寝惚け眼のビスクドール 2

7月19日 1

「ん……ねえ、そろそろ起きないと」

 甘くて冷たい声がする。

 薄く裂けた視界には、こちらを覗き込む小さな顔。

(ココロだ。中津国ナカツクニ ココロ

 うねる銀髪。

 まぶたは閉じかけ。

 碧の瞳がちろちろちろ。

「おはよう」

 唇は血の赤、肌は骨の白。

(美少女記憶喪失死後同居)

 挨拶を返すべく脳の回転数を上げれば、ほどなくレブリミットに当たってしまう。寝起きの状態では大量の情報を処理しきれなくとも無理はない。口から警告音を漏らした後、白い毛布を道連れに、ヤマトは上半身を跳ね上げた。

「えっ、あ、ちょっと待っ」

 驚いたのか右のまぶたを半分ほど開いたココロの眉間へ、迫り来る栗色の前髪。

 ごつ。

 皮膚を挟んで骨どうしがキスをすると、こうして湿った音が鳴る。

「お"っ……」

 ベッドに倒れなおし、喉を開いて呻くピンクのパジャマの少年。

「――ッ……つ……あっ―――な、なんで急に……起き……ッ……ふ……ぬっ……っ」

 茶色い板張りの床にしゃがみこみ、額を押さえて悶絶する黒ずくめの少女。

 とても賑やかな、7月19日の朝の風景であった。


 カーテンの開いた窓から、夏になりかけの朝の白い陽ざし。

 通りを行き交う車の足音には、昨夜の雨の名残があった。

 涼しい居間でちゃぶ台を挟んで向かい合い、互いの胸の前には各々の朝食。カピバラが一頭ずつ描かれた橙色のマグカップからは、ココアの香りが湯気を従えて立ち上っている。長方形の白い皿の上には、きつね色で丸いこぶし大のパンが一つと、分厚く短く色の濃いベーコンが二枚、そしてパンの半分程度の大きさで歪な形の黄色いチーズがひとかけら。その脇に、ヘタを外されたミニトマトが二粒あった。

(ワンプレートってヤツだろうな、コレ)

 ベーコンの焦げ目を見やりながら、ヤマトは赤くなった額をさする。と、へその辺りから、紺色のジーンズの生地を突き破って重低音。

「ん……お腹鳴ってるよ、どうぞ」

「うん。いただきます」

「私も、いただきます」

 促されてパンを手に取ったは良いものの、どう食べようかと固まった彼は、ココロの食べ方を参考にしようとして呆気にとられた。

(な、なんだその食べ方……⁈ ハンバーガー……じゃないよな……)

 腹を裂いたパンでベーコン・チーズ・トマトを掴むと、大きな口を開けていっぺんにかじり始めたのだ。

 むしゃ。

 むしゃ。

 むしゃ。

 三口で終わり。

 もごもご。

(寝惚けたリスかよ! でもかわいいな)

 箸もフォークも無いこの状況では、この食べ方が正解なのだろう。

「ん……ああ、そうだ」

 咀嚼音を漏らすことなくココロがささやく――ヤマトの右手からスイと取り上げたパンの腹を裂きながら。

「服と携帯端末と歯磨きセットとお食事セットは私が昨日の夜に調達済みって話はさっきしたよね」

 一瞬ウソだと思った、とは言わずにうなずくだけ。

(この服もあのスマホ……アレはスマホだよな……もホントに用意してあったもんなぁ。感謝しなくちゃ)

 今日のトップスは灰色のポロシャツだった。

「ついでに、寝ちゃったあなたをお風呂に入れてあげた話もご飯を準備しながらしたよね」

「ファッ⁈」

「まぁ、声に出して話したわけじゃないけど」

「ヤバい金貸しの契約書類みたいなこと言わないでよ⁈ そう言えばやけに髪の毛がさっぱりしてるなと思ったっていうか今から考えればあのサイズのちっちゃいピンクのパジャマはココロが僕に着せたのか!」

 彼女は驚く相手のベーコンとチーズとミニトマトを器用に捕まえてゆく――もちろん、パンの手袋で。もごもごは継続中だが、その頬袋はだいぶ小さくなってきている。

「今ごろ気づいたの? そうそうそれでね」

「待って」

「あなたはさっき一秒も待たずにヘッドバットかましてきたでしょ」

 骨の白なはずの額が、ほんのり赤くなっている。

「それでね、あなたをお風呂に入れて体を拭いて髪を乾かしてパジャマを着せて寝かせた後、機構員手帳の発行申請をしたんだ」

 ヤマトは何も尋ねない。ココロが右手で作り上げ、鷲掴みにしているBCTサンドを見つめているだけだ。

(喋るだけ喋らせとこう、もう。その手帳っていうのもどうせ僕のなんだろうし)

 完全に諦めている。

「で、それが今朝届いたの」

「……早いんだね」

「私たちが夫婦だからだよ。エージェントの配偶者は諸々の審査をすっ飛ばしてエージェントになれちゃうの。どうかと思うルールだけど、こういう時には便利だよね」

 小さな右手がグッと前に突き出て来る。

「ふ、ふふふふふふ夫婦、って」

 諦めたとはいえ、聞き流せない諸々はあって然るべき。

「申請する前に婚姻届けを出しといたの。こっちでは結婚なんて両者の合意があればオンラインで5秒だから」

 閉じかけのまぶたが少し持ち上がる。碧の瞳は相変わらずの美しさ。

「合意なんて、してな」

「したした。私が『結婚しよ』って言ったら『う、ん……』って」

「それもしかして僕が寝てる時に無理やり何かそれっぽい声を出させて」

「でもその音声データで届け出は通ったもん」

「も、もうちょっとちゃんと説明を」

「やだよめんどくさい。ほら、家での話はこれでおしまい。さっさと食べて歯磨きして顔洗って仕事に行こう。お皿は下げちゃうからね、洗わないとだから」

「もぉごっ」

「を」の形に開いたまま固まっていた口の中へ、BCTサンドがねじ込まれる。遠目から眺めたならば、これはいわゆる〝あーん〟だったはずだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る