第9話 ツツジを売ったらいくらになるかしら。
一般に、
猪も ともに吹かるゝ 野分かな――日本でいちばん有名な俳諧がそう詠んだように、野分とは元来、厳しい冬の到来を知らせる台風のことを指します。
「あの女を……ツツジを堕として。変態ストーカー」
二人は駅前のスターバックスに入り、窓際の席に向かい合って座っていました。
「なんだって?」
優は思わず聞き返します。難聴系というわけでもなく、単に意味が分からなかったのです。
「あなた、更科優でしょ?」
対面の野分はなんともつかみどころのない表情をしています。本来なら印象に残らない、何を考えているのか分からないぼんやりした表情。しかしそのあらゆる無感情が、むしろ野分の顔立ちの美しさを何より引き立てていました。完璧な造形美を十二分に生かすのは、笑顔でも、泣き顔でもなく、無表情なのでした。
今も優を捉えているのかどうか、確証のつかない薄弱な、しかし幽玄とも言い換えられる怪しい光を宿した眼をぱちぱちさせて、クール系ダウナー美少女は薄く笑います。
「更科優が
「…………」
優は押し黙ります。たいへん嫌な気がしたのです。今日は二度もこの気持ちを味わうことになろうとは――優はその心の底にメランコリーが蓄積するのを感じました。
「バカみたいな話で、眉唾だと思ったけど……昨日のを見て、考えが変わったわ」
「…………」
そこで野分は、すっと視線を窓の外に向けました。これから野分にとって口に出すのに抵抗のある言葉を紡ごうというのです。
「わたしでさえ、危うく堕ちそうになった。一目見て、わたしの中の女が、無抵抗で更科優という男に降伏しかけた……あれは、本物の『美』よ」
「…………」
「……ねえ、話聞いてるの?」
優が何も言わずにいたので、野分が苛立って問い詰めます。
「ああ、ごめん。ずいぶん退屈な話だ、と思ってね」
優のこの返答に顔色を変えなかったのですから、野分も賢しい女です。
「……その紙はなに」
代わりに野分が言及したのは、優が手慰みに折っていた鶴です。優が開いてみせると、そこにはLINEとInstagramのIDが記されていました。
「店員さんに貰うだろ」
「たまになら?」
「僕は必ずだ」
「は? 自慢?」
「それが僕と君の認識の差だってことだ。君がなにに興奮しているのか知らないけど、僕にとって、僕の顔の美醜で周囲が混乱するっていうのは、わざわざ取り立てて話すことですらない日常なんだよ」
野分はおそらく、優の瞳の中に一つの明確な感情を読み取りました。
「……怒ってる? どうして?」
野分の純粋な直感的な質問には、しかし。
「そういう性格なのかもしれないけど――前置きが長いんだよ。さっさと本題に入れ」
今の優には全く応じる必要も、義理も、感じさせなかったのでした。
「あんまり見くびらないで。急に本題から入って、混乱してたのはそっちでしょ」
それで気分を害したのは野分です。眉を逆立てて抗弁します。優の前ではどうしても霞んでしまいますが、野分も躑躅と並ぶほどの奇跡の美少女なのです。常に人の上に立ち、人を使う側にいる彼女は、誰かに指図されることに慣れていないのでした。
「……悪かったよ」
彼女の怒気を前にして、優が自身が冷静さを欠いていたことを自覚します。
「それで? 僕がイケメンだから何だって言うんだ」
「謙遜とかしないのね。まあ、その顔面偏差値でされてもウザいだけだから、却っていいけど」
優はもはや、一々そういう気を遣うのに疲れ切っていたのです。今となっては、嫌うやつは嫌えばいい、という……半ば自暴自棄とも、一周回って人間関係の答えとも言える、ありがちな心構えで他者を相手にしているのでした。
「だから。ツツジのやつをわからせて」
「君は彼女の友人なんじゃないのか?」
「考えてみて。あのメスガキがあのまま歳取ってメスババアになったら悲惨よ」
