すり鉢を舐めた猫はどこに?
そんなある日、突然あの変態が教室を訪れなくなるという事件が起こった。
何かの都合で時間を押しているのだと思っていたが、いつも来ている時間から二週間も過ぎていることを知ったとき、「何で来ないんだよ」と滑稽にも口にしてしまい、自分の本心に気付いてしまった。
確かに毎度のごとく現れる男に嫌悪感を感じていたことは事実だ。けれど、少しずつ少しずつ改善と失敗を繰り返して成長していく一人の人間を見て、メダカを飼い始めたときの気持ちと似ていると合致した瞬間、「そうか……自分にも利益があったんだな」と気付きを得たころには自分は教室を飛び出し、あの迷惑な不届き者を探し始めていた。
昔話に『すり鉢を舐めた猫』という話があるのだが、そこに登場する要蔵という男の気持ちが少し理解できたと思った。
知らない人向けに話すが、要蔵という男の家に泥棒猫が入ってきて、毎度のごとく対峙することになるのだが、ある日の成功により贅沢をした要蔵は、すり鉢に残した山芋を放置して寝てしまい。入ってきた泥棒猫にそれを食われ、朝起きたときには泥棒猫は尻尾だけになっていた。以降泥棒猫の被害は無くなるがその影響で猫と対峙していた日々が終わりを告げ、寂しく暇な日常を送ることになったという話だ。
一般的には、悪であっても居なくなると寂しいものだという教訓ではあるのだろうが、自分としては、いつも来ていた存在が急にいなくなると心変わりしてしまうという心情の変化を謳ったものだと思われる。
要蔵はその疫病神を失ったが、自分は違う。まだ探せば見つけることができる存在だ。無駄に広い校内中を駆け回り、使ってない教室を覗いてみるもその姿はなく、回りに回って最後は自分の教室に戻りあの変態の幻想を映してみたが、現実にはならなかった。
「追い返していたのに何で必死になるんだよ」
教室の定位置に座りうな垂れたあと、部屋に奥にある茂った水槽をどことなく眺めていると、「あ、まだ行っていないところがある」と、その場所が浮かび、再び教室を出てその場所を目指す。
あの男をバカだバカだと思っていたから、その場所について盲点だった。一部走ってたどり着いたのは学校内の図書室。バカは本を読まないという偏見があったから、立ち寄らなかった場所だ。扉のガラス窓からは人影が見え、近づいて誰かを確認すると予想通りあの変態がいた。
探していた人間が見つかったはずなのに、不思議と心は微動にしなかった。恐らく、見つけた喜びとやってきた行為への罪悪感が打ち消し合って無に近い感情を生成したのであろう。でも、人の身体というものは感情とは別の位置に感覚があるらしく、無意識に図書室の扉を開き、変態がいる空間へと足を踏み入れる。
そこまでして近くに寄ってしまえば、もう何も怖いものは無いと思うところなのだが、変に良心が痛み、話しかける勇気が出てこなかった。
目の前で山積みの本を読んでいるこの変態であれば、あの日、初めて出逢った日のように無神経かつ傍若無人に振る舞って話しかけることは容易であるだろうが、人との接触を苦手とした人間の立場としては困難な局面であり、それができる人間を羨ましく思ってしまう状況でもある。できる事なら向こうから接触してきて、何事もなかったかのように話してきてくれるならどれだけ僥倖なことか。希望的な願いではあるが、所詮は希望だ叶うものではない。
しばらく躊躇して出した答えは、その男の後ろにあるメダカの本を取りに来た設定という普段の自分であれば取らない陰湿な方法で近づくことにした。それで運良く、話しかけてきてくれたら、いつものように都合よく悪態を付けば解決だ。
そう思って、重い足を前に出して言葉にならない引け目を覚えながらも対象に近づいてゆく。情けないがこの時、自分の法を犯している行為をやっている自覚のせいでやたら心音がデカく、視界が狭まる症状を覚えていたから、
対象のすぐ脇を通り、自分の期待と緊張が最高潮を迎える瞬間、いきなり視界が暗転して意識が戻った数秒後、自分が何をしたか理解し、対象に視線を向けたときには、妙に冷静さを取り戻していた。
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