第1章 英雄 (2) 食卓にて
「そうか、異色の双眼は、壮健か……」
すっかり白くなった短髪を撫で、その初老の男は力なく、そう呟く。
辛うじて椅子にしがみついている、そんな形容が相応しい彼の、その青白い顔は、明らかに病が篤いことを示していた。
木星の白い大斑点が、その真上から見下ろす同盟評議会、議長官邸。
緑の芝が映える広々とした敷地の、その中央。
この同盟の中枢は、ぶ厚い石造りの佇まいで、その威厳を湛えていた。
木星の衛星エウロパ、同盟首都、新東京。
その議長室に、男女が二人。
「ところで議長閣下。わが同盟は、本日を期し、火星宙域のケレス沖にて、連合に対し反撃を開始いたします」
初老の男、同盟議長に、ベアトリーチェの近況を伝えた後、戦況について報告した、スーツ姿の女。
長く豊かな黒髪を揺らす、その紫紺の瞳は、参謀本部からやって来た、アンジェリカ=ルイ=ル=グラン参謀次長であった。
ただ、作戦は、すでに評議会で裁可されている。
また、出向かずとも、その経過は、議長官邸と軍で共有されてもいる。
つまりこれは、議長のご機嫌伺い、であった。
「ともに戦った、あの日々が懐かしい」
男は、戦況には水を向けず、目を細めた。
「そうタイタンだ。あの凍てつく塹壕で、ベアトリーチェと、固くなったビスケットを分け合ったのが、まるで昨日のことのようだ。あれは実に美味かった」
タイタン。
ここ木星圏から遥か彼方、土星の衛星で極寒の地、いまは連合の自治州。
十年前に終結した第二次星間大戦、激戦地の一つである。
当時、同盟は、本土を脅かすこの連合の前線基地を壊滅させるべく、大軍を差し向け、血みどろの地上戦の挙句、二百万の犠牲を支払い、僅かな橋頭堡を得た。
それが同盟の飛地、タイタン州カレリアである。
「あいつは、変わり者だが、何故か人が集まる。不思議な奴だ」
「仏頂面ですけどね」
「あと不器用も付け加えてくれ」
議長は、目尻を落とし、ふうっと息を吐いた。
「私はそう長くは無い。ほどなくジュピターに召される……」
アンジェリカは、すかさずしっと人差し指を唇に当て、議長を制する。
「閣下。くたばるのは、もう少しだけ後にして下さい」
その失礼な物言いに議長は、もう出て行け、そう言わんばかりに、アンジェリカへ手を振った。
彼こそは、同盟評議会第三代議長、この地における政治権力の頂点にある、その名をムラト=セイ=ル=グランといった。
紫紺をウィンクさせて、バタンと議長室を退出した、アンジェリカの叔父にあたる。
* * *
——にゃあ……
エウロパの司令席で、足を組み、頬杖をつくベアトリーチェに、ひと鳴きした黒猫が、その足元で行儀よく座る。
「ジル、また大きな戦争になるのだろうか?」
そんな彼女の問いかけに、まさか肯定したわけではあるまい。にゃあ、ともうひと鳴きした猫は、椅子の隙間に潜り込み、彼女の膝に陣取った。ゴロゴロとその喉を鳴らす。
「夥しい血を呑み込んだ祖國の大地よ。われら紅國の民に、まだ、流血を強いるのか……」
同盟は、百年前、独立戦争で二億人を超える犠牲を支払った。人々は血涙を流し、その鮮血は大河を成した。しばしば同盟では、これを指して、自分たちの國を紅國と呼ぶ。
ジルの顎をしばらく撫でたベアトリーチェは、その手を止めた。
何者かの、いや見知った気配がするのだ。
そして立ち上がって、振り返る。
司令席の真後ろ、丁度、間接照明が途切れ薄暗くなっている辺り、その一隅に佇む影に問いかけた。
「レイシアか?」
猫が、艦橋にやってきた。
それは、何者かが扉を開けてやって来たことを示唆していた。無論、艦橋は誰彼なしに入室が許されるような場所ではない。
ただ、つい先ほどまで気配は無かったのだが。
「……レイ」
黒い短髪を揺らして、大股で近づいてくる黒いスーツの「男」。ピンと背を伸ばす、その趣きは、一見して軍人、或いは元軍人のそれであった。
ベアトリーチェの鼻先までずいっと進み出た、その麗人は、念を押すように改めて名乗る。
「ボクは、河原崎レイ、だ」
「男装のつもりか?」
「そうだよ。だって保安局員だもん。ぐちゃぐちゃに溢れ返る情報の只中で、ひっそりと仕事をする。それが今のボクさ。軍を嗅ぎ回るには、この格好の方が都合がいいんだよ」
