第二章② 学食の主

 わたしと歩は、フォーラスのビルを横切って秋田駅の構内へと入った。


 今年の春、新幹線が開通してから、この駅は以前よりもかなり大きくきれいになった。


 幅の広い陸橋を渡って駅の西口へと出る。


 こちら側は住宅地に徹した街づくりとなっていて、背の高い建物はほとんどない。


 わたしたちを含むたいがいの秋大生の住むアパートもこの周辺にある。


 大学のキャンパスは陸橋を降りてから十五分ほど歩く。


 いつもの大学生協で、高木くんと待ち合わせをしていた。


 わたしたちは時間の都合がつけば、だいたい一緒にご飯を食べることが多くなっていた。


「すげ、教師に見える」


 生協の売店で雑誌の立ち読みをしていた高木くんに声をかけると、彼はわたしと歩の風体を見てそういった。


「高木くん、進路のことで話があるから放課後残りなさい。二人きりで話しましょ。いいわね」


 歩がのって、メガネのフレームに手をやり、少し鼻にかかった声で女教師風に言った。


「おお、なんかエッチだ」


 喜ぶ高木くん。自分の教師適性に疑問を持ち始めていたわたしはちからなく笑うのみだった。


 大食堂に今日は結構人がいる。院生や教授、練習が終わった帰りの運動部の学生らしき集団もいた。


 高木くんはカツカレーとサラダを載せたお盆をテーブルに置いた。


「今日は俺、三食ともここだな」


 なんたる猛者。いっそここに住んだらいいのに。


 わたしもカレーには心惹かれたが、白いシャツを着ている状態でカレーを食べるのは自殺行為であることに気づき、掻き揚げソバに切り替えた。


 歩は小ライスと焼き魚とポテトサラダ、それと味噌汁。


「で、予備校の見学はどうだったの?」


 歩が答えた。

「コンちゃんの女教師っぷりは、わたしなど足元にも及ばない清らかさだったわ」


「おいおい。それ俺、見たくてしょうがないんだけど」


「でもいきなりあれやるのはね、無理。だから、コンちゃんにいわれたんだけど、まずは家庭教師やってみようかなって思うの。ね、長友」


 歩はわたしに、メガネの奥のつぶらな瞳で『余計なことは言わんでいいよ』と語りかけてくれた。


「カテキョーのバイトは俺もねらってる」

「あんた、まだバイト増やすつもりなの?」


「増やすさ、まだまだ」


 わたしは、鼻息荒く語る高木くんにたずねた。

「そんなに稼いでどうするのよ」


 口に出してしまってから、実家の経済状況の問題なのかもと思い当たり少し後悔したが、そういうのではないらしかった。


 先日車をぶつけてしまった際の修理費用も払わなければならないはずだったが、それを差し引いても相当な労働量だ。


「俺はアパート暮らしで、北光寮の連中から比べれば金がかかるのは確かだから、やりたいことがやりたいならどうにかして自力で金を手に入れないとね」


 北光寮というのは男子学生向けの寮で、わたしのアパートの近くにあった。


「あそこってあんまりその、見栄えがよろしくないよね」

「刑務所とか廃病院を思わせるな、確かに」

 わたしの言葉に高木くんは頷いた。


 無機質なコンクリートの五階建ての建物には、あちこちに老朽化によるひびが入っていて、見るものを不安にさせる姿をしていた。


「一年生は狭い二人部屋だからな。いくら生活費が切り詰められるっていっても、それだけはちょっと」


「ふうん。ね、高木くんのやりたいことってなんなの?」


「へへ、聞きたい? 聞きたければ教えてあげてもいいよ」

「言いたいなら言ってもいいよ。聞く価値があると思ったら聞くし、じゃなければ、雑音として聞き流すから」


 わたしと高木くんは、しばしじっと見つめあった。冷え冷えとした何かがそこに芽生えた。


「車、買いたいんだ」

「ほう、車」


「うん、親に言えば多少は金を出してくれるかもしれない。出世払いでね。先輩たちもそうして手ごろな中古車を手に入れている人たちが多いけど。俺ね、身の程知らずと言われるかもしんないけど、新車で欲しい車があるんだわ」


「身の程知らずだ」

「無謀だ」

 わたしと歩みは間髪入れずに指摘した。


「いや本当に言わなくても」


 秋田は車社会だ。電車でどこにでも行ける都会とは違う。


 学生といえども、自転車と徒歩では行動が色々制限されてしまい不便である。


 上の学年になってくると車を持つものが段々と増えてくるが、まずまちがいなく中古車だ。


 バイトして新車を買うなどというのは、いくら罵倒しても足りないくらいの大風呂敷といわざるをえなかった。


 出世払いの中古車で十分だろうに。彼はなにかムキになっているのだろうか。


 ちなみに子供が親に対して『出世払いで返す』というのは、小さいときに言われた『お年玉は貯金して大きくなったら渡すから、いまは黙って親に預けなさい』の同意語と受け取ってもらって支障ない。


