第4話 美少女猫娘アザレアちゃん! ふにゃ~~!

 その日の放課後も、すぐるはストーカー行為に勤しんでいました。優にとってそれは日課、一日たりとも休むことは許されない営為なのでした。


 優は物陰に隠れ、前方を優雅に歩く躑躅つつじを視界に捉えました。


「ん、今日は一人か」


 昨日躑躅の隣で歩いていた友人は、何かの用事でしょうか、今日はおりませんでした。基本友人と楽しく雑談しながら下校する躑躅ですが、稀にこういう日もあるのです。

 優からすれば、監視の目が二つも減るということで、これは喜ばしいことでした。

 

『にゃ~』

「あら、茶トラ猫ちゃんだわ。こんにちはニャーちゃん、愛玩動物界のスターであるあなたの何億倍も愛くるしい美少女、十六夜躑躅よ」

『ふしゃーっ!』

「あらあら、自分よりもかわいい存在を前に委縮しちゃったの? でも安心して、月が見惚れて光るのも忘れてしまうと評判の夜の女王、アザレアちゃんを前にしてそうなってしまうのは、生物として当然のことだわ。あなたはただひたすらにかわいいかわいい私を崇め奉ればいいの。私を拝みさえすれば、あなたは幸福になれるのよ、トラちゃん。あなたは躑躅を信じますか?」

『ふごーっ』

「ふにゃあ? にゃーごぉー」


 何を思ったか躑躅、その場に四つん這いになり猫のポーズを取り出します。


「にゃにゃにゃん! ごろごろにゃ~ん」

『ウウウウウウウウ……』

「うにゃ~ん」

『きしゃーーーっ』

「痛っ!」


 躑躅のあまりに不審な行動に驚いたか、茶トラは彼女の右手を引っ掻いてしまいました。


「あ、待って止まって! せめて撫でさせるんだわ~!」


 そのまま茶トラは躑躅の言うことも無視して去ってしまいます。

 

「お、おのれぇ……あの愛玩キャット、私の真玉手を紅く染め上げやがったわ……血に塗れた手も綺麗なんてさすが私なんだわ? 猫ひっかき病にかかったらどうするのよ!」


 なにかと気持ちが忙しいのは彼女の性分でした。


「ま、バルトネラ菌よりツツジ菌のが強いから心配ないケド……」


 そんなものはありません。大事をとるなら即刻消毒をするべきでしょう。


「あいつがかわいくなかったら冗談抜きで殺してたんだわ? 感謝しなさいよ」


 ――かわいければ何をしても許される。


 それは躑躅の世界における絶対遵守にして唯一のルールだったのです。


「考えてみれば、あんな小さい脳みそ一つで私の『美』を処理しろって方が無茶だったわね。私の御姿を視認して処理落ちしちゃったんだわ?」


 一人でよく喋るな、と優は思いました。


「あーあ、下等生物風情に貴重な時間を使っちゃたわ。自分の顔見て心を落ち着かせるんだわ!」


 そうしてポーチから小さな古びた手鏡を取り出した躑躅は、鏡に映った自分の顔を見た途端に満点の笑顔です。


「やっぱり私かわいい……美人は三日で飽きるけど躑躅は飽きなしだわ。春夏冬躑躅だわ!」


 何が嬉しいのでしょうか、躑躅は声を張り上げます。


「…………はぁ。…………」


 かと思うと、深いため息一つ、以降躑躅は人が変わったように黙りこくってテクテク帰路に着きます。何か物思いにふけっている、などと考えてはいけません。彼女は一人で喋るのに満足したのです。

 躑躅は少しだけ自由な女の子でした。


 躑躅の専属ストーカーに着任してから早四か月。もはや見慣れた彼女の奇行に、しかし優は未だに少し引いていました。


 ――……っとと、曲がり角……!


 ですがストーカーが上の空ではいけません。躑躅がT字路の角に消えてしまい、彼女の姿を優は見失ってしまいました。


 優はすぐに失態を取り返すため、不自然にならない程度の小走りで移動します――


「――わっ……」

「…………」


 そのことに意識をとられていたからでしょうか、優は翻ってやってきた躑躅とぶつかってしまったのです!


 ――……!


