第二章⑤ ラーメン屋上海と、大きな猫
「なにやってんのさ、みどり」
「なにって、ご覧の通りこち亀を読んでます」
「ふうん、こち亀。俺はそのへんをバイクで走り回って、気が済んで帰ってきたところ」
わたしの風体は、無地の白いTシャツに安いデニム生地のゆったりしたパンツという、適当極まりないものであった。
夜中のコンビニにおめかしして来るのも変ではあるけどこれはひどい。
町中で知り合いに遭遇することは珍しくなかったが、まさかここで和也さんに遭遇するなんて。
せめてシャンプーの香りくらい漂わせていればいいものを。わたしは呪った、自分の横着さを。
二人きりで会うことができて嬉しかったのだが、望むならばある程度の長話をしても構わないこの状況であったが、外見の準備不足でわたしは戸惑うばかりだった。
残念だが、ここはほどほどに退くのが賢明だろう。
「みどり、腹減ってない」
「減ってます」
うっかり即答してしまった。
「俺も減ってんだよね。コンビニで軽めのものを買って食べるかそれともがっつり食べるか迷ってたんだけど、みどりにあったことで覚悟は決まった。夜中だというのにラーメンを食べてしまおう」
「やー、でも」
「そんなに遅くまではかかんないからさ。つきあってよ」
みどり陥落。わたしたちはコンビニを出た。
和也さんはバイクの椅子をぱかっと空けると、中からヘルメットを取り出してわたしに渡そうとした。
「いや、いいです。わたしは自転車漕いで追いかけますから、お店で合流しましょう」
「後ろに乗りなよ。自転車はここに置いていけばいいじゃん。帰りもここまで送ってくるからさ」
「それはほんとに、今日は結構です」
「そう? じゃあ、先に行って待ってる。上海に行くつもりだったんだけど、場所わかる?」
「あ、分かります。ビリヤードの向かいですよね」
いまのわたしは、昼間のバイトのせいで本当に汗臭いのだ。とても和也さんに密着する勇気はなかった。
それにしても、ジャンプを読んであとは寝るはずだったのに、なんとも予想外の展開が待ち受けていたものだ。
目指すラーメン屋、上海は秋田大学の近くにあった。
一階がゲームセンター、二階がビリヤード屋になっている建物の道路を挟んで向かい。
わたしがたどり着くと、和也さんは店の前に停めたバイクに寄りかかって待っていた。
「お待たせしました」
「入ろう」
平屋の店舗のドアをくぐるとランプを思わせるような暖かい明かりに包まれた。
壁際に大きな振り子時計が置いてある。味のある年代もののようだ。
カウンター席の木椅子には半分ほどお客さんで埋まっていた。
振り子時計の横、窓に面した席に座ろうとすると、丸い椅子のその上に更に丸いほわほわした物体が先客として乗っていて、わたしはそれを踏んづけてしまうところだった。
「ごめん」
球体はこっちを見た。大きな体の三毛猫。
重量感のある図体以上にその目には風格が漂っていて、わたしの全てを見透かしてから丸椅子から飛び降り、悠然と他のお客の下へと去っていた。
行った先ではビールを飲んでご機嫌の男子学生三人組にかまわれていた。
猫は不愉快を隠す気の一切ない不遜さだった。
わたしと和也さんは横に並んで席についた。
わたしの右手に和也さん。左手に振り子時計。後ろを向くと、巨猫がまたわたしの事を睨んでいる。
店長も体の大きな男の人で、黒いシャツから生える二本の腕は、プロレスラーのそれのようだ。
もう一人、小気味よく動き回る髪の短い背のすらっとした奥さん。化粧っ気は少ないけど、目のきりっとした美人さんで、本気を出して着物でも着れば演歌歌手でも務まりそうな素材の持ち主だった。
二人とも年は三十を少し越えたくらいだろうか。猫にならって、余計な愛想は振りまかない。
「秋大近辺で深夜営業のラーメン屋としては、ここが二強の一角。もう一つは知ってるよね」
「時代屋」
わたしは即答した。先日ラーメン・ライダーズの飲み会の際に、締めとして時代屋は行ったことがあった。
