第一章 彼はなにをするつもりなのだろう? 考察その①

第一章① 1997年の春

 一九九七年の春。大学に入学して一ヶ月ほど経ったころのこと。


 わたしは、悩みに悩んだ挙句に入るサークルもようやく決まり、日々の生活にも慣れようとしていた。


 待望の一人暮らしは楽しかった。わたしの実家は本荘市という、大学のある秋田市から南に電車で一時間ほどの場所にある。


 何か非常事態があれば(それは金銭的なものであることが予想された。あともしかしたら健康面でも)助けを求められる範囲の離れ具合でもあり、誰もいないアパートに帰る心細さは意外とすぐに消えた。


 秋田大学の教育学部は、地方国立大学の教育学部では大体そうなのだが、地元、秋田県が出身地である学生がほとんどだ。


 市内の親元から通学していて、高校までとあまり代わり映えのしない生活を送っている子も結構いた。


 近ごろ行動をともにするようになった、同じ国語学科の遠藤歩という女の子もその一人だった。


 その日は五・六時限目までしか授業がない日だったので、わたしたち二人は大学生協で三時のおやつを食べながら、お茶をすることにした。


 大学生協は大きくて平べったい二階建ての建物で、入り口の小さな階段を上ると、手前には売店と床屋、奥には学生食堂という作りになっている。


 歩は売店で、たけのこの里ときのこの山どちらにするかで散々悩んだ。


 僅か数週間程度のつきあいであったけれど、わたしは彼女の性格について、なんでも即断即決、決めたら省みてうじうじしたりしない、という印象があったので、お菓子の棚の前でしゃがみこんで箱を交互に見比べる姿は少し新鮮だった。


「なんなら両方買って、二人で半分ずつ食べよっか?」


「却下。それでは、大事な何かがだいなしになってしまう」


 断られた。わたしは手にしているいちごポッキーに特に深い愛着があるわけではなかったので、そういったのだが。


 歩はそれから十五秒ほど、アリの行列を炎天下の公園でいつまでも凝視し続ける子供のように、二つのお菓子を睨み続けた。


 そして、紫がかったピンクのフレームがかわいらしいメガネの、その奥の瞳が輝きを放ったかと思うと、彼女はたけのこの里を選択して、颯爽とレジへと向った。


 わたしは、勝負の決め手はなんだったのかを歩きながら尋ねた。


「チョコの形状がちがうから、当然食感がちがうでしょ。あとは土台部分がクッキーと、ビスケットでまるで別物だから、今日のわたしがどちらをより求めているのか、自分の内なる声に耳を傾けていたの」


「内なる声と来ましたか」


「長友は、それを聞いたことがない?」


「たけのこの里が食べたいって言ってるのは、まだ聞いたことない」


 この時間の大食堂のテーブルは空いていて、わたしたちと同じようなおやつ組があちこちに点在するのみだった。


 わたしたちは窓際の席に向かい合って座って、各々のお菓子と缶コーヒーをテーブルに置いた。


「長友。これからあんたのアパートに遊びにいってもいい?」


 歩は、たけのこの里を二ついっぺんに口に放り込みながら言った。


「おっ、いいよ」


 わたしは彼女の事を入学式直後は遠藤さんと呼んでいたが、一週間もしないうちに歩と呼ぶようになった。


 一方彼女は、わたしのことをはじめは長友さんと呼び、それから長友になった。


 あとはずっと長友のままだ。きっとそれで押し通し続けるのだろう。


 この新しい友人は、なかなかに興味深い人間だ。一見すると、おとなしそうに見えないこともないのだがどうしてどうして。


 まだ日が浅いので断言はできないが、わたしは当たりを引いたのではないかという気がする。


 わたしはクリーム色のカーディガンに白いシャツ、深緑色のちょっと長めのスカートという格好をしていた。


 去年の秋から伸ばし続けている髪は、背中にかかるくらいまでになった。


 髪の短い歩は、赤と白のストライブ柄のセーターにジーンズ。


 先週くらいからようやくコートなしでも表を出歩ける気温になってきた。


 わたしたちが明日の授業について話していると、食堂の入り口のところで、高木くんという同じサークルに入った一年生の男の子の姿が見えた。


 小柄で、黒いニット帽に、フードのついた青いパーカーを着た彼は、知り合いがいないか、広い食堂内をきょろきょろと見回し、わたしたち二人の姿を確認すると軽く手を振った。


