第二章③ 八橋球場でアルバイト
七月になった。
日差しが日に日に強くなっていく。
小試験やレポートが何件かはあったがたいしたことはなく、長い夏休みが始まった。
学生たちの過ごし方は人それぞれだ。
部活に明け暮れる人もいれば、高木くんのようにバイトでカレンダーのほとんどを埋め尽くしているものもいた。彼は実家の埼玉には帰らないようだ。
わたしはお盆の時期になったら十日くらい本荘に戻ろうかと思っていた。
先日わたしは、近所のホームセンターで安い姿見用の鏡を買った。
色んなお店を見て回って、自分の部屋の家具や飾り物が少しずつ増えていくのが楽しかった。
買い物は歩と二人のときもあれば、一人で気ままにさまようこともあった。
お財布と綿密な相談をそのたびにする必要があったが、これからバイトをしていけば好きなものがもっと買えるようになっていくだろう。
テレビ局のバイトに行く初日の朝。
わたしは姿見で服装の確認をしながら、徐々に自分に気合を入れていった。
暑さに気をつけるよう御達しが出ていたので、スポーツメーカーのロゴがはいった白い野球帽を持参する。
赤いTシャツにベージュ色の半ズボン。タオルをバッグに押し込んで時計を見ると歩との待ち合わせの二十分前。
わたしは、自分の両ほっぺを手のひらでぺちりと叩いて「よし」と呟き、出発することにした。
自転車を快調にとばす。
太陽はまだ低い位置にあるというのにすでに若干暑さを感じる。どうなることやら。
千秋公園の大きなお堀の横を通り過ぎる。
ここは昔のお城があった場所が大きな公園になっていて、敷地内には図書館や、春に入学式をやった県民会館などの施設がある。
お堀の水面をぷかぷか漂うたくさんのカモの、そのうちの一羽と目が合った。
気楽そうでいいのう。
カモの眠そうな様子に、反射的にわたしはそう思い、それで自分が緊張していることに気付いた。
バイトの手続きは歩に全部任してしまっていて、これから待ち受けるテレビ局の人間がどういうものか、想像がいまいちできずにいた。
前方に歩を発見。
先に来ていた彼女は、小さな橋の手前に自転車を立てかけてかしこまっていたが、わたしに気付くと背伸びして左手を大きく上げて笑った。
黒いTシャツに白い半ズボン。ピンクの野球帽がかわいい。
至近距離に近づくと、わたしは彼女の異常に気付いた。いや、異常ってのも失礼な言い方だけど。
「おや、歩」
「な、何よ? いいたいことがあるなら、好きなようにいえばいいじゃない」
歩が化粧をしていた。それが新鮮だったわたしは半笑いで彼女をしげしげと見つめて、そんで殴られた。
「痛い」
「変なのは自覚してるんだから、笑わないでよ」
「変じゃないよ全然。初めて見たから、少し面白かっただけ」
「面白いって言うなよお」
わたしはいつも気分によってファンデーションを極薄く塗って、派手じゃない口紅をそれに合わせることがあるくらいで、今日もそうだった。歩の化粧は、正直ちょっと濃かった。
いままで完全なすっぴんで通してきた彼女なのでインパクトはある。
でもわたしには理解できる。わたしも初め自分でこっそり練習した時には加減がわからずにこうなった。これが世にいう気合が空回りというやつである。
「わたし高校のときは日焼けを防ぐって概念がなかったのよ。野球部のマネージャーなんかやってたもんで、そりゃもう真っ黒くろすけだったんだから」
「春から比べても白くなったもんね、歩」
「それをまたもとの木阿弥にするわけにはいかんのよ。だから、紫外線を遮断する意味で、ま、その、冒険してみました」
かわいいやつめ。わたしは日焼け防止だけが理由でないことがなんとなくわかっていたが、言わずににやにやしていてまた彼女に殴られた。
長い大通りを二人で進む。
ここは夏の終わりに竿灯祭りがある場所だ。東北三大夏祭りの一つ。
先日キャンパス内でその練習をしている人たちがいた。見た目以上にあれは難しいものらしい。
