第二章④ 大会NO.1投手、秋田商業の石川くん
この高校野球のアルバイトが決まったとき、わたしには一つ懸念があった。それは、また高木くんのあれがはじまってしまうのではないかということだった。
東北六県は高校野球のレベルが低い。甲子園で優勝したことが長い歴史の中で一度もない。いつも一回戦で大半が姿を消してしまう。
一方高木くんの出身である埼玉県は、全国に名の知れた強豪校をいくつも抱えている。
彼自身は野球をやっていたわけではないからいばられる筋合いなどないけど、秋田の野球のレベルを馬鹿にされたら、わたしはともかく高校野球のマネージャーをやっていた歩が黙ってはいられないのではなかろうか。
わたしはさっきそのことを歩に話したが彼女はいった。
「その心配はないと思うよ、少なくとも今日は」
スタンドに座ってわたしは折り詰め弁当の蓋をあけた。ペットボトルの冷たい緑茶を一口含んで、それから割り箸で漬物をつまんだ。
グラウンドに目を移して試合の様子を眺めると、わたしは歩の言葉の意味をすぐに理解することになった。
高木くんが意外そうに言った。
「あ、このピッチャーいい」
秋田商業の投手は小柄だった。
しかしその左腕から放たれるボールは切れ味するどく、コントロールも正確で、相手の打者に自分のスイングをすることを許さなかった。
「まっすぐがめちゃ速いし、変化球もいいな。俺、背が低いからさ。ああいうちっちゃいピッチャーが大きなバッターをめっためたに押さえ込む姿ってのは見てて燃えてくる」
感嘆の声をあげる高木くん。歩が補足してわたしに説明してくれる。
「一流の投手ってのはフォームがね、ストレートと変化球でほとんんど同じなのよ。それってとっても重要なことなのね。たとえ変化量の大きなボールを投げれたとしても、よく『フォームが緩む』って言い方をするんだけど、ボールが指先を離れるコンマ何秒か前で、バッターになんとなく、あ、これは変化球だなって気付かれちゃうと効果半減なのよ」
なるほど。わたしがやっていたバスケのフェイントと通ずるものがあるようだ。
また三振。きれいな腕の振りからの変化球が低めに決まった。
歩が高木くんの顔を得意げな表情で覗き込んだ。
「どうよ埼玉。この子が秋田のナンバーワンだ」
「俺は埼玉って名前じゃねえ。わかったよ認めるよ。これだけのピッチャーは関東にだってそうはいません。凄え選手だ。これでいいか秋田」
歩が拳を握り締めてよし、と力強くうなずいた。彼女のプライドは保たれたのだ。
わたしはテレビ局の人から拝借してきた大会プログラムのページをめくって、小柄なピッチャーの名前を調べた。
君の事は覚えておくよ。ありがとう、秋田商業の石川くん。
わたしもなんとなくいい気分になってエビフライをかじっているその横で、歩はなおもご機嫌だった。
「高木くんあのね、トレーバーが金田監督に顔を蹴られたのってこの球場なのよ」
「えっ、そうなんだ」
監督に蹴られた? なんだそれ。
二日間働いた時点で、わたしはかなり疲弊していた。
家で横になりテレビを眺めていても、次の日のバイトのことばかり考えてしまう。
思いのほか労働がストレスになっていた。困ったもんだ。
夕食はコンビニのお弁当で済ました。
いつもは高くつくので自炊を心がけているのだが、今はちょっと無理だ。
これから入ってくるバイト代をあてにして、多少は浪費してもバチは当たるまいという成金気分も働いていた。
シャワーは明日の朝でいいからもう寝てしまうかと考えつつ床に突っ伏していたわたしは、今週の少年ジャンプをまだ読んでいないことを思い出した。
「ふむ」
わたしはもっそりと起き上がり、枕元においてある目覚まし時計を見た。
十一時近い。
寝不足で明日の仕事に差し支えるようなことは避けたかったが、成金気分の思考の延長で、これだけ未体験の苦行に耐えているのだから一日の最後に少年ジャンプを読むくらいは許されるべきだとわたしは考えた。
アパートからすぐそこのコンビニまで、わたしは自転車を走らせた。
秋田は夏でも夜になると涼しい日が多い。六月までは息が白くなる夜もあるほどだ。
自転車をコンビニ入口の公衆電話の横に停めて、わたしは店内へと入った。
店内には口ひげを蓄えた店員。この時間帯はいつもこの人だ。
わたし以外にお客は男の子が一人いたが、その子が菓子パンを二つ買って出て行くと誰もいなくなった。
わたしは本売り場の前でしゃがんで、心置きなく少年ジャンプを読むことができた。至福である。
静かな時間だった。
考えてみれば実家で暮らしていた頃は、このくらいの時間にたいした用事もなく表にでることなどまずなかった。
でもこっちにきてからは、なにをするにも自由気ままである。
この辺りに住んでいるのは学生ばかりで、真夜中でもうろうろ出歩いている子達はあちこちにいる。現実から隔離したような、なんだかのんきな世界である。
わたしもある夜などは、この近くにある小さなゲームセンターにふらりと一人で入って、薄暗い中眠そうな顔で画面を見つめる男の子たち数名の横で、パズルゲームでぽちぽちと遊んだこともある。麻雀牌の絵合わせをして、二個ずつ消していくやつだ。
店の前にバイクが一台やってきた。そのエンジン音はわたしの耳に届いていたが、気持ちを漫画の方に集中させていた。
しかしわたしはある可能性に気付いて、顔を上げ窓の外をみた、そこにバイクの持ち主の姿はすでになく、わたしが横を振り向いた時そこには和也さんが不思議な生き物を見るような目で、しゃがんでいるわたしを見下ろしていた。
彼は緑と黒のチェック柄の半袖シャツの下に、黒い長袖のシャツという格好だった。
「こんばんは」
わたしから声を掛けた。ジャンプを開いたままで、顔だけ横を向いて。
「どうも、こんばんは」
二人で軽く会釈して、それから空気が抜けるような笑いが漏れた。
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