第7話 心の触れ合いは宗教に勝る

あらたまって宗教(行事)なんかやらなくても、大学日本拳法的なる私は、毎日の生活のさまざまな場面で「宗教をやっている」ようなもの。


自転車で歩道を走っていると、歩道の真ん中を若い女性が歩いている。速度を落として近づくと気がつき、「すみませーん」なんて可愛らしい声を出しながら脇へ寄ってくれる。

私もまた、ジジイらしく「すみませーん」なんて言いながら、脇をすり抜ける これこそ在来種純粋日本人同士のコミュニケーション。

欧米人や韓国人には、とうてい真似のできない「単一民族の中での心の触れ合い」なのです。

教会で皆で賛美歌を合唱するのと同じ同一民族の一体感を、「大学日本拳法的なる一瞬の真剣勝負」で味わえる、というわけです。


スーパ-のレジに行けば、「もう二日も会ってなかったね。」「今日、会えなかったら自殺しようと思ってたんだ。」なんて言うと、若い女の子は口に手を当ててゲラゲラ笑い出す。

すると、他のレジ係や、自動会計機で支払いをしているおばさんが、何ごとかとこちらを見る。こんなことも「みんな在来種純粋日本人」という安心感・一体感があって楽しい。


もちろん、「きれい・可愛い」ばかりが人生ではありません。 ひなびた八百屋で、老年の白髪おやじや、熟年の息子(オッサン)から、超完熟の柿や蜜柑、地元で採れたイモやほうれん草を買わせて戴き、この爺さんとオレとどっちが先にあの世に逝くのかな、なんてことが、お金を渡す時にフト、心をよぎる。

これもまた、同一民族ならではの(一瞬の)心の触れ合いというものなのです。


熟成した柿をザルから取り上げる時、私がやるとグチャッと潰れてしまうのに、この熟年オッサンは、少しも形を崩すことなく、私が持参したタッパーにきれいに移し替えてくれる。さすが「亀の甲より年の劫」というか、プロ。茶道のお点前にも通じる手さばき、なんて感心する。

こんなことにも「在来種純粋日本人という感慨に浸る」ことができるのです。


続く


2024年1月4日

V.1.1

2024年1月5日

V.2.1

平栗雅人

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