何人か自転車のおじさんたちを追い抜いた。帽子をかぶって首にタオルを巻いたその風体。間違いなく目的地は私たちと同じだ。
「球場って、結構遠いね」
「でしょ。これから毎日通勤だから結構大変かも」
八橋球場に着いたのは、集合時間である八時半の少し前だった。
収容人員約二万人。プロ野球の地方開催にも使用されるこの球場は、『秋田の甲子園』と呼ばれ、ここでいつかプレーすることを地元の野球少年たちは夢見ていた。
球場の横にテレビ局で設営した大きなプレハブ小屋があって、その中に並べられたパイプ椅子にわたしたちは密集して座った。
バイトの人数は全部で十人ほどだった。
高木くんは先に来ていてわたしに気付くと不敵な笑みを浮かべた。
腕を組んでパイプ椅子に座り、多少ふんぞり返っているように見える。
なんだろうこの子は。
どうやらバイトのベテランを気取っているようだ。俺がいるから安心しろ、といったところか。アホめ。
しかしそう来られるとこっちとしても、萎縮した素振りなどは意地でも見せるわけには行かなくなって、気持ちを強く持つことができてちょっと助かった。
やがてバイトたちの指揮を担当するらしき、ラフな格好の男の人が現れた。
薄い茶色のサングラスを掛けた彼は、集まった学生たちを見回して、「はい、今日からよろしく」というと、慣れた口調で仕事内容やスケジュールの説明を始めた。
これがテレビ局のADという生き物か。年はたぶん二十五、六といったところ。
服装はわたしの目には学生とかわらない感じだったが、高木くんによると、履いているジーンズがなかなかのヴィンテージものなのだそうだ。
大会が始まり、わたしの労働も始まった。
大変だった。ひどい猛暑のなか球場の内外を駆け回った。カメラの人たちに飲み物や弁当を届けたり、実況席のアナウンサーに、資料を渡しに行ったりした。
高木くんは確かに手馴れた様子で元気に働いていた。歩も元マネージャーだけあって、まさに水を得た魚のようだった。
わたしだけが細かい間違いをしていた。
わたしはバスケ部だったので、体育館の蒸し暑さには慣れっこでも、屋外の強い日差しは苦手だった。
それを言い訳にはしたくないのだけど、弁当の配りモレや、伝言を正しく伝えられないことが続いてしまった。
ADの人は、バイトに過度な期待はしていないからなのだろうが、眉をしかめつつも形式的に平坦な口調で注意するだけだった。
しかしお金をもらう以上は責任ある仕事をしなければと自分なりに思っていただけに、失敗すると、自己嫌悪で心が沈んだ。
待機室であるプレハブでは仕事の合間に、ADの人たちとバイトの子たちがパイプ椅子に座り、輪になって賑やかにおしゃべりをしていた。
高木くんが、そのなかに居座って楽しそうだ。女子アナウンサーが近くを通りかかると率先して声を掛けている。
気持ちが落ちていたわたしは、どうもそのなかに入りそびれていた。
最初のタイミングを逃すと二回目、三回目は難易度がどんどん上がってしまう。わたしはとぼとぼとプレハブの外に出た。
「行くぞ長友」
通りかかった歩がわたしの丸まった背中に気付いてくれて、ばしっと平手で背を叩いた。
そうだ、切り替えなければ。ミスを引きずると次のもっと大きなミスを呼び込んでしまう。
仕事をしながら、グラウンドで行われている熱戦や、応援する生徒の様子を横目でいていた。
わたしもさほど遠くない昔には高校生だったというのに、壁というかまるで違う生き物に見える。
もっともそう思っているのはこちらだけで、傍目にはそう違わないのかもしれない。壁はわたしが勝手に作り出しているだけなのかもしれない。
昼食の時間。弁当と飲み物がわたしたちにも支給されて、好きな場所で食べてよいという話だったので、わたしたち三人は内野スタンドで日陰になっている場所を探して、そこに並んで食べることにした。
グラウンドでは、優勝候補の一角、秋田商業の試合が行われていた。
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