無と意識

@sunakaze0909

無と意識

 夕暮れが窓から差す教室の中で、机を挟んで彼と向かい合って話す。


 彼の髪はボサボサで整えられておらず、眼鏡をかけている根暗くん。それが私が彼に対する第一印象。

 しかし、私みたく酷いいじめには遭っていないだけ百倍、いや、億倍マシだ。


 彼は眼鏡に手をかけ、口を開いた。


「意識とは、いったいなんなのか? 脳に属するものなのか? それとも細胞か? この意識は死したら完全に消えるものなのか?」

「知らないよ。それ、いま関係あること?」


 知ったことじゃない。

 彼がなにを考えようが、どうでもいい。

 しかし、せっかくの最後だ。

 聴いてみるだけは聴いてみよう。


 無視もしない、暴力も振るわない、虐待もしない、強姦もしてこない。

 そんな彼は私からしたら、たしかにどうでもいいながら、まだマシな人類だ。


「もし死んだら、永遠の終だとしよう。それは、真か?」彼は話をつづける。「無から宇宙は誕生した。インフレーションやらビッグバンやら細かいことはあるが、はじめは、たしかに無が在った。そう、無さえ存在するんだ。その無から、宇宙は誕生したのだから」

「つまり、どういうこと?」


「つまり、だ。身体が無くなるとして、無になるとは、存在の消滅とは言わないんじゃないか? もしかしたら、無になってからも意識は誕生するのかもしれない。それこそ、宇宙のように。ただ、意識だけがそこを漂うのか、生まれ変わるのか、天国や地獄に行くのか。それはわからない」

「仏教? それともキリスト教?」


 ああ、いや、と彼は付け足す。


「宗教の話をしているんじゃない。僕は意識の話をしているんだ。そして、同時に無に関する話もしている。なぜなにもないではなく、なにかがあるのか」

「完全なる無だって言葉があるじゃない」

「完全なる無という状況さえ、そこにはたしかに、だが確実に在るんだ。その無に意識は残らないのか? 宇宙にはダークマターやダークエネルギーなどというものが存在しているのに。いや、これは仮定の話だったか」


 急に、そうすると決めた直前になってこんな話をし出すのは、いったいなんのつもりなんだろう?

 言っていることが理解できない。

 彼が高尚なことを口にしているのか、単なるバカなのか、私にはわからない。

 ただ、彼の目は、それを本気で言っていることだけは窺えた。


「わからないけど、死んだら意識なんてなくなるんじゃないの? 脳ミソだって機能しなくなるし」

「意識は脳ミソに属すると確定したわけじゃない。海外には細胞に属すると言い出す科学者もいるくらいだ。だいたい意識がなんなのか、思考と違って概念的すぎる」


 なくなったら、死体になり、やがて消え果て、完全なる無になる。そこに意識は本当に残らないのか?

 彼は、『ああ、本当にわからない。疑問だよ。教師は教えちゃくれない』と口にする。


「それで?」

「疑問の解決は簡単だ。実験すればいい。空へ身を投げればいい。身体は地上へ落下するが、意識は空に行くのか、地面に墜ちるのか、地面に叩きつけられ死んだあと漂うのか、消えるのか。消えた先はあるのか」


 なるほど、だから彼はきょうーー死のうというのか。

 私からすればくだらない。

 人生に絶望して亡くなるしかない私と比較して、なんてくだらない。軽蔑さえする。

 ただ、そんな彼だから……私が死ぬのに付き合わせられる。


 そう、私は死にたいのだ。

 死にたい。けれど……怖い。

 ……怖い。

 死にたい。

 怖い。


 だから、仲間がほしかった。

 ひとりだと、怖いから。


 彼は椅子から立ち上がった。


「試してみればいいだけの話だったのだ。さあ行こうーー。屋上の鍵は手元にある。四階じゃわからない、屋上から飛ぼう」


 私はそんな大層なことは考えちゃいない。

 ただ、死にたくなっただけだ。

 生きたくない人間も、世の中には確かに存在する。

 彼のような探求心ではなく、残酷な世界とさよならするのに。

 家では虐待され、学校では酷いいじめを受け、強姦までされた。教師は対応しないし、むしろ揉み消そうとする。


 そんな醜い世の中に残りたくはない。

 ただ、死ぬのはやっぱり怖い。

 死にたいけど、怖い。


 だからーー誰かに一緒に死んでほしかった。


 教室を出て階段を登り、屋上のドアの前に立つ。

 彼が扉の鍵を開ける。


 私はひとりで存在しなくなるのが怖かったんだろう。

 選んだ相手は最悪だったけど、最悪だから巻き込むのを躊躇わないで済むし。

 もしも……いや、もしもの話。少しだけ、彼という人間がわかったから思うけど、彼が言う意識とやらが残りつづけたとしても、月まで行けば残酷な現実とは無縁だし。


 屋上のフェンスが一部壊れている。

 彼が予め壊したのだろうか?

 それとも、だから屋上には立ち入り禁止なのだろうか?


 屋上の塀に立つ。

 私は自然と、彼の右手を左手で握った。

 彼は意外に、それを繋ぎ返してくれた。弱々しく、しかし確かに。私がやっぱり死ぬのをやめたときに巻き込まないように強くは握ってこない。

 意外とやさしいとこ、あるじゃん。


 やっぱり、私は死ぬのが怖いのだろう。

 けどーー私は彼の手が絶対に離れないように強く握る。

 残酷な現実がこれからもつづく、そっちのほうが怖い!


「さあーー翔ぼうよ。あの空へ、足を踏み出そう?」

「まだ月に行けるとは決まっていないのにかい? むしろ地面に追突するまで意識は身体に縛られる可能性のほうが遥かに高い」

「死ぬと意識した人間の意識がどこで途切れるかは、死んだ人間にしかわからないでしょう?」


 隣にいる彼が笑う。

 たしかにーーと。


 さあ、今、行こう。

 

 私と彼は同時に、前に足を踏み出した。







 真っ白な天井。病室の中、私はぼんやりと考える。


 医者の話を聴くに、どうやら私だけ運良く生き残ってしまったらしい。

 当たりどころが良かったと医者は話す。


 なに、それ。なんなの、それは?


 私は運悪く死ねなかったんだ。


 そうして、絶望の先にどう抗うか考えながら、うっすらした意識で考える。 


 ああーー彼は、どうなったんだろう、と。


 彼の思考を私はバカとしか思えなかったが、あるいは理解できなかったが、やさしさが確かにあった彼が今いたら、と今になって思う。


 彼の意識は、どうなったのだろう?


 地面の染みになり、やがて消えたか。


 月まで辿り着いたのか。


 この世に残っているのか。


 ひとりで月に行けるなんてーーずるい。


 私は枯れている声を無理やり上げる。

 小さく、だけど、確かに口にする。


「あー、あー、聞こえていますか? きみの意識は、今、どこにいるの?」

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