第2話 どこまで自分(の存在)を信じることができるか

しかし、私たち(大学日本拳法を行なう人間)にとって大切なのは、山や神の存在以前、「コギト・エルゴ・スム 我思う故に我あり」、即ち、自分自身の存在を確信する(自分を信じ切る)ことではないだろうか。

逆に言えば、私たちが大学日本拳法を行なうのは、自分自身の存在を自覚する(自分を信じることができるようになる)ためといえるかもしれません(もちろん、単なる名誉欲、地位や肩書きほしさの人もいますが)。

「自分を信じることができる人間」といって、必ずしも日本拳法が強いということではない。(小手先の)技術で強くなった者が、精神的に成長しているということにはならないのだから。


むしろ、試合に勝てなかった者や、選手として出場できないにもかかわらず、4年間、練習に・諸事雑用に力を尽し、部の運営に時間と労力の献身を惜しまなかった者も「自分を信じることができる人間」といえるのではないだろうか。

「勝てない、試合に出れない」といった、ネガティブな精神的葛藤の中で、ただひたすら「直向きさという内なる情熱」によって自分を支え、消極的な心を積極的な活動へと向かわせようとする、自分に対する働きかけ。そんな精神的懊悩・困難のなかで、静かに展開される「自分の存在を信じ切る」ための戦い。これもまた、大きな大会での精神的試練と同じくらい、貴重な意味があるだろう。


自衛隊は敵を殺し、警視庁は権力に歯向かう者を叩きのめす。そんな彼らは、日本拳法の試合で負けるとは自分が殺される、ということであり、自分たちが拠って立つ権威が否定されれば警察官として飯が食えなくなる。そういう世界では、試合で勝つことが絶対条件ですが、「大学日本拳法」の場合、全く同じ「真剣勝負の世界」とは言え、それで飯を食おうというわけではない。


むしろ、ケガ・不調といったネガティブな環境に、一時・常時あることで味わう精神的な葛藤という、目に見える拳法の戦いとは異なる次元での困難な戦い。これに立ち向かうには、自己の確立・自己同一性(事物がそれ自身に同じであること。特に人格が自己として一貫すること)が求められる。


内なる心の戦い(葛藤)こそ、大学日本拳法におけるひとつの重要なフェイズ(位相)です。その観点からすると、単なる殴り合いに勝った負けたというだけの人間とは、大学卒業後の人生で、幅のある(陰陽のフェイズでの)人生の楽しみ方ができない、かもしれない。

ソクラテス(前469~前399)もプラトン(前427~前347)もデカルト(1596~1650)もカント(1724~1804)も「みんな悩んで大きくなった」ことに鑑みれば、「内なる葛藤という試合」に日々戦い抜いてきた人たちこそ、愛智(フィロソフィア)としての哲学を実践してきた人々、なのかもしれません。


世の中で「オレは大学時代もその後の人生に於いても、日本拳法というクレージー(狂気による正気)な哲学をしていたんだぜ」と、閻魔大王に向かって自信を持って言える人間が、いかほどいるのだろうか。

少なくとも、私の大学時代のクレージーなOBや、一ヶ月前「2023年 第68回全日本学生拳法選手権大会」で、私が精神的にボコボコにされた女性OBには、たとえ哲学という意識がなくても、明確な「コギト・エルゴ・スム 我思う故に我あり」が(私には)見えました。

半年前に出会した「ボクシング少女」の(試合前で気合いが入った一瞬の)クレージーな目にも、数百年前の武士たちが持つ殺気という「我(われ)」を(ガツンと)感じました。(江戸時代のサラリーマン武士は除く)武士とは、剣技以上に「我を信じる強烈な魂」がなければ、「カゲロウ山のように(自分が)消えてしまう」世界に生きていた、ということを教えてくれたのは、21世紀の彼女たちだったのです。

私自身は、毎日が「Living by 大学日本拳法」!60を過ぎた今でも、魂で大学日本拳法をやることによって、日々「オレはオレ」という自覚(自己同一性の慶び → 単なる自己満足かもしれませんが)に浸っています。

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