「サークル内でも派閥が出来ているけど、俺は上海派でさ。今日はみどりを篭絡してこっちに引き込むつもり」
「時代屋もおいしかったですからねえ。そんじゃ厳正に審査させてもらいますか」
わたしは振り返って、カウンター席の頭上に並ぶ手書きのメニューを端から眺めた。
「納豆チャーハンて、おいしそう」
「ラーメンじゃないのかよ」
「いや、でもおいしそうですよ」
「今日は俺のお勧めにしとけよ。あれ、牛タンラーメン」
和也さんはメニューを指差した。
「俺はいつも必ずあれを食べるんだ」
「へえ、いいですよ」
ただでさえ高カロリーのラーメンに、大量のお肉をトッピングしたものを食せと、あなたはそう言うわけですね。この時間帯に。
いいでしょう。受けてたちましょう。なんならスープまで飲み干して見せましょう。
店の奥さんに二人で注文した。奥さんはわたしと和也さんをひと目ずつチラッと見て、メモは取らず戻りながら体の大きな店長さんに向って注文を復唱した。
わたしはコップの冷たい水をのんで一息ついた。
「みどりたち、高校野球のバイトしているんでしょ?」
「はい。和也さんは何かバイトしてないんですか」
「家庭教師やってる。中学生の。夏休みの宿題を手伝ってやるんだ」
「和也さんは実家って、どちらでしたっけ」
「能代」
「能代。わたし練習試合で行きました。駅前にバスケットボールのオブジェがありますよね」
「バスケの町だからね。ゴールもそこらにあるよ」
コンちゃんは横手の出身のはずだが、ここであえては話題に出さないことにした。
「帰省してそっちでいいバイト先があるんなら、帰っちゃったほうが食費とか節約できるんだよな」
「ですよね」
「でもそんなのはまずないから、みんなこっちでぷらぷらしてるのだ」
「ですよねえ」
ぼを~ん。
わたしのすぐ横の振り子時計が鳴った。
「うお」
わたしは年頃の女の子にあるまじき低い声を発してたじろいだ。
「びっくりした」
和也さんのほうを見ると、彼はテーブルに顔を突っ伏して声を出さずに肩を震わせて笑っていた。
「ちょ、わーらーうーなー。驚いたんだから仕方ないでしょ」
「すげーよ。理想的な反応だよ、みどり」
ああ悔しい。
窓の外を見ると、またお客がやってきたところだった。男の人。ちょうど帰り際のお客と入り口のところですれ違って、彼はカウンターに座る。
その横を通り店の奥さんが、お盆にどんぶりを二つ載せてこちらにやってきた。
「牛タンラーメン」
奥さんは単語だけを発して、わたしと和也さんの前にラーメンを置いた。
和也さんは箸立てから割り箸を二本抜き取って、一本をわたしに手渡した。
色の濃いスープと細めん。刻んだたまねぎと、いいにおいを放つ小さく切られた牛タン焼がたっぷりその上を覆っている。
和也さんはスープを一口飲んで、それから麺をすする。コショウはかけない。わたしも食べてみた。
こりゃ美味しい。先日の時代屋は、太い麺に海苔が一枚それからなるとも一枚のっかった、中華そばの王道のようなスタイルと味だったが、それに対して固めの細麺の上海は、荒々しいというか力強さを感じさせる。
『戦国の習いを今に残す』というフレーズが頭に浮かんだが、絶対に伝わらないので「美味しいですねえ」とだけ言ってわたしは牛タンの切れを口に入れた。
歯ごたえのある牛タンは、塩コショウでしっかりとした味付けがされていた。たぶんそんなに高級品ではなかろうと思う。
しかし学生向けのこの店にそんなものは不要だし、ラーメンとのバランスを考えればこれが正しい。スープを刻んだたまねぎと一緒にすする。たまねぎが甘い。
「働くって大変でしょ」
水を一口飲むついでに和也さんが言った。
「大変です。とても」
牛タンを飲み込むついでにわたしは答えた。
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