浮田幸吉の翼
のんぴ
序章
序章
「子供の頃見たドラマでね、確かそんな話があったの」
しばしの沈黙の後、わたしはそう切り出した。
テーブルの向かいに座る彼は、彼の問いにまるで関係のない話を始めたわたしに対して僅かに怪訝な表情を見せたが、少し間をおいて小さく頷いた。
外は雨だった。
窓のない、淡い明かりに包まれた店の中からでは音でしか分からないが、また降りが強くなってきたのかもしれない。
冬が戻ってきたようなこんな日の雨は、雪よりもむしろ町を冷やしていく。
お客は、わたしと彼のほかには、もう一組、男子学生同士の二人がいるだけだった。彼らは遅い昼食を取っていた。距離が離れているので、お互いの会話は聞こえない。
「江戸時代、紙屋で働いていた一人の若者が、店のお嬢様と恋に落ちた。若者は大旦那様に結婚の許しを得ようとしたのだけれど、はねつけられた。それでもあきらめない、何度も何度もやってきて畳に頭をこすり付けて懇願する若者に、大旦那様は言ったの。空を飛んでみせろ。そしたら娘はお前にくれてやる」
「それって」
彼はコーヒーを一口飲んだ。
「天地がひっくり返っても、お前なんかに娘はやらないっていっているようなものだよね。だって江戸時代だろ?」
想いを告げてくれた彼に対して、わたしはこんな話をしている。遠まわしに断られていると思ったかもしれない。
「でも、彼は飛んだのよ」
「何と」
「紙屋の技を活かしてね。和紙と布と竹の骨組で、とんでもなく大きい翼を組み立てたの」
「ハング・グライダーだ」
「そう、イギリスの誰だかがハング・グライダーでの滑降に成功した、その何十年も前のこと。ライト兄弟による飛行機の百二十年前。数え切れないほどの試作を繰り返して、ある夏の日、彼は橋の欄干から飛んだ。恋人の見守る前で。そりゃ物凄く怖かったろうけど一生に一度の勇気を出して、世界で初めて彼は飛んだ。本当のところ、滞空時間がどのくらいだったのかは分からない。ほんの数秒だったのかもね。でも彼と恋人にとっては、きっと時が止まったのかと思うほど長く感じたと思う」
「で、ハッピーエンド?」
なんてあこがれる言葉だろう、ハッピーエンド。わたしは首を横に振った。
「残念ながら。夕涼みしていた町人たちが大騒ぎしちゃってね。本気で天狗が飛んできたと思ったみたい。彼、名前は浮田幸吉っていうんだけど、役人に取り押さえられて所払いになったそうよ。恋人ともそれっきり」
「罰が厳しいなあ」
「殿様の頭上を飛んだのがまずかったの」
「文字通り頭が高いってやつか。ところで、ということはだ。この場合みどりは紙屋の大旦那様で、俺がその浮田幸吉って人なのかな」
「ひどいでしょ、わたし。あきれてくれていいよ」
「こんなことであきれるくらいなら」
彼は、その先は言わずに微笑んだ。
わたしは彼に告白された。つきあってくれといわれた。その返事としてわたしは要するに、なにか凄いことをしてみせてくれたら、付き合ってあげてもいいよと言っているのだ。愚かしいほどに、頭が高い。
「空を飛ぼうとか思わないでね。危なすぎるから」
「そだな、うん。でも何やるか心当たりはあるな。みどりには、わかる?」
わたしはうつむいた。
「ごめん、思いつかないわ」
「考えてみるといいよ」
「わたしの気持ち、わかってくれると嬉しい。今までのいろんなことに区切りをつけるために、あなたに何かを見せてほしいの」
「わかってるよ」
二人で店を出た。彼はアルバイトへ向かい、わたしは大学の図書館へと戻る。紫色の傘を玄関の傘立てに差し、わたしはとりあえず新聞の閲覧コーナーへ向かった。木製の閲覧台の前にたち、新聞をぱらぱらめくる。
雨が図書館の大きな窓ガラスを、わたしのことを咎めるようにたたき続ける。
あなたは何様ですか。
そんなことをしてもらえるような、上等な人間なのですか。
それは当たり前の詰問だった。何も知らない人が聞けば、誰だってそう思うだろう。わたしたちに、みんなに、今日まであったことを知れば、どうしてここに至ったかの経緯がわかれば、その苛立ちは少しは鎮まってくれるのだろうか。
雨はやまない。わたしは新聞を閉じて、ひんやりとした窓ガラスに右手を添えた。
彼は言った。自分が何をやってみせるつもりなのか、考えてみるといい。
彼の中では、明確な何かが浮かんでいるようだった。そして恐らく、それはわたしが思い当たって然るべきことなのだ。
一体なんだろう。
わたしは考えてみることにした。
彼と出会ってからこれまでのことを思い返してみることにした。まず初めに浮かんだのは、まだわたしが大学に入学したばかりのこと。
すぐに知らずに笑みがこぼれる。あんなことや、こんなこと、楽しかった日々。少し長めの考え事にわたしは心をひたしていった。
本当はわたしにだって分かっている。
空を飛ぶべきはわたしなのだ。
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