第6話 二人の、二人だけの夜

「きゃっあ!」

 

 僕が紗季さんのマンションの敷地からでて十メートル進んだ瞬間。

 あまりに予想外のことに状況を呑み込むのに一瞬戸惑ったがそれが紗季さんの悲鳴だと気が付きマンションの方に全速力で引き返す。

 さっきまでいたエントランス。明るい光の下で二人の人影がもみ合っているのが見えた。

 一人は今日一日一緒にいた紗季さん。もう一人はわからないが体格から明らかに男だった。

 僕は急いで駆け寄る。が一歩間に合わず紗季さんが男に投げ倒される。

 紗季さんが倒れたことでセンサーに反応し、オートロックの自動ドアが開く。

 僕は咄嗟に倒れる紗季さんと男との間に割って入った。

 男の見た目は四十から五十代で顔には整っていない髭を携えている。身長は僕と同じぐらいだがお腹はポッコリと出ていて体重は僕よりありそうだ。

 取っ組み合いになったら分が悪い。僕は身構える。

「お前はだれだよ。紗季ちゃんとなんで楽しそうにあるいているんだよ」

 すぐに掴みかかってくると思ったが男は言った。悲鳴じみたしゃべり方が恐怖をさそう。

 口ぶりからきっとこの男は女優である紗季さんのストーカーの類だろう。僕はすぐにそう判断した。僕らが話しているのを見て僕を彼氏か何かと勘違いしたのだろう。家で待ち構えていたとしたらマンションのエントランスで話したのは失敗だった。

 急いで警察に連絡すべきだろうか。今はそれどころではない。

「僕は友達ですよ」

「でも、でもデートとか言っていたよなぁ」

 大声でまくしたてるように男は唾をまき散らしながら叫ぶ。

 