國家保安局は、同盟の最高意思決定機関、すなわち同盟評議会に属する、諜報機関である。
軍を除隊したレイシアは、そこの局員であった。
「だから、このとおり普段から男を装っているんだ。いざという時にボロが出ないようにね」
ベアトリーチェは、レイシアの胸元が、そのワイシャツに辛うじて収まっているさまに、眉を顰めた。
ただ、そのなりでよく仕事が務まるな、とは言わずにおいた。
「で、私の監視を?」
「まさか」
舌先を出しておどけて見せるレイシアは、その腰にさす短刀の鞘に、つつっと指先を這わせた。
「相変わらずだな」
「まあね。昔、ウチの道場で一緒に剣術の稽古に励んだこと、覚えてる?」
「ああ、懐かしいな」
「これはね、最近、新調した短剣さ。この間、早速、血を吸ったんだけどね」
「物騒だな」
「刀剣というのは、武人の魂が宿るんだ。これはね、験担ぎなんだ。いつも一緒……」
ベアトリーチェは、レイシアを遮った。
「昔話をしにきたわけではないのだろう?」
「……バレちゃった?」
「用向きは? 見てのとおり取り込み中だ」
憮然としてベアトリーチェは、大型ビジョンに映る、連合艦隊を顎でしゃくった。
そんな眉根を寄せる彼女より、頭一つ背の高いレイシアは、その身体を捩らせてきまり悪そうに言った。
「金髪の彼女。病院で目を覚ましたよ」
金髪の彼女、それはベアトリーチェと同じ年で、姉妹同然に育った、サーシャという女のことである。
先の第二次星間大戦の激戦地、タイタンで起きたある「事件」のために、彼女は意識を失っていたのだ。
それから十年、経っていた。
「ボクからは、以上さ」
レイシアは、回れ右をすると、出口に足を向けた。だが、すぐに立ち止まり、俯いた。
「ねえ、ビーチェ。また、始まるのかな? 十年前のような、大きな戦い」
「さあな。ただ、人類が愚かな限りは、な」
「哀しいね。ボクは……、なんとかならないかな」
「少なくとも、猫は、戦争をしない」
「……ふふ、そうだね」
黒い瞳を潤ませたレイシアは、肩をすくめ、艦橋の一隅へ足を向けると、今度こそ影に戻った。
いつの間にか連合艦隊の砲撃が止んでいる。
彼らは、方陣から横陣に変更しつつある同盟艦隊の意図を推測っているのだ。
両軍とも、戦闘の新たな局面に備えていた。
ただ、そんな戦況などまるで目に入らぬ鷹揚さで、ベアトリーチェは、こめかみをすっぽりと隠すように垂れ下がる自らの白髪を、指先に巻いて、こう呟いた。
「……サーシャ、逸るな」
十年間、眠り続けた親友であり、戦友、または、姉妹のサーシャ。
そんな彼女は、目覚めた時、果たしてどう思考を巡らせるだろうか。
ベアトリーチェは、頭を振った。考えても栓のないこと、そう割り切った時、視界が司令席を収めた。
「ジル、代わってくれるのか?」
ふんっとベアトリーチェは鼻を鳴らした。
すっかり司令席の住人となったジルは、そこでとぐろを巻き、寝息を立てていた。
* * *
同盟艦隊の総旗艦、エウロパの艦内には、食堂が二つある。
一つは、士官食堂。尉官以上が利用できる。無論、ほかの者は出入りすら禁じられている。
もう一つは、五百人を収容できる、大食堂である。
軍では、良きにつけ悪しきにつけ、階級がものをいうのだ。
総攻撃を前に大食堂は、ガヤガヤと賑わい、下士官たちで溢れていた。と言っても楽しんでいるわけではない。なぜなら、これが彼らにとって最後の晩餐になるかもしれないからである。
そんな緊張を孕んだ場所に、突然、その喧騒をスパッと斬るように、長い白髪がキラリと翻る。
同盟が誇る英雄、あの異色の双眼、その人が、悠然と闊歩し、場はしんっと静まり返る。
カレーライスの載ったトレイを抱え、食堂の中央、未だ誰も座っていない十人がけのテーブル、通称、元帥の食卓に英雄は座った。
総司令官のベアトリーチェが、決戦の直前、下士官たちと食卓を囲む。それはエウロパ恒例の風物詩であった。
威圧とも、強迫ともつかぬ、ただならぬ雰囲気で佇む彼女を、下士官たちは、恐る恐る遠巻きに窺う。
やがて、一人の若者が意を決する。
——か、閣下、ご一緒して、よ、宜しいでしょうか!?
