木箱に腰掛ける男

黒本聖南

◆◆◆

 鮮明になったこの目は、一人の男を映した。


 埃やら泥やらで酷く汚れた背広姿の、そこまで若くはなさそうな男だ。そいつは見るからに頑丈そうな木箱の上に腰掛けて、ぼんやりと虚空を眺めている。

 見たことのない男だ。

 中央に巨大な木の生えたこの広場で、あんな、東洋系の顔立ちをした男など、この一月で目にした覚えがない。

 新入りだろうか。

 寝そべっていた地面から身体を起こし、男に近付こうとすれば、ちょいと待ちなよと制止の声が耳に届く。この広場に寝床を構えて一月、何かと世話になってきた先輩のものだ、無視などできない。


「おはようさんです、先輩。何かご用でしょうか」

「おはよう、なんだが兄ちゃん、あんた今、あの男に話し掛けようとしていただろう」

「気になりましたもので」


 見た目通りの東洋人であるなら、是非とも故郷について話を聞いてみたい。これまで耳にしてきた東洋の話はどれも非常に面白く、どれくらい本当のことなのか確かめてみたかった。

 話を聞く対価に、ここでやっていく方法をいくらか伝授しようかと思っていたが、先輩は首を横に振りながら、やめろと言ってくる。


「あいつには関わらない方がいい。ろくな目に遭わない」

「あの人を知っているような口振りですね。もしや、新入りではないのですか?」

「むしろ最古参だ」


 男は私よりも年上に、禿頭の先輩よりは年下に見える。それで最古参とはどういうことか、余計に気になった。

 挨拶だけでも、と口にした私に、憐れむような視線を向けて、先輩は離れてしまった。ほんのり罪悪感を覚えたが、好奇心には勝てない。私は足早に男の元へ向かった。


「おはようございます」


 朝の挨拶をすれば、ぎょろりと男の目が私に向けられた。内心喫驚したが、笑みを浮かべて誤魔化し、一月前からここで寝起きしていると告げる。男はじっと私を見つめるばかりで何も言わない。

 話し掛けたことを後悔してきたが、訊きたいことを訊いてからでないと立ち去りたくはなかった。


「東洋のことについて、昔から興味があるのです。ご迷惑でなければ話を聞きたいのですが」


 男は何も答えない。──代わりに、何かを叩くような音が耳に届く。

 どんと、どんと、不規則に何度でも。

 近くから、正確には木箱から物音はしていたが、そこに腰掛ける男の顔に変化はない。じろじろと私を無言で見る限り。


「……す、すみません、出直します」


 徐々に男が、そして木箱が気味悪くなってきて、堪えきれずに背を向ける。寝床に戻ると何も考えずに荷物を纏め、広場を後にした。


◆◆◆


 しばらく広場には近寄らなかったが、たまたま会った先輩と酒盛りをすることになり、先輩の寝床に──あの広場に行くことになった。

 酒は、そこにある。この一月半、一滴も酒を飲んでおらず、そろそろ口淋しくなっていた。場所がどこだろうとこの際どうでもいい、視界に入れなければいいのだと、先輩と共に行けば、男はどこにもいなかった。

 辺りを見回す私に気付いた先輩は、どこか疲れたような口振りで教えてくれた。


「木箱と共に突然現れ、木箱と共に突然いなくなる、それがあいつだよ」

「……あの男は何ですか? それに、木箱も」

「世の中には知らない方がいいこともある。なあ、兄ちゃん。よそで寝起きしてどうだった?」


 どうとは、なんて問い返さなくとも分かる。

 仕事を失くし、住まいを失くして一月半。この広場では心置きなく寝起きできていたが、よそではとても安眠などできなかった。何度寝込みを襲われたことだろう。痣も傷も未だ身体に残っている。

 私が何も答えないでいると、察したのだろう。


「たまにな、兄ちゃんみたいにあの男と木箱が気になって、絡みにいく奴がいるんだよ。なんなら面白半分に暴力を振るう奴もいる。絡むだけならちょっとした不幸が続くだけだが……暴力、それも木箱に危害を加える奴はいけない。どこかに連れていかれて、二度と姿を見ることはない。そういうもんなんだ」

