7月19日 2

 列車内には長椅子しかない。

 窓の外では、雑居ビルと集合住宅の群れが現れては流れ去りを繰り返している。

「これは、環状線みたいな?」

「そうだね、正確には8の字線」

 白くて細い指が、宙に捻じれた輪を描く。

「8の字線は二つあって、縦の8……タテハチって呼ばれてるやつね。これは上の端っこが北駅で下の端っこが南駅。もうイッコのヨコハチは、北を向いて右の端が東駅、左の端が西駅。で、二つの8は中央駅で結ばれてるの。上から見ると四葉のクローバーみたいなんだよ。ちなみに私たちが今乗ってるのはタテハチで、さっき使ったウチの最寄りは波多野はたの駅」

 自称新妻いわく『ん……通勤ラッシュはとっくに終わってる』な時間帯の列車内。アパートを出てファミリーレストランの反対方向へ歩き、そこそこ大きな駅から緑と銀の縞模様が印象的な列車に乗って今に至る。『取り寄せた』という機構員手帳とやらには、身分証明機能の他に定期乗車券としての役割もあったらしい。『真似してみて』と〝列島部の常識〟の通りのやり方を見せられて、それに習って手帳の裏側を自動改札機にかざすとフラップドアが開いて――ああ、こっちとあっちはよく似てるんだな、とこの時ヤマトは改めて思った。

 隣り合って腰かけたヤマトとココロ正面には、あなたから見れば〝まだ子ども〟な男女がひと組、座席側に向けられたベビーカーを伴って座っている。

「夫婦だよ。私たちと同じ」

「気になってるの、バレちゃったか」

「興味深そうに見てたもん。成人すれば結婚できるから、ああいう見た目の子持ちの夫婦も珍しくないの」

「僕の感覚だと、あのくらいの子たちはようやく中学に上がるかどうかってところだよ」

「こっちには見た目より中身がオトナっていう私みたいな人はそれなりにいるから、実際には……」

 見当違いの自慢が見え隠れするお喋りが終わらないうちに、ヤマトの上着の内ポケットで小さめな電子音。携帯端末が振動しながら鳴っている。

「サイレン?」

 ううう、ううう、と不穏な響き。

 黒い端末の白い画面には、赤い文字で〈警報〉。

 右を見れば、ココロも端末を取り出している。その画面にも赤く〈警報〉。

 ――次はシモダイラ、シモダイラ。お出口は進行方向右側になります。

 車内放送が流れる。

 幼い夫婦はそろってベビーカーの中を覗き、仲睦まじげにしている。

「ん……近くにノイズがいる」

「何、それ」

「すぐにわかるよ」

 警報音は不気味だが、線路の立てる音に隠されて周囲には届いていないようだった。もっとも、正面の家族以外に周囲と呼べる人間は見当たらないのだが。

 窓の外に歩廊が見えてきて、〝下平〟と記された駅名標も現れて、警報音と振動は相変わらずで。

 列車が止まる。

 ホームに並ぶ人間は少ない。

 ヤマトから見て前方の、左右のドアが開く。

 左からはスーツを着た初老の男性が二人。

 右からは赤いエプロンを着た中年の女性と、ジャージ姿の若い男性が一人ずつ。

「ノイズ、なんとなくわかる?」

「もしかしてあのエプロンの人のこと?」

「当たり。理由は?」

「格好と目つきがちょっとおかしいから」

「合格」

 極端に猫背で、長めの髪が乱れており、目はうつろ。例の夫婦が、その女――ノイズを見て身を強張らせた。少なくともヤマトにはそう思えた。乗って来た人々は特別な反応を示さず、空いている席に腰を下ろしていく。

 ドアが閉まった。

(あの二人、ノイズってヤツを怖がってる。っていうか他の人たちはアレが見えてないの?)

 列車が走り出す。

 ノイズがずるりずるりとベビーカーの方へ歩き始めた。

「……あの感じ、なんかヤバいんじゃない?」

「ヤバいね」

 二人の端末はおとなしくなる気配を見せない。

「どうするの?」

はらうの」

 ノイズの歩みが大股になった。父親が青ざめた顔で立ち上がり、母親がベビーカーのハンドルに手を掛ける。

「見ててね」

 冷たさが甘さを上回った。

 瞬き一度分の時が過ぎる間に、ヤマトの右隣から体温が消えた。

 赤いエプロンの正面に、背筋を伸ばした黒ずくめの少女がいた。

 ノイズの腹を、ココロの右腕が突いて破った。

(な、ま、まさか。冗談でしょ)

 幼い夫婦が目と鼻だけで悲鳴を上げた。

 胴を貫かれたノイズの体が二度、三度と大きく跳ねる。貫いたココロの右腕も釣られて揺れる。

「い、いくら不審者だって言ったって、殺したり大けがさせたりはさすがにマズいだろ」

 公衆の面前なので叫びはしない。出来の悪い作り話の中に迷い込んだ気分だったが、彼はすでに昨夜から、どんな作り話も出来の悪さでは及ばない現実に身を浸している。ついでにファミリーレストランの駐車場での一件を棚に上げるどころかしまい込んでいる。

「平気平気」

 閉じかけのまぶたが肩越しに向けられていて、聞き慣れてきたささやきが、がたんごとんの隙間を縫って届いてきて。

「確かに血は出てないように見えるけど、だからって平気なんてそんなわけ」

 ノイズの姿が崩れ出した。

 透けて、歪んで、消えていく。

 ココロは例の夫婦以外の人々の注目を集めておらず、スーツの男性のうちの一人が彼女をちらりと見たが、その目には美しい物を前にしたことへの驚喜しか宿ってはいなかった。

「――、……――」

「……っ――」

「ん……危ないところでしたね。もう大丈夫、私は機構の者です」

 へたり込みかけた夫婦の礼は列車の足音に紛れてしまう。

(ココロの声って、小さいのになんでこんなによく聞こえるんだろう? いや、その前にアレは一体なんだったんだ)

 ――次はチュウオウ、チュウオウ。お出口は進行方向左側になります。東方面にお向かいのお客様は3番線、西方面にお向かいのお客様は4番線で、下車の上それぞれお待ちください。

 ヤマトとココロが降りる予定の駅は、アナウンスされた中央駅。

(今日は昨日以上にワケわかんないことが沢山起こりそう)

 7月19日はまだ始まったばかりであった。

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