「プライドだけ高い厄介おばさんの出来上がりだね」
「わたしの親友を侮辱しないで」
「ごめんね」
優は苦笑いで平謝りです。
「……そう、今の。そういうのもできるのね。なら、やっぱりあなた。『理不尽だ』とか『ハメられた』とかキモいツッコミを入れて喚いたりしない。『女が機嫌を損ねたら自分に非がなくとも男側がとりあえず謝る』……その容姿で、そういうことができるあなたに頼みたいわ」
「…………」
優は笑顔のまま、情報を整理します。
野分が優を選んだ理由は分かりました。女慣れしているイケメンに、躑躅を篭絡してほしいというわけです。可不可の問題で言えば、可能である確信が優にはありました。優の容姿はあらゆる女性に効力を発する劇薬です。その点については問題ないのでした。
それでもやはり、野分がそんなことを頼む理由は分かりません。
「君の目的はなんだ?」
優の質問に、多少は答えを躊躇するものと思われましたが、野分はすんなりと答えました。
「たしかに、あいつはわたしの大切な親友ね。……だけど、目障りなの」
感情の見えない双眸の、その奥に、わずかな光が灯ります。それはたしかに野分の本心なのでした。
「その二つは両立するかな?」
「両立なんかしてないわ。あいつを親友だという思いの百倍、邪魔だと思ってるんだから」
「そうなんだ」
随分適当な返事ですが、優は出会ったばかりの彼女らの事情にあまり興味がありませんでした。というより、そもそも他人に興味がありません。少し微笑んで見せれば自分の意のままに操れる肉塊を、誰が人間として認識できましょうか。
「わたしはわたしが一番に注目されない現状をとても不満に感じてる。わたしには華がないわ。わたしの美しさには、ツツジのような派手さがない。だから、学校ではちょっとだけあいつの方が人気」
「目の上のたんこぶなんだな。それで僕をけしかけるのか?」
「――わたしは自分がなによりかわいいの。わたしさえよければ、他の誰がどうなろうと知ったことじゃないわ」
それが不知森野分の持つ、唯一の価値基準でした。
『美』を基準として、一定以上の美しいものにはある程度の敬意を払う躑躅と比べると、かなり迷惑極まりない人物であることは確かでした。
「女の株なんて、男ができれば大暴落よ。あなたがあいつの彼氏になれば、晴れてわたしはみんなのお姫様」
そこで初めて野分は笑いました。目を細めて静かに笑いました。彼女の頭の中には明確な幸福な未来図が描かれていたことでしょう。
「そうかもね」
機嫌のいい野分に対して、優はおざなりな返事で返すばかりでした。
「で、結局いいの? ダメなの? あなたにもメリットはあるでしょ。わたしはあいつを消せる。あなたはストーカーなんてまどろっこしいマネをしなくてよくなる。WIN-WINね」
「ああ、うん。いいよ」
優にはどうでもいいことでした。
優には野分のすべてが退屈でした。
彼女程度の容姿で人の上に立つ側の気でいられる視野の狭さも。
学校での人気などという矮小なスケールに囚われる幼稚な価値観も。
見当違いな推理で策略家を気取っている、利口馬鹿の一面も。
どこを取っても更科優の乾いた心を潤すに足る要素は、ただの一つもありませんでした。
高校の男子たちが高嶺の花として羨む美少女、不知森野分であっても――更科優という男の目には、取るに足らない、ひどく小さな女としてしか映り得なかったのです。
「……ドーナツ」
「食べたいの? 奢るよ」
「紅茶のやつね」
「ちょっと待ってて」
「聞き分けのいいストーカーは嫌いじゃないわ」
それでも優は文句を言いません。なにせ野分は優のそういうところを買っていたのです。わざわざ野分の期待を裏切るような言動を取る優ではなかったのです。
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