ベアトリーチェは黙って頷き、席を勧める。これを合図に、下士官たちは次々と着席する。
生ける伝説、かの英雄と相席の食事。
緊張が、彼らの、身も、心も、縛りつける。
だがこれは、下士官たちにとって好機でもあった。なぜなら、故郷の家族や恋人に、あの英雄と食卓を囲んだ、そう自慢できるからである。
彼らは、そのわずかな席を巡って、実は、いつも争っていた。
ベアトリーチェは、テーブルに座る十人、その一人一人に名を尋ね、故郷での、彼らの消息に耳を傾けた。
下士官たちは、顔をこわばらせながら、それでも、懸命に言葉を捻り出す。
——じ、自分は、エウロパの新東京出身で、実家はパン屋を営んでおります。父と母の作るアンパンは、同盟で一番です!
「それは是非、ご相伴に預かりたいものだな」と、満足そうに頷く彼女に、その若い一兵卒は、晴れやかに頬を緩ませる。
——自分はカリストのキール出身です。中学生になる娘が、最近、話をしてくれません。
「その娘御は、正しく人生を歩んでいる。父としてその成長を慶ぶがいい」と、素っ気ない彼女に、壮年の軍曹は頭を抱える。
——わ、私は、イオのキングストン出身です。小学生の弟が、閣下の大ファンです。サ、サインを頂けないでしょうか?
「勿論、お安い御用だ」と、メモにさらっとサインを認め、その紙片を押しやる彼女に、看護兵の女は思わず涙ぐむ。
——ぼ、僕は、ガニメデの出身です。死んだ父が、前に、タイタンで漁師をしていました。か、閣下は、ハタハタを知っていますか?
「タイタン名物のハタハタを知らぬ者はいまい。旬のものは、脂が乗っていて実に美味い」
——ハタハタは、釣り上げるのにコツがいるんです。
「ほう、では今度、貴官に手解きを受けたいものだ」と、竿を振る真似をする彼女に、あどけない顔を綻ばせ、整備兵の少年は小躍りする。
——あ、あの閣下、タイタンに住んでいたことがあると聞きましたが。
「小さい時にな。まあ、今でも小さいが……」
突然、下士官たちに、難問が降りかかる。
何故か?
彼らは耳にしたことがあるのだ。まことしやかに信じられている噂を。
身長の話題になると、元帥は激怒する、と——
今でも小さい、それが冗談であることは、彼らにも分かる。分かるのだが……。
果たして、如何に身を処すべきや?
皆、最適解を求め、脳の片隅まで右往左往し、やがてそれぞれに身悶えた。
そこに、丸坊主の若者が、あっけらかんと喉を鳴らす。
——俺は、いや、あれ、ごめんなさい。わ、わたし、ん、何でしたっけ?
「問われても困るぞ」
静寂が、ポツン、と波紋する。
だが、それも刹那。
ぷっ、と誰かの放った一撃が、張り詰めた緊張の堰を叩き壊し、大食堂を笑いの渦へ放り込んだ。
「緊張は、人を成長させる糧である。大切にするがいい」、そう彼女は眉を下げ、真っ赤になって坊主頭を掻く、その若者を見つめた。
そして……
——閣下、猫の名は何と……
「ジル。私のミドルネームからとった……」
——わたしの話もお聞きください……
「いいとも……
もう、彼女のテーブルに座る者だけではない。皆、次々と英雄を取り囲み、我先にと思いを告げる。
終始、穏やかにベアトリーチェは、その若草たちを愛でていた。
* * *
やがて、食事は、終わりを迎えた。
ベアトリーチェは、身支度を整え、立ち上がる。
そんな彼女を見上げ、ある若者が思い切って問いかけた。
——閣下。この戦争は、勝てますか……?
皆、息を呑んだ。
なにせこの三か月、一方的に連合から攻撃を受けていたのである。無理もない。
彼らは不安の中で、故郷を思い、ただじっと耐え忍んでいたのだ。
果たして、英雄は何を語らん……。
「戦は、勝ち負けではない」
と厳かに呟く。そして、
「ただ、ひとつ言うならば、この食卓は、まことに愉快であった」
そう言い放った英雄は、白髪を翻し、悠然と食堂を去った。
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