第7話 君の名を呼ぶ


    12

 

 一晩たっても紗季さんは女優天野紗季のままだった。

 翌日、見慣れない天井に驚くというベタな旅行あるあるを体験しながら僕は目を覚ました。

「おはよう」

 僕は眠い目をこすりながら声のする方を向いた。

 もう朝の準備をすませたのかいつも通りの紗季さんがこちらを見ていた。幸せな状況すぎて思わずにやけてしまう。

毎朝、紗季さんに「おはよう」と言ってもらえたらと夢の続きのような妄想をしてみた。

「おはようございます」

 僕はベッドから体を起こした。急遽コンビニで買った下着以外は昨日の服装のままだ。

「早くしないと学校に遅れるわよ」

 僕は時計を探した。テレビの横に置かれているデジタル時計には六時三十分と表示されていた。

 ベッドから降り、洗面所へ向かう。鏡に映った頬のあざが昨日のことを思い出させた。

 顔を洗ってタオルで水分をふき取る。まだ眠そうな顔の自分とさっきの紗季さんを比較する。紗季さんは朝でもいつもと変わらなかった。きっと証明写真などでもあのまま写るののだろう。

 洗面所から戻ると紗季さんは窓の外を見ていた。

 ここは二階で見える景色は見慣れている潤美乃駅。わざわざ見るほどの景色ではない。きっと窓の外に視線をやっているだけで頭の中では別のことを考えているのだろう。

「今朝起きたら私のマネージャーって人から連絡が入ってた」

 外を眺めたまま紗季さんは言う。

「どんな連絡だったんですか?」

 驚いたがそれを表に出さないように答える。いちいち驚いていては話が進まない。

「朝の八時に家に迎えにくるって。CMの撮影があるみたい」

「その人がマネージャーであることに間違いはないんですか?」

 昨日のストーカーのように紗季さんと会おうとしてマネージャーであると嘘をついている何者かかもしれない。

「記憶はないけど結構前から私と連絡をとりあっているみたい。きっと芸能人としての私が連絡をとっていたのね」

 これまで公式SNSや身に覚えのない写真がスマホの中に入っているということがあったことは紗季さんから聞いていた。

 その中にマネージャーの連絡先が追加されていた。それは世界が芸能人としての紗季さんがこの世界により定着してきていることを表していた。

「どうするんですか?」

 「どうするか」と聞きつつも現時点で願い叶え伝説をどうこうする方法はない。選択肢は多くないように思える。

「行ってみることにするわ」

「体調不良ってことにして休むのは?」

「それだと色んな人に迷惑がかかるでしょ。記憶がないとはいえ一応は私が引き受けた仕事だし」

 窓に映る紗季さんの顔はいつもにまして大人びて見えた。

 確かに今日紗季さんが女優としての仕事に行くメリットはある。例えば少なくとも撮影のスタッフやマネージャーの人といるなら一人、もしくは僕と二人の時より格段に安全だろう。まだ昨日のストーカーが捕まっていない以上安全が確保されるというのは大きい。