 わたしは、どうなることやらと思いながら彼に言った。

「まあ、気のすむようにやってみれば。せいぜい体こわしたりしないようにね」

「おう、そうするよ」


 それから話題は、またバイト情報へと戻っていった。


「高校野球のバイトは、長友と高木くんも参加でいいんだよね」

 歩が言った。七月になると夏の高校野球選手権の秋田県大会が始まる。地元テレビ局がメイン会場である八橋球場の試合を中継する、その手伝いのバイトを三人でやるのだ。


 二週間近く毎日拘束されるので大変は大変だが、やり遂げればすてきな稼ぎになる。


 わたしと歩にもまとまったお金が必要な理由があって、そのためにすぐにできるいい短期バイトとして、歩がこの話を見つけてきてくれたのだ。


 その理由とはラーメン・ライダーズの夏季遠征だった。


 毎年夏休みの後半にある伝統行事で、今年はラーメンの名所、福島県喜多方市に二泊三日で行くことになっていた。その旅費を各々で工面しなければならないのだ。


「やあ、楽しみだなあ、旅行」

 歩がにやける。


 高木くんは少し憂鬱そうだ。彼も参加はするが、湯沢遠征のあの件以来、よろしくない立場のままだ。


 先日、旅行の事前ミーティングを大学の小教室を借りてやったことがあった。


 宿泊する宿とか、どのお店を巡るかとか、細かい打ち合わせが一通り終わって、最後にメガネの部長さんが、「安全第一で行こうな」といったとき、彼に他意はなかったように思われたが、何人かの部員から乾いた笑いが起こった。


 高木くんが教室の端っこでうつむいていた。


 そういえばあのとき気になったことがある。


 ミーティングが終わり各々が部屋を退出していく中、机で部長さんが今日決めた内容をノートに書き込んでいたのだが、その彼の前に和也さんが立った。


 わたしは教室の出口のところでそれに気付いて、立ち止まって見ていた。あのとき和也さんと部長さんの間では、こんなやりとりがあった。


「部長。喜多方に行く途中で、高木と俺であれをやろうと思うんです」

「喜多方への途中?」


「米沢、通るでしょ」

「あ、お前まさか」


「いい機会ですよ」


 あれはなんだったのだろう。日常会話で「決意は変わらないのか」などと言っている人を初めて見た。


 和也さんのいたずらっぽくきらめく瞳は、高木くんのために恐らく何か善きことを企ててくれているのだろうとは思ったが、それがなんであるのかはまるで分からなかった。


 三人とも食事は終わったが、今日はこのあと何も予定がなかったので食堂が閉まる八時ぎりぎりまでここで時間をつぶすつもりだった。


 お客はまだたくさん残っていた。わたしたちと同じように暇をもてあましている人もいれば、忙しい研究の合間を縫ってさっとやってきて、ご飯をかきこんでまたすぐに去っていく教授もいた。


 ほかには、目を見ればなんとなく分かるのだが、レポートなのか研究なのか相当切迫した状況のはずなのに、戻りもせずにここでいつまでも現実逃避している学生の集団も一部に見受けられた。


 片肘をテーブルについて紙コップでお茶を飲んでいたわたしの視線の先に、中年男性が一人座っていた。


 不思議な人だった。もう初夏だというのに茶色いニット帽をかぶって、その下にのぞく髪の毛は若干長めで、白髪がちらほら見受けられる。


 着ているグレーのジャンパーはこの季節にしては厚着に過ぎるし、服の賞味期限というかそのくたびれ加減は公共の場に着てくるのを慮るべきレベルに達していた。


 外見から素性が全く推測できない。


 院生、研究室の助手など、候補は色々考えられるし、社会経験を積んでから改めて勉強をするために入学してくる人は結構いるので三十歳、四十歳の学生もそう珍しくない。


 しかしそのどれとも何か違う気がする。


 全然の部外者かもしれない。


 うちのキャンパスの入り口には、守衛所らしきものは一応あるけど、車はともかく人はフリーパスの状態だ。


 だから近所のおじさんが安い学生食堂が目当てで気軽に侵入しているのかも知れなかった。


 わたしはそのおじさんが、校門の守衛さんとすっかり顔なじみになってしまって、当然のように片手を挙げて「よっ」と声をかけて通過していく様子を想い描いて、くすっと笑った。


 秋田駅の構内でホームレスの男性が床に座り込んでいるのを一度みかけたことがあったが、それとはまた違う感じがした。


 服装はへたっているけど、鉱山学部の学生の中にはもっともっとシリアスな状態の服装で堂々と登校してくるものもいる。(高木くんはその点いつも服装には気をつけていて、彼のセンスをわたしは結構気にいっていた)


 それに、なんだかこの学校の景色に非常に良くなじんでいるのだ。


 きれいに食べ終わった焼き魚のお皿を前にお茶をすするその姿は、自宅でこたつにでもあたっているかのようなくつろぎっぷりで、長年この場所に居続けているものにしか醸し出せないであろう貫禄のようなものを感じさせた。


 高木くんと歩は、わたしの横でしばらく『女教師と、だめな生徒ごっこ』をして遊んでいたが、やがて歩が「さて、そろそろいくざます」といって、わたしたちは引き上げることにした。


 女教師はいつのまにか、金持ちの奥様になっていた。


 食器返却口のところで、さっきわたしが凝視していた男性とすれちがった。わたしは軽く頭を下げた。


 歩と高木くんはそれぞれ「なぜ?」「誰?」と訝しがったが、そうしたほうがいいような気がしたのだ。なんとなく。


 歩の自宅は別方向なので、帰り道は高木くんと二人きりになった。


「みどりは、テレビ局の手伝いが人生初のアルバイトになるの?」


「初だわねえ。なんだか緊張してしまう」


「大丈夫だろ。別にテレビカメラで撮影したりする訳もないし」


「そう思うんだけどね。果たしてわたしにまともな労働というものができるのかどうか」


 言う必要はなかったが、わたしは彼に教えておくことにした。そのほうがフェアであると思った。過ちを起こすのは人間ならば誰しもあることなのだ。


「わたし今日ね。ちょっとしたミステイクを犯したの」

「何をやらかしたのさ」


「ひとを殴った」


「へ?」


 空を見上げると星がきれいに瞬いていた。所々に小さな雲が浮かんでいて、ゆっくりと流れていくのが月に照らされて見えた。


 わたしの隣で高木くんがもう一度「へ?」と言った。

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