「……は?」

「まあ、何だ。取り敢えず、あの男がここに来る限り、ここは安全。悪い奴は近寄らないんだ」


 何の心配もしなくていい。

 それだけ言うと、先輩はさっさと酒盛りの準備を始めてしまう。私も手伝うべきだが、視線は、意識はずっと、最後に男を見た辺りに固定されている。

 知るべきではない。

 それでも、気になって仕方ない。

 木箱からしたあの物音は、まるで……誰かが中から叩いているようなものだった。


◆◆◆


 寝床を広場の元の場所に戻し、男が戻るのを待った。関わるなと言われても、妙に男が、それに木箱が気になって仕方ない。せめて最後にあと一度会って、それで……どうするか。

 ──物音の正体を確かめてみたい。

 そんなことを考えながら日々を過ごしていき、何度目かの朝。いつも通りに目を覚まし、ぼやけた視界が鮮明になるのを待てば──この目は、男の姿を映した。

 酷く汚れた背広姿の、頑丈な木箱に腰掛けた若くない東洋系の男。

 思わず駆け寄ったこの背に、先輩の制止の声が飛んできたが止まらない。正面に立っても、男はぼんやり虚空を眺めている。


「また、お会いしましたね」


 返事はない。


「前回は失礼な態度を取ってしまい、申し訳ないです」


 返事はない。


「一度はここを離れましたが、他の場所に比べたら住み心地が良く、戻って来てしまいました」


 返事はない。


「あの、つかぬことお訊きしたいのですが……その木箱、中には何が入っているのですか?」


 ぎょろりと男の目が私にむく。

 何も言われない。


「物音が聞こえるのですが、誰か、中にいるのでしょうか」


 返事はない。


「閉じ込めて、何をしたいのですか」


 返事はない。

 何を訊いた所で答えてはくれないだろう。それでも口を開けば、疑問しか溢れ出ない。まるで何かに取り憑かれたみたいに問い続ける。


「いつからここにいるのですか、いつもどこに行っているのですか、そもそもどこからやって来たのですか、あなたは何を作っているのですか」


 何を作っているのですか?

 自分で口にした言葉の意味が分からない。作る、作るとは何か。どうして私はそんなことを言う。そんな疑問が口の動きを止め──その代わりに手を動かした。

 私の手は真っ直ぐに、木箱に伸びていく。

 止まらない。止める気も起きない。ああ、どんな触り心地なのだろう。そんな好奇心を抱いたが、一瞬で霧散した。

 男に手を掴まれる。

 力強い、ともすれば折られてしまいかねないほどに、遠慮がない。痛みに顔をしかめながら視線を向ければ、男と目が合った。やけに濁った黒い瞳だ。そこに私の姿は映っていない。


「■■」


 耳慣れない言語。男の故郷の言葉か。

 ゆっくりと男の口角が上がったと思えば、その顔が近付いてきて──。


「兄ちゃ」


 遠くから、酷く焦った先輩の声が聞こえたが、気のせいかもしれない。

 私の意識はここで途切れた。


◆◆◆


 とある国のどこかの広場、酷く汚れた背広姿の若くない男は、今日も木箱に腰掛けて、ぼんやり虚空を眺めている。

 最近、可愛がっていた後輩を失った老夫は、男の木箱が気になって仕方ない。

 そこから物音がするのは以前から知っていたが、これまでは無視していた。関わらなければ怖くないと、ずっと無視をしてきた。

 だが、倒れた後輩をどこかに連れていき、一人で戻って来た男の木箱から、何故だろう、本当に、何故だろう。


 助けを求める後輩の声が聞こえるのは、気のせいか。


 老夫はもう無視ができなかった。あの中に後輩がいるのなら助けたいと、それだけしか考えずに、ホームレス仲間の制止を無視して、男の元へと近付いた。


 どこで手に入れたのだろう、その手に、壊れかけのハンマーを持って。

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