 なぜ、どうして戻ってきた、マズい――優の脳裏に様々な感情が去来します。


 緊張の一瞬。躑躅の華奢な肩と優の腕が軽くぶつかって、二人の間に奇妙な静寂が生まれます。実時間にすれば一秒にも満たないその重い沈黙は、ヴィシュヌの瞬きが世界の一生であるごとく、優には永遠に感じられました。


「――――」


 驚愕と動揺と焦燥の渦巻く脳味噌は、優の体にうまく信号を送ってくれません。


 ――いや、落ち着け……。


 しかしさすがは聡明な優。すぐに心を落ち着かせ、次の瞬間にとるべき行動を思考しました――


「……ごめんね。ちょっとよそ見してたよ」


 ……彼の喉が振動し、自らの声を紡ぎだす。


 空間を震わせるその声の、なんと美しいことでしょう。独特のゆらぎで、どこまでも透き徹る、伸びやかな、朗らかな、ほどよい低音のボイス。


 まるでこの大地が彼の言葉を一字一句も聞き逃しはしないと、じっと耳を傾けているとさえ錯覚させるその天楽は。


 躑躅の耳朶に染み入る、その震えは。遠い白雲の峰の麓から聞こえる巫女の歌声、天高くから絶対的な力を持って響き渡る皇祖神の託宣なのでした。


「……っ?」


 それゆえ、今度は躑躅が動揺を見せる番でした。彼女は今しがた耳にした優の声が、とても人間の喉から出たものには思えなかったのです。


 ――……今のが、今のが人の声? だとするなら、私が今まで聞いてきた世界の音なんて、ぜんぶぜんぶ、偽物だわ! 弦の切れたバイオリンを、子どもが無理やりに引いたような嫌な音色が鳴り続ける世界に生きていたのかしら!! ――ありえない!


「べ、べつにいいわ。少しぶつかっただけだから」


 それでもなんとか平静を装い、躑躅は優から顔を背けて歩き出します。


「あ、危なかったな……」


 限界まで追い詰められたあの瞬間の優。幾千の時を思考した彼の脳は、たった一つの冴えたやり方を見つけたのでした。


 つまるところ、ただ普通に接すればいい。相手がストーキングに気づいているわけでもなし、たまたまぶつかっただけの通行人相手に大袈裟な対応をする方が却って不自然だという簡単な答えに、優は寸前で気づいたのでした。だから、優はただ一言謝った。その一言が躑躅の思わぬ感情を呼び覚ましてしまったようですが、それは仕方のないことです。優はそういう人ですから。


 ――けど、このままだと躑躅を見失う……。


 自らの進退を考えながら、道端で立ち止まる不審者とならないよう、優は足を動かします。


 躑躅はどうして引き返してきたんだろう、なにか学校に忘れ物でもしたのだろうか……優はそんなことを思いました。


「こんにちは、お兄さん」


「……ん?」


 すると、前方からやってきた人物に挨拶を送られます。


「ああ、こんにち――」


 優は見知らぬ人に話しかけられることには慣れていたので、顔を見るよりも前に挨拶を返そうとしました。


 しかしその言葉は途切れてしまいました。視線を向けた先の少女の顔が、見知ったものだったからです。


「――」


 ――いつもツツジの隣にいる、彼女の友人――


「ちょっとお話しましょう」


 ――これは、ダメだ。バレている。いくらなんでもこの接近方法は不自然。第一僕は今マスクをしている。素顔を晒していないのに話しかけられるなんておかしな話だ――焼ききれるシナプスの電気が流れ、優の思考を加速させます。


「――っ」


 判断が速い優は瞬く間に方向転換、躑躅の友人に背を向けて、ひとまずこの場から姿をくらませんと行動を開始します。


 ――幸いマスクのおかげで顔までは割れてない――それならいくらでもやりようがある――


 そういうわけで優はどうしても彼女に捕まるわけにはいきませんでした。脚に力を込め、いざ退避――!


「はいストップ、行き止まりよ!」


「…………」


 そう都合よくはいきませんでした。


「私って超絶かわいいだけじゃなくて賢さも持ち合わせてるんだわ。だから低俗な犯罪者をこうやって罠に嵌めることなんて朝飯前なんだわ!」

 

 振り向いた先にはもう一人の美少女。全能感に満ち溢れた厭味ったらしい可愛らしい笑みを浮かべた、十六夜躑躅でした。

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