 わたしと歩も手を挙げて応える。


 高木くんは食堂の奥までいって麺類コーナーで食券を買った。そしてお盆にわかめうどんを載せてこちらにやってきて、歩の隣の席に座った。


「高木くん、今頃昼ごはん?」

「違う。このあとバイトだからさ、早い晩ごはん」

 わたしの問いに彼は割り箸を口でくわえて割りながら答えた。


「え、バイト始めたんだ。何やってんの?」

 歩が尋ねる。


「コンビニ」

「へえ、どこの」


「秋田高校のふもと」

「ああ、あそこ。近くていいね」


「深夜シフトのときもあるから、遊びにきてよ」


 高木優斗は埼玉県の生まれで、鉱山学部の学生だ。


 鉱山学部といっても別に、つるはし持って地面を掘ることを学んでいるわけではない。


 やっていることはいたって普通の工学部で、彼は物質工学科だ。


 この名称は秋田大学が元々は戦前の鉱山専門学校がその生い立ちであることに由来しているそうな。


「土曜日は集合、八時だよね」

「うん」


 その日、サークルで日帰りの旅行に出かけることになっていた。


 わたしたち一年生にとっては初の本格的な活動となるが、準備するものは特になく先輩方の運転する車に同乗するだけだ。


 そのサークルについては、のちほど詳しく述べる。


「俺は目を疑ったよ」


 うどんをあっという間に平らげた彼は、それだけでは足りようはずもなく、ポッキーとたけのこの里にちょっかいを出しながら話し出した。


 歩がわたしに目だけで、『また始まったね』と語りかける。


 つまみぐいは別にいいのだけど、そうではなく。


「日曜の夜のことだよ。俺は自分のアパートで、テレビの巨人広島戦の中継を見てた。結構いい試合だったんだ。九回表を終わって五対三で広島のリード。でも九回裏の巨人の攻撃は上位打線にまわるから、まだわかんない。清原が前の打席で本塁打を打ってたしね。すると巨人の先頭打者がヒットで出塁した。さあ、面白くなってきた。そのときテレビ画面の上のほうにテロップが表示された」


『放送終了の時間ですが、一部の地域を除いて放送時間を延長します』


「時計は八時四十五分だった。野球の放送延長って九時二十三分くらいまでやるから、俺はああ丁度いいなって思ったんだ。多少こじれたとしても試合の最後まで見られそうだ。延長戦になっちゃったら、それはまあ仕方がない。そしたらだ。俺、生まれて初めてだよ。一人でテレビ見てて、画面に向って声を荒げたことなんて」


「ああ、高木くん、知らなかったんだ」


 わたしは知ってた。それは秋田県民の常識だ。


「そりゃ知らないさ、だから叫んだんだ。『一部の地域ってここの事かよ!』って」


 つれなく野球中継が終わってしまったテレビ画面を前に、彼はしばらく呆然としたという。


「あれね」

 野球が大好きな歩が言った。


「ラジオだと最後までやってるのよ。わたしそっちで聞いてたよ。巨人、サヨナラ勝ちしたのよね」


「どうなってんだよ、この県は。そんでそのあと日曜なのに、水戸黄門が始まるしさ。月曜にやるもんだろ、あれは」


 つまりはこういうことだ。


 秋田県には、TBS系のテレビ局がない。民放局が、フジテレビ系、日本テレビ系、テレビ朝日系の三つしかない。


 けれどTBSの番組は何一つ見られないかというとそうではなく、ドラマなどの一部は他の系列局が買い取って割り込ませる形で放送する。


 高木くんの話の例だと、日本テレビ系列の局でTBSの水戸黄門を、東京とは数週間遅れる形で日曜十時半から放送している。


 そしてそういう場合、買い取った番組については、放送時間を変更してはいけないというルールがあるようなのだ。


 水戸黄門の十時半は崩せない。そのため高木くんの身に降りかかったような悲劇ってほどのものではないけどが起きるのである。


 秋田のテレビ欄を見渡すと、TBS系の番組に押し出されたせいで、変な番組が変な時間帯に放映されていることがよく見受けられる。


 埼玉からやってきた彼にとって、秋田での生活は色々と不満があるらしかった。


 わたしたちはその愚痴を会うたびに聞かされていた。まあ、内容としては割りとどうでもいいようなものばかりだし、秋田が田舎だということに異論などない。


 しかし、わたしと歩にとっては生まれてからずっと暮らしてきて、恐らく残りの人生も過ごすことになるそれなりに愛着のある場所なのだから、もう少し気を遣ってくれてもいいのになと思うことはある。


 ちなみにTBSの件だけども、わたしの実家の本荘市は山形県に近いので実はテレビユー山形というTBS系列がこっそり映ったりする。


 でも話がややこしくなるので、高木くんには黙っておいた。


 三人でそれから三十分ほど話していただろうか。高木くんがバイトの時間だからと席を立ち、わたしと歩も一緒に出ることにした。


 高木くんの背中を見送り、自転車を押しながら彼とは反対方向の門へと歩き出す。わたしたち二人は帰り道にあるスーパーで夕食の食材を買ってから、わたしのアパートに向う。


 キャンパスが小さすぎる、ということも高木くんの言う愚痴の中の一つだった。


 わたしたちが通っている手形地区キャンパスでは、校門をくぐったとたんに、反対側の校門の姿が向こうにうかがえる。


 何個も学部があるようなよその大学では、そんなことは考えられないことなのだそうだ。


 秋田大学は総合大学を名乗ってはいるが、学部数は、教育学部、鉱山学部、医学部の三つで、規模としてはぎりぎりのレベルだ。そのうえ医学部のキャンパスは別な場所にあるので、大きな敷地になどなりようがないし、その必要がなかった。


 しかし高木くんはそれが口惜しいのだ。


 恐らく彼にとって、ここは第一志望の大学ではなかったのだろう。


 教育学部のわたしたちと違って、理系は地元にこだわらず日本中の学校が進学先の対象となる。


 しかし、とはいっても、埼玉から秋田に来るというのはかなり少数派だった。

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