第8話 私の夢の中に君がいる

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その日の夜、メッセージアプリの通知音が鳴った。

 『今、電話しても平気?』短く書かれた文章の送り主は紗季さんだった。僕はすぐに『平気です』と返事をする。

 するとすぐに既読がついて電話がかかってきた。

「もしもし」

 ずっと聞いていても飽きない好きな声が聞こえる。二宮とあんな話をしたからか紗季さんと話すのにいつも以上に緊張してしまう。

「こんばんは」

「さっき送ってくれたメッセージ見たわ。返事遅くなってごめんね」

 昼間の間に送っておいた下田和義についてのメッセージは見てくれていたようだ。

「その後、危ないこととかなかったですか?」

「ええ、大丈夫よ。もう家についた。その翔太がストーカーだっていう人とも会ってない」

 それを聞いて一安心した。正直、下田の顔がわかってから紗季さんからのメッセージが来るまでは生きた心地がしなかった。実際に顔と名前がわかるとその存在を意識しやすくなり恐怖がました。

「私ね、言っていたと思うけどCMの撮影をしたの。CMの撮影は本当に大変だったけど一応は撮り終えた」

その声には安堵が溢れている。緊張したのが伝わってきた。同時に喜びがこもっていた。これでまた一歩、紗季さんが女優に近づいただろう。僕は「お疲れ様です」となるべく心を込めて言った。僕の知っている紗季さんが忘れられていってしまうのは残念だけど僕は素直に紗季さんの報告を喜べた。

 願い叶え伝説で夢を叶えるのはずるいという考え方もあるかもしれないがもし実力がないならきっとすぐに仕事はなくなってしまう。今後も紗季さんの仕事がなくならないのならそれは紗季さんに実力があったということだ。見つけてもらえたかどうかの違い。それは運と呼ぶことができるだろう。運も実力のうちという言葉もある。