 頭ではそう思っていても不安なことに変わりはない。きっと僕なんかより紗季さんはもっと不安になりながら決めたのだろう。

「何かあったら連絡くださいね。授業中でも抜け出していくんで」

「授業はちゃんと受けた方がいいわよ」

「それぐらいの気持ちってことです」

 紗季さんからSOSの連絡が来たら僕は本当に授業中でも抜け出して助けに行くだろう。今日はいつでも出ていけるように財布と携帯をポケットに入れておこう。

「翔太にこれ渡しておく」

 紗季さんがペンギンのストラップを差し出す。紗季さんの財布についていたものだ。見覚えがあった。紗季さんのメッセージアプリのアイコンになっているペンギンだ。

「いいんですか?」

 ストラップをよく見ると一部が剥げているのがわかる。こうなっても捨てないということはきっと大切なものなのだろう。

「あげるわけじゃないからね。渡しておくだけよ」

 紗季さんが女優として仕事をすれば今以上にこの世界は紗季さんが女優であることを当たり前のこととする。

そうなれば女優ではなかった紗季さん、つまり今の紗季さんのことを覚えている人は少なくなるかもしれない。

 そうなったときに僕が紗季さんのことを忘れずにいられるようにこのストラップを僕に預けてくれたのだろう。野暮なこと訊かない。

「マネージャーさんがくるなら急がないといけませんね。マネージャーさんが迎えに来るまでは一緒にいますよ」

 僕は今まで手にした何よりも大事にそれをスマホケースに取り付けた。


 13


 放課後、僕は実験室にいた。今のところ紗季さんからの連絡はない。

 目の前では二宮が数学の課題をやっていた。

「つまり天野紗季が今現在、女優であるのは願い叶え伝説とやらのせいであると」

 きりのいいところまで終わったのか二宮はシャーペンを置いた。

「そうだ。もともと紗季さんはただの高校生だった」

 僕は二宮に紗季さんと会ってからいままであったことをすべて話した。今の状況にたいして客観的な意見を貰うためだ。

 二宮は常に口が堅く物事を客観的に見ている。だから相談役にはもってこいの人選なのだ。

 もしかしたら信じてもらえないかもしれないと思っていたが二宮は疑ったうえで話を信じてくれたようだ。

「話しを聞く限り問題は願い叶え伝説ではなくストーカーのように思えるが。それならば相談すべきは警察だろう」

「でもこんな話信じてもらえるはずないだろ」

それもそうかと二宮は納得する。

「二宮にはこれから先、願い叶え伝説がどう変化していくか考えて欲しいんだ」

「どうなっていくとはいつ天野紗季が一般人に戻って女優なるかを知りたいということか?」

 呑み込みが早くて助かる。せめて変わるタイミングさえわかれば意図していないときに変わってしまうというトラブルは防ぐことができる。

「話しを聞く限り、願い叶え伝説は本人の内的な部分が関係しているんじゃないかと思う」

「内的な部分?」

「つまり気持ちだ。一度目の天野紗季がバイトからの帰宅途中のことはわからないが、少なくとも二回目の映画鑑賞後に関しては納得できる」

「映画を見て願い叶え伝説を起したってことか?」

 いまいちピンとこない。

「不思議な話じゃないさ。プロの野球の試合を見に行った子供が野球選手になりたいと思うように、女優を目指している人が素晴らしい映画と出会って女優になりたいと思う気持ちが強まったという話だろう」

 思い出してみれば確かに印象の強い映画だった。紗季さんがあの映画を見て何を感じて何を思ってかはわからないが、二宮の意見にも納得できる部分があった。

「人によって記憶が違うのはどういうことだと思う?」

 第二の質問だ。

「記憶に関してはわからないことが多いから何とも言えないがきっとそれも内的な部分が関係しているのだろう」

「じゃあ気合いがあれば今の紗季さんを覚えておけるということか?」

「その可能性もある。だが徐々に一般人の天野紗季を覚えている人が減っているのも事実だ。時間の問題と考えるのが自然だろう。事実今日になってから一般人の天野紗季を覚えている人はいないのだろう。あのイケメンもバドミントン部の小娘も。橘が天野紗季について覚えていられるのは案外天野紗季のおかげなのかもしれないな」

 イケメンというのは隼人のことでバドミントン部の小娘とは秋葉のことだ。わけあって秋葉と二宮は犬猿の仲なのだ。

隼人と秋葉には教室でこれまで何があったか話をした。その一部を二宮も見ていた。

「気持ちが重要なんてらしくないな」

 二宮は好きなアイドルのことになると理性を捨てるが普段は論理性を重要視する男だ。その二宮が気持ちが重要などというのははっきり言って意外だ。

「感情は人間の最も論理的な行動原理である。感情と行動の関係には一切の理由がない。それは逆に最も直接的な論理的関係とも言える。誰の言葉だと思う?」

「さぁ」

「天才二宮利明の言葉さ」

 二宮はブラックコーヒーを飲むかのように購買でかったコーヒー牛乳を口にする。砂糖が入った甘いやつだ。二宮はいつもこれを飲んでいる。

「二宮……」

「どうした? 惚れたか」

 悦に浸る二宮の腹を僕は見る。完全に自分に酔っている。相談してもらっている身分で申し訳ないがはっきりいってその姿は見るに堪えない。

「最近また太ったから、甘いものはほどほどにしとけよ」

 高校生とは思えないポッコリしたお腹がぶるりと揺れた。


「今日は頼みがあってきたんだ」

 僕の忠告は聞かずにどこからか取り出してきたチョコレートを頬張る二宮に僕は言う。

「天野紗季についてのことだな。」

 もうすべて話した。隠しても仕方がないので話を進める。

「願い叶え伝説に関しての相談をしたかったのも本当だけど今日はここからが本題だ。この間見せてもらったSNSなんとかっていうシステムを使わせて欲しい」

「SNSワードキャッチャーのことだな。名前ぐらい覚えろ」

 僕は頷く。SNSワードキャッチャーは二宮が開発したプログラムでSNS上の情報を自動でまとめて質問に答えてくれるというものだ。

「それで紗季さんについて調べて欲しい」

 二宮は口と目を閉じ考え込む。

「橘は天野紗季について調べることで二人を襲ったストーカーについて探ろうとしている。もしこのプログラムで天野紗季について徹底的に調べればSNS上でそのストーカーが残した痕跡も何かしら見つかるだろう。居場所だっておおよそわかるかもしれない。警察に詳しく相談できない以上、橘は必ずその男に会いに行くだろう。そうなれば」

 二宮はいつになく真剣な目をしていた。二宮が僕が何も言わずに僕の言いたいことを言い当てたように、僕も二宮の言葉からその真意がわかった。それでも僕は引き下がるわけにはいかなかった。

「心配してくれるのは嬉しいけど、誰かが危険にさらされているっていうのに無視することはできないよ」

「それは違う。お前はいい奴でお人好しな方がだと思うが、誰彼構わず助けようとするほど馬鹿じゃない。それなりの冷静さをもっているはずだ。普段ならもう少し冷静になって次の行動を考えるだろう」

 二宮には僕がどう映っているのだろうか。僕はそんなに善良な人間でもお人好しでもない。

「橘は天野紗季が好きだからんじゃないか?」

 と二宮。単純な質問でとっくに答えが出ているはずなのに人に言われると言葉に詰まる。二宮に言われて僕は紗季さんのことを思い浮かべた。

 最初に会ったのは潤美乃神社の境内だった。一緒に夜の街を歩いて買い物に行った。デートもした。ホテルの部屋で不安に苛まれながらも紗季さんとなら大丈夫だと思えた。

 どの瞬間も思い出してみると僕が考えていたよりもずっと大切で、まだ出会ってから一週間ほどしかたっていないはずなのに僕の中で紗季さんの存在はなくてはならないものになっていた。

 そして紗季にとって僕もそういう存在でありたいと思った。

「僕は紗季さんが好きだよ」

 自然と口から漏れていた言葉だった。

 いままで夢を追いかける紗季さんを見てどこか遠慮して口にできなかった言葉だったが、もはや隠しておくことはできないほどこの気持ちは大きかった。


「条件がある」

 二宮がポツリと呟く。

「もしストーカーについてわかっても危険なことは絶対にしないと約束できるな」

「ああ」

 僕は強く頷いた。

 二宮はパソコンを取り出してプログラムを立ち上げ始めた。前回見たときよりもい洗礼された検索画面が表示される。

「前回は主要SNS内の情報しか検索対象にしていなかったが改良して大手の検索エンジン数社を活用してインターネット上の殆どの情報を網羅できるようになった。ここで天野紗季とそれに関連する情報に評価をつけていたり、コメントをるしていたりするユーザーをリストアップする。橘の情報から三から四十代の男に絞って、この近辺での投稿が多いユーザー順に並べる」

 二宮は黒の背景の画面にカラフルな色のついたコードを手早く打ち込んでいく。

 表示されたリストを見る。一番上に下田和義と表示されたアカウントがあった。二宮がそのアカウントを表示させるとプロフィール欄に『天野紗季ちゃんとスネークスが好き』と書かれていた。大正スネークスは東京に本拠地を置く野球球団だ。鍵垢ではないため彼の投稿を見ることができた。

 それなりの頻度で投稿をしていてその殆どが紗季さんとスネークスに関する投稿だ。顔の写っている投稿もある

 投稿からは紗季さんの出演した映画の試写会や写真集のサイン会などに熱心に参加していたことがわかった。だが僕の目に留まったのは紗季さん関連の投稿ではなく、男が野球観戦にいったときの投稿である。そこにはポッコリと出たビール腹が写っていた。それは僕らを襲った男の者と完全に一致していた。

「こいつだ」

「こいつがストーカーで間違いないんだな」

 呟いた僕の声を聴き洩らさずに二宮は反応した。すぐに二宮は下田というアカウントの人物に対して追加の検索をかける。

 すると下田和義という名前と潤美乃付近の高校の野球部が大会に出たときの記録が表示された。その野球部の集合写真には今よりずっと若く、痩せているが下田和義と思わしき人物が写っていた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る