けてわたしの様子を眺めながら話す。
「実際はきっと、そんなにいつも平常心ってわけでもなかったんだと思うよ。何十人もの目にみられて、教室のまん前で一人立ち続けるってのは大変なことなんだよ、やっぱり。ヒステリー起こして職員室に帰っちゃう先生とかいただろ」
「いた。あれ、わたしすごく困惑した」
「みんなで呼び戻しに行くんだよな。泣きながら」
「ああいうときって職員室では、ほかの先生たちどんな感じだったんだろう」
「あれ多分ねえ、演技でキレてる先生もいたと思うな。教室でると平然としてて、ほかの先生に、おっ、やってますな、とか言われて」
「したたかだ」
「それでいいんじゃないの。俺、大学の後半でそのうち、怒って教室を飛び出す練習が極秘で授業に組み込まれているような気がするんだよね」
「講義で?」
「生徒がうるさいときの暴発の仕方概論」
「なんだそれ」
わたしは体をのけぞらせて大笑いした。
巨猫がそんなわたしを見て苛立ちを隠せずにいた。
わかっているよ巨猫。わたしには君の本心がわかっている。
でもわたしは笑うんだ。何も気付かない振りをして笑うんだ。
「和也さん、教師以外にやりたいことって、具体的に何かあるの?」
「うん、ある」
「教えて」
「やだよ。言ったら減る」
「それじゃあ、わたしはもやもやしっぱなしで今日が終わってしまうではないですか」
「そういうもん?」
「わたしはそういう考え方する和也さん、好きなんです。同意したいんです。ですからもう少し詳しく教えといていただかないと」
「いただかないと?」
「あなたが、ただはっきり将来を決めてしまうことが怖くて、かっこいいことをいうことでなんとなくぼかしているだけである可能性を、わたしの中で完全否定できなくなる」
「ほう」
和也さんの大きな瞳がきらめいた。
「言うね」
彼は嬉しそうだ。あれ、わたしいまちらっと好きとか言わなかったか?
「俺はさ。自分のことをはぐれものだと思ってる」
「そういえばよくはぐれてるわね和也さん。気付くといなくなってる」
「好きでやってる場合もあるけどさ。集団の中で、話題でもなんでも、皆にあわせるつもりでいたはずなのに気付くと自分だけ違う場所に迷い込んでる事がある。コンみたいな真人間が良く俺なんか選んでくれたもんだよ」
「え、でも聞いたよわたし。コンちゃんのほうからアプローチしてきたんでしょ?」
「なんでそんな情報をみどりが持ってる」
「それは言えないなあ」
「ああそう」
和也さんは顔を背けて照れた。それからあっちを向いたままで呟いた。
「どっちが声をかけたとかじゃなくてさ。迷子になってる俺をわざわざ好き好んで見つけに来てくれたようなものなんだよ、コンは」
わたしは返事をしない。このときの気持ちは、悔しかったんでしょ、と問われればおそらく否定はしない。
「俺はそういうやつだからさ。さっきの話だって、考えて考えて悟った気になってるというよりは、そう考えるしかなかったってのがより正確だと思う。俺のとりえは心が身軽だってことだけなんだわ。で、卑屈になっててもしょうがないじゃん。そしたらもうワンステップ登って考えるわけだ。こんな俺だからこそ出来ることってなんだろう?」
わたしは黙って話を聞いていた。
自分からすれば和也さんは色んなものを持っているように見えた。
でも価値を決めるのは本人だ。
まばゆい宝石を、これは石ころだと言い放つ権利が人にはあるのだ。
「俺みたいのが、あえて人を束ねる仕事をしようと思ったらいったいどうなるかな。人の上に実際立っている人間ってのは、まずその全部が、人の上に立っているというその状態そのものが好きなやつだよ。その立場を有効につかって、世の中を本当の意味でよくしようなんてことは、心の中の何割にかは存在しているんだろうけど、それは、自分の地位を守ることよりか優先順位の低い問題だ。世間の威張っている連中を見ていると、俺にはそうとしか思えない」
彼はなおも言葉を続けた。
俺は人の上に立つことなんて興味ない。
金だって、暮らせる分だけあればいい。
でも世界は変えたい。この世界は変わる必要がある。
和也さんはそこで我に返ったようにわたしを覗き込みたずねた。
「俺、語っちゃってる?」
うん、とても語っちゃっている。けれども。
「構いません。どんどんいきましょう!」
夜はまだ長いのだから。
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