「怪我の具合はどう?」

「まだ少し痛むけど、でも病院に行くほどのことではないと思います」

 心配してくれていたその事実が素直に嬉しい。こんなことなら怪我も悪くない。流石にもう一度は遠慮しておきたいが。

「よかった。私のせいで大けがなんてことになったら申し訳ないでしょ」

「もしそうだとしても名誉の負傷ってやつですよ」

 電話の向こうから水が流れる音が聞こえる。家に帰ったというから風呂にお湯を貯めている音だろう。

「紗季さん、これからお風呂?」

「ご飯が先かな。お腹空いたし。寝る前に食べると太りそうじゃない」

 ということはさっきの音は手を洗う音か、それとも料理の音なのか。

「紗季さんはもう少し太ってもいいと思いますけど」

「冗談ばっかり言ってないの」

 断じて冗談で言ったつもりはない。今よりふっくらした紗季さんもそれはそれで魅力がましてそれは素晴らしいだろう。


「疲れたから寝るわね」

僕が余計なことを考えていると紗季さんが言った。電話を切るのは少し寂しいが疲れている紗季さんを付き合わせるのは申し訳ない。僕はそろそろ電話を切ることにした。

「これからあのストーカー、下田には気をつけて下さいね。またいつ襲ってくるかわかりませんから」

「わかった、ありがとう。またね」

 やけに軽い感じがするが思いつめすぎるよりはいいかと思い僕はなにも言わなかった。

「おやすみなさい」

「おやすみ」


別れの挨拶をして僕が電話をおく寸前、紗季さんが何かを言った気がした。

僕が何を言ったのか聞こうと再びスマホを耳に当てるとすでに通話は途切れていて、電子音がツー、ツーと流れるだけだった。

僕は胸に妙な違和感を抱きながらもその日はおとなしく布団に入った。


15


午前六時。僕はカーテンからもれる太陽の光で目を覚ました。熟睡できていたのか気持ちのいい目覚めだった。

僕は枕元で充電しておいたスマホを手に取って三十分後になるはずだった目覚ましをオフにする。

いつもなら目覚ましがなっても十分は布団の中にいるのだが目も覚めているのですぐに起きた。

リビングにはテレビを見ながらいつもと同じように朝食を食べる父さん、台所では母さんが家族三人分のお弁当を作ってくれていた。この匂いだと今日は唐揚げだろう。

「おはよう」

 僕が挨拶をすると父さんが時計の方を見た。いつもより僕が早く起きてきたから驚いたのだろう。

「今日は早いな」

「なんか目が覚めてね」

 僕はコップに麦茶を入れ、それをいっきに飲み干す。乾いていた喉が潤される感覚が気持ちいい。

「毎朝この時間に起きてくれればパパのごはんと一緒に作れるから楽なのに」

台所から母さんが目玉焼きとサラダののった皿を持ってきてくれた。僕は台所に行って自分の分のお米と味噌汁をよそいだ。

僕は父さん前の席に座ってから「いきだきます」と言ってから目玉焼きに醤油をかけた。目玉焼きに箸を通すと綺麗な卵の黄身が流れだす。

「翔太の先輩だぞ」

 父さんがテレビを指す。これからの季節にお世話になるだろうスポーツ飲料のCMには僕の高校の先輩が出ていた。

 高校三年生の天野紗季先輩だ。学校で見かけると明らかに一般人と違うオーラを放っている美人の先輩。入学する前にも潤美乃高校に通っているという噂を聞いたことがあったが実際に見てみると逆に「芸能人って本当にいるんだな」程度の感想しか出てこなかった。

「サインとか貰えないの?」

 母さんが言う。母さんは以前天野先輩の映画を見てから天野先輩にすっかりご執心だ。潤美乃高校に通っていると聞いてから度々このようなことを言ってくる。

「話したこともないんだ。無理だよ」

「付き合っている人とかいないのよね?」

「いないはずだよ」

 誰からかそう聞いた気がするが誰から聞いたのか覚えていない。テレビのインタビューなどだろうか。

 CMが終ると報道番組のスタジオも天野先輩がいた。どうやらドラマ夏から始まるドラマの告知に来たらしい。


 時間がある分、いつもよりゆっくりと朝食を食べ、それでもまだ少し時間があったが家をでることにした。

 制服に着替えて家を出る。いつもと同じ道を通って最寄りのバス停に向かう。この調子ならいつもより一本早いバスに乗れるだろう。

 優しい日差しが照らす街を心地よい風が駆け抜けて吹いてくる。今が一年で一番過ごしやすい季節かもしれない。自然と足取りも軽くなる。

 バス停までの唯一の信号が丁度青だった。

 博物館の前に一人の老人がいた。何やら博物館の前のポスターを見ている。

博物館は九時からのはずだ。開館まではまだ一時間以上ある。あそこで待っているのだろうか。


 潤美乃小学校のバス停で隼人が乗ってきた。

 僕に気が付くと側でまで隼人はやってくる。でも隼人が座る分の席はない。一人だけ座るのも悪いので僕は他の人に席を譲って隼人と一緒に立つことにした。

「ケガ大丈夫か?」

「ケガ?」

 なんのことだろう。僕は怪我などしていない。誰かと勘違いしているのだろうか。言われてみればいつもより眠たそうな顔をしている。きっと家族がどこかに行っていたとかで夜更かしでもしたのだろう。

「昨日、ケガで部活休んだだろ」

「昨日は家の用事だ。勝手にケガ人にするな」

「そうだっけ」

昨日は確かに部活を休んだ。でもそれ怪我ではない。

 隼人はとぼける。ちょっとはにかんだその姿さえ女子から見れば爽やかでキュンとしてしまうのだろう。朝から目に毒な奴だ。

「何してるんだ?」

 おもむろに英単語帳を開きだした隼人に訊く。

「何って英単語覚えてるんだよ」

「単語テスト明日だろ」

 昨日の英語の授業で単語のテストをすると教師が言っていた。でもそれは今日じゃやない。

「今日はデートだからな。潤美乃海岸に新しくできたハンバーガー屋に行くんだよ。翔太知ってるか?」

「知ってるよ。美味しいらしいな」

 その後は英語の単語テストがあるといって単語帳を開いていた隼人の邪魔をしながら潤美乃中央駅にバスがつくのを待った。

 バスから降りて駅のロータリーに出る。金の卵のオブジェクトが今日も僕らを出迎えている。

「……」

ふと何かが気になって僕は駅の反対側にそびえるビル街の方を見た。

「どうした?」

 僕の視線がきになったのか僕と同じ方を見て、隣から隼人が言う。

「いや、何も」

 おかしなものはないはずだ。いつもと変わらない景色だ。


 

