第二章 彼はなにをするつもりなのだろう? 考察その②

第二章① みどりは教師に向かない

 わたしと歩は、二人でコンちゃんがバイトをしている予備校を見学にいったことがある。


 コンちゃんはそこで小学生向けの講師として、週三回授業を受け持っていた。


 お受験目指して、(親が)血眼になっているハイレベルなクラスは予備校の正規の講師が受け持つのだが、そのほかにもベーシックな、別の言い方をすれば気休め程度のクラスというのもあって、その辺の授業はバイトでまかなって経費削減をするのが世の予備校というものなのだ。


 そしてこれは、将来教師を志すわれら教育学部の学生としては、トレーニングを兼ねた人気のバイト先の一つだった。


 梅雨の季節だった。でも確かその日は天気が良かったように思う。


「コンちゃーん。彼氏さんは元気―?」

「うるさい。さあさあ、授業始めるよ」


「週末はどこかにデート?」

「お泊り? お泊り?」


 最前列の机に座るませた女の子二人が、教壇のコンちゃんに話しかけ続けて授業にならない。


 わたしと歩は、二十人の生徒が納まっている教室の後ろ、授業参観のお母さんポジションで、白いワイシャツにグレーのスカートという姿のコンちゃん先生を見守っていた。


 もちろん単に冷やかしにきたわけではなくて、そのうちに自分たちも講師のバイトをすることを念頭に置いての偵察である。


 教室に来る前に、予備校の人には一言挨拶をしてきた。


 わたしは、自分がほんとにコンちゃんの親にでもなったようにはらはらしていて、それは隣の歩も同じようだった。


 二人とも今日はコンちゃんに準じた白いワイシャツとスカートで、教師の卵を装っていた。


 コンちゃんは苦戦していた。


 騒ぎの火の粉は、教室全体に広がりを見せ始めていた。いくらコンちゃんがいさめても一向に納まらない。


 生徒がうるさいとは事前に聞いていたが、これは予想以上のひどさだ。


 教室の横の廊下では、予備校の人がじっと中の様子を見ている。


 たまに状況を監視に来るのはいつものことなのだそうだが、運悪くこの日に限ってずっとそこにいて、彼はことの顛末を全て見ることになる。


 わたしのちょうど目の前に座る男の子が、特に悪のりしていた。


 その子のことが、わたしは最初からむしが好かなかった。


 本来わたしは子供が好きだ。でなければ、誰が好き好んで教師になどなろうとするものか。


 だからといって、子供ならば誰でも彼でもというふうにはもちろんいかない。ラーメンは好きでも、不味いラーメンは嫌いである。


 その子は馬鹿の一つ覚えのように、「せんせー、うんこしてきていいですかー?」と挙手しながら何度も大声で言って、自分の言葉に受けていつまでもへらへら笑っていた。


 つまらないうえに、引き際のセンスがない。


 わたしのいらいらは募った。そして我慢が限界に達したわたしは「あんたいい加減にしなさいよ」と重低音の利いた声で言った。するとその子は振り返り、わたしを三秒眺めると、にやっとわらった。


 その卑しい笑みには、すでに中年すけべ親父の素養が感じられた。彼は矛先をわたしに向けて、色々話しかけてきた。


「彼氏いるんでしょ」

「うるさい、あっち向け」

「いないんだ。ぷぷう」


 放っておいてもらいましょうか。


 彼はどこまでも調子に乗り続けた。そして消しゴムのかすを丸めたものをわたしに投げつけながら、ちょっとしゃれにならない言葉(赤毛のアンでギルバートが『にんじん』といったのと同じくらい、他人にとってはそうでなくても、わたしにはしゃれにならない言葉)を彼が発した時、わたしは手にしていた白い手さげ袋で男の子の頭を強打していた。袋の中に数点小物が入っていたせいで、思ったよりも大きな音がした。


 教室は一瞬にして静まり返った。生徒全員が、わたしのことを振り返って表情のない目で見ていた。


 さあ、コンちゃん。あなたの望む沈黙を手に入れた今こそ、その直角三角形の面積の求め方を華麗に語ってください。


「終わった」

 歩がぼそっと言った。


 教壇を見るとコンちゃんは、右手にチョーク左手に教科書をもって黒板に書き込む姿勢のままで、悲痛な表情で首だけこちらを見ていた。


 チョークで書きかけていた数字の3は、後半がだらだらだらあっと下に伸びてしまっていて、それは彼女の精神状態を何よりも雄弁に物語っていたのだった。


 そして教室の横の扉は、予備校の人によってガラガラとおもむろに開かれた。


 授業終了後、ロビーの長椅子で、わたしはコンちゃんに泣きついた。


「コンちゃん、わたしどうやら教師に向いていないようなんですけど、どうしよう?」


 さっきまで事務室にいた。コンちゃんにはわたしと一緒に、ひたすら謝らせてしまった。


 長友みどり、最悪の失態である。


 予備校講師の男性は、「色んな子供がいるから、気持ちは分かるよ。ま、あまり気にしないで」と言ってくれたが、わたしを見るまなざしから察するに、彼の中ではわたしに対してすでにある決定的な評価が下されたようだった。


 手さげ袋の中を確認したら、歩に貸すつもりで持ってきたCDのケースに、小さなひびが入っていた。


 わたしはコンちゃんにごめんなさい、ごめんなさいと繰り返す。


「ねえ、コンちゃん。教師になれなかった教育学部生って一体どうなるんでしょうか?」


「このくらいでそこまで思いつめることないよ、みどり。まあ反省はしたほうがいいけど」


 コンちゃんは、どこまでも慈母の如くやさしい。あなたのような人に出会えただけでも、わたしがこの大学にはいった意味はあったのだと思います。


 ああ、それで十分です。


 歩はへこたれているわたしの隣に腰掛けて、両足をぷらぷらしながらわたしの顔を覗き込んでいた。


 心配してくれているようでもあり、笑いをこらえているようでもあった。


 彼女はコンちゃんにたずねた。


「わたしも思ったよりも大変だなって思いました。わたしたちでも、いつかはコンちゃんみたいに授業ができるんですかね。正直不安です」


「わたしだって全然だめよ」


「そんなことない。コンちゃんは奮闘してましたよ」


 わたしたちの前を、帰り際の小学生たちが数人横切っていった。


「コン先生さようならー」


 コンちゃんと歩は笑顔で手をふって答えていたが、わたしはその中にさっきひっぱたいてしまった子がいたらどうしようと思ったこともあって、目すらあわせられなかった。


「家庭教師やって、教える経験積むのがまずはいいんじゃない? わたしもやってるし」


 わたしは、コンちゃんの言葉にちからなくうなずいた。


 確かに教育学部の学生は、その多くが家庭教師のアルバイトをやっている。


 あれはいろいろと特典がついてきて、いいものらしい。


「三年生になると教育実習があるからね。それまでには講師のバイトもこなせるようになればいいのよ」


 コンちゃんは、みどりはこの予備校では雇ってもらえないだろうけど、と付け足して、浮上しかけたわたしをもう一度叩き落した。


「ごめんごめん、予備校なんていっぱいあるから大丈夫だよ」


 それから、おっと時間だといって彼女は立ち上がり、わたしたちは予備校をあとにした。


 予備校は駅前にあった。日はもうほとんど沈みかけている。


 紫色の空を涼しい風が吹き抜けて、それは西の空にほんの少し残る紅のほうへと去っていった。


 周辺にはデパートが数件、それからホテルなど、背の高いビルがまばらに立ち並んでいる。


 その隙間には二階建ての古い薬局などが居座っていた。


 学校帰りの中高生がそこここにいて、街灯やビルのネオンに照らされてできた彼らのたくさんの影が、車の行き交う喧騒のあいだで楽しげに跳ねていた。


 ここは子供のころのわたしにとって憧れの場所だった。


 実家のある本荘市は人口数万の小都市だ。暮らすのに不都合は感じないけど、本当に必要最低限の町である。


 だから年に数回、なにか大きな買い物をするときや夏の竿燈祭りのときなどに、親に秋田市へ連れてきてもらうのがいつも楽しみで仕方がなかった。


 高木くんが聞いたら鼻で笑われて、わたしはふたたびの暴力事件を起こしてしまうかもしれないが、その頃のわたしにとってここは最上級の大都会で、来るたびに道行く人たちがきらきらした光をまとってみえた。


 わたしたち三人の横を女子高生が一人、小走りで駆け抜けていった。


 その子は振り返って、友達の女の子たちに向けて大きく何度も手を振って「せばねー」といって笑った。


 そしてまた走り出して去っていった。


 わたしは声に出さずに彼女の真似をして、「せばね」と呟いた。


 説明しよう。せばねとは秋田の方言でgood byの意味である。


 わたしは昔、秋田市の人が話すこの言葉に強い憧れをもっていた。わたしの地元では「せばなー」なのだ。


 分かるだろうかこの違いが。


 せばねの持つ、そこはかとない上品さが伝わるだろうか。


 せばねと言うのは秋田県の中でも県庁所在地秋田市のみで、わたしはそれを『都会の秋田弁』と名づけて一人で崇拝していた。


 とにかく何がいいたいかというと、わたしはこの町が大好きだということだ。


 秋田、愛してる。

「あ、来た」


 コンちゃんは、わたしの心中を読んで軽めの駄洒落を言ったのかと思ったがそんなわけなかった。


 向こうの大通りの端に和也さんがバイクを止めて、またがったままでこちらに手を振った。


 わたしと歩は両手をぶんぶんと振りかえした。


「みどり、歩、せばねー」


 コンちゃんは微笑んでそういうと、和也さんの元へと走っていった。わたしと歩も「コンちゃん、せばねー」と返す。


 これよ、これ。わたしはこれにあこがれていたのよ。夢がまたひとつ叶った瞬間だった。


 二人を見るわたしの視線には、ほんの少しにが酸っぱいものが含まれていたように思うが、それはあまり気にしないことにしよう。


 コンちゃんは和也さんからヘルメットを受け取り、それをかぶるとバイクの後ろにまたがって彼の背中にしっかりしがみついた。


 乾いたマフラーの音を町に響かせて走り去るバイクを、わたしはその姿が消えるまで見送っていた。


 歩はもう反対方向へ歩き出している。


 もしコンちゃんがエスパーで、いまのわたしの考えていることが筒抜けだったりしたら、多少まずいことになってしまうだろう。


 そうでなくて、本当に良かった。


わたしがようやく向き直ると、歩が少しはなれたところで立ち止まり、手を後ろで組んでこっちを見ていた。


 いかんいかん、すっかり見られてしまっただろうか。わたしはどんな顔をしていたのやら。


「ほれ長友、いくべ」

「おう」

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