 自分の顔の横をバトミントンの羽が通り過ぎていった。体育館の床に落ちた羽を拾う。

「どうしたんですか? 今日は動きが鈍いですよ」

 向かいのコートから後輩の秋葉が来る。今は他の部員が来る前にアップで秋葉と打っていたのだ。

「なんだろうな」

 そんなつもりはないがいつもなら今のは取れていた。

「私が成長したんですかね。入部三カ月にして世代交代か」

秋葉がわざとらしく言う。

「世代交代なら三年に勝たないとな」

 僕はまだ二年だ。世代交代と言うなら三年生に勝たなくてはいけない。

「それはそうと何かあったんですか?」

「いや、何もない」

 何もないはずだ。授業中も、休み時間も何度も自分の中で確認した。何もないはずだ。

 そのはずなのになにかしっくりこない。

木曜日のないカレンダーに予定を書き込んでいるような。一色足りないルービックキューブをそろえようとするような。晴れているのに太陽のない昼空を見上げたときのようなそんな不足感が気持ち悪い。

「きっと気のせいですよ。心配事の殆どは実際には起きないって言いますしすぐ慣れますよ」

 秋葉の方から再びこちらに羽が飛んでくる。

 僕はそれを打ち返す。イメージ通りに羽は飛んでいく。


 

 バスを降りてさらに僕のなかの歪みは膨らんでいった。 

何かおかしい。何か忘れている。大切な何かを僕は忘れている。

 前に進むために足を進めることすら許さない程の違和感。

 もはや違和感で片付けられないなにかが僕の内側を巡っている。不快感だ。確信的に何かが足りない。思い出せない。苛立ちですらある。

 心臓が血液を押し出す以外の目的で激しく鼓動する。

 ポケットに入れていたスマホが震える。僕がスマホをポケットから取り出すと一緒に何かが出てきて地面に落ちた。ペンギンのストラップ。

 僕が落ちたストラップを拾おうとして手を伸ばしたときのことだった。

 

春風にのり、踊る桜の花びらの中を歩いているときのような。

どこからか花火の音が聞こえてきて夏であることを実感する夜のような。

日が暮れるのが遅くなってきた秋、色づく葉っぱを拾って喜ぶ子供とそのみて微笑む母を見たときのような。人々の心細さを全部隠すような雪の降る冬に独り泣くような。

 夜になって冷えたアスファルトに一滴、僕の目から雫が零れた。

 「……なんだこれ」

 もう、本当にどうなっているんだ。

喜怒哀楽、切なさ、苦しさ、温かさすべてであってそれらすべてのどれでもない。

そんな感情が胸の奥底から蓋を突き破ってこみ上げてきた。

痛みにも似た感覚が僕に思い出せと言っている。


 スマホに来たメッセージを僕は開く。

 

――ありがとう。でもこれ以上、翔太を巻き込むわけにはいかない。 

昨日、二十一時十二分 


――おはよう。見えてないよね。

 六時三十分


――忘れないって言っていたのにひどいじゃない。私のせいなんだけど

 十二時五十分


——今日はずっと尊敬していた女優さん会えたの。そろそろ家に着きます。おやすみ

 たった今


「……紗季さん」

すぐに涙は大粒になって画面がぼやけて見えなくなった。


僕は馬鹿だ。なぜこんなに大切なことを忘れていた。

大切な人の記憶がよみがえった。

いつも僕の前を走っていた彼女。

僕はその背中をみて置いていかれないように全力で走りたいと思えた。

僕が立ち止まってしまったらきっと彼女は一瞬後ろを振り返って「はやくしなさい。おいていくわよ」って言うんだろう。

 もし深い悲しみが彼女を襲って彼女の歩みが止まってしまうなら、そのときは僕が全力で走って何とか彼女に追いついて彼女の背中を押してあげたい。

 そんな彼女の名前は天野紗季。

「紗季さん」

 周囲のことなんか考えず、今度ははっきりした口調で大きな声で彼女の名前を呼んだ。

 行かなきゃ。紗季さんもとに僕は行かなくちゃいけない。

 夜の街のすべてをおいて僕は走り始めた。

 僕はきっと彼女と出会った瞬間からきっと独りではいられなくなってしまったのだろう。

 肋骨辺りに強い痛みが走る。これは実際の痛みだ。僕が紗季さんのことを、女優じゃなかった紗季さんのことを思い出したことで再び下田にやられた場所が痛み出したのだ。

 だが僕は一切走るスピードを緩めずに進む。 痛みを訴える身体を紗季さんと見た風景が支える。奮い立たせ、突き動かす。

 一人になんかさせない。僕の中に紗季さんがいる。

 息は絶え絶え、でも紗季さんの住む、マンションが見えてきた。一台の車が止まっている。

車から降りてきたのは、遠くからでも見間違えるはずがない。僕は多分、ずっとその姿をさがしていたんだ。

「紗季さん!」

 体に残る全ての酸素を使って僕は叫ぶ。

 紗季さんがこちらを振り向く。

「紗季さん、紗季さん!」

もう一度、二度僕は紗季さんを呼んだ。

 僕は後ろにいる男の気配にまるで気が付かずにいた。

 

「翔太! 後ろ」

 紗季さんが叫ぶ。

 僕が紗季さんが何を叫んだが理解し、後ろを振り返るより先に右わき腹に背中から冷たい何かが突き刺された。

 生まれて初めての、明らかに生命活動を揺るがすような一撃。僕はその場に膝から崩れ落ちた。大量の汗が噴き出す。

 咄嗟に刺された方に手を伸ばし、反射でひっこめる。触れた指先の皮膚がスパッと切られ赤い血が垂れる。

「紗季さん、紗季さんうるせぇな。お前なんか死んじまえ」

 後ろから野太く、興奮状態で震えた声が聞こえた。

下田か。僕の頭の中に下田和義と言う名前とその顔が浮かびあがる。

 下田が走り去っていく音と引き換えに、紗季さんがこちらに走ってくるのが見えた。

「涼子さん、救急車! 早く」

 後からもう一人、スーツ姿の若い女性が走ってきた。

 紗季さんが着ていたグレーのパーカーを脱いで血が流れる僕の傷口を抑える。

「それ脱いだら寒いじゃないですか」

 多分そんなことを気にしている場合じゃやないはずなのに僕がそんなことを言っていた。

「何言っているの」

 紗季さんがナイフの刺さった場所をパーカーで完全に固定する。みるみるうちにグレーパーカーの色が変わっていく。

「ごめんなさい。今日一日紗季さんのこと忘れていました」

「今はそんなこといいから」

 焼けるような痛みとそれと相反する奇妙な冷静さがあった。

「僕、紗季さんのことが好きです」

 鉛のように重く、全く動かなかった体が徐々に軽くなっていくのを感じた。

 もしかしたらかなりまずいかもしれない。

 僕は叫んでいないはずなのに僕が大声で叫ぶ声が聞こえた。

 紗季さんが泣いているのが狭くなってくる僕の視界に写った。

「ずっと悩んでいた。私は女優になりたい。でも翔太が言ってくれたように結局、女優になるっていうのは私の覚悟次第なの。願い叶え伝説でいくら有名になってもそれは本当の意味で女優になれたとはいえない。でも私は勇気がなかった。折角手に入れたチャンスを逃すわけにはいかないと思った。あの映画を見て私が本気で願えば願い叶え伝説もすぐになくなるって知っていた。だけどこれじゃだめなの。私は、私のすべてで、ありってけの私で私は女優になりたいの。その中には勿論、翔太も含まれている。翔太がいない世界で私は、私は夢を叶えられない」

 紗季さんがそう言った次の瞬間、みるみるうちに体中の熱さが引いていった。

 それだけじゃない。出ていたはずの血が、それが染めていたはずのパーカーが、みるみるうちに消えていく。

 血が全部引いたかと思えばいつのまにか刺さっていたはずのナイフも消えていて、振り返ると紗季さんのマネージャーとその車の姿もなくなっていた。

紗季さんの強く、優しく抱きしめてくれているのを感じた。

願い叶え伝説は内的なものだ。こんな時に思い出すのは実験室でにやけるあの男の顔だった。

薄い月が夜空に強く輝き、遠い星の僕らを照らす。都会ではめったに見ることができない夏の夜空が夏の訪れを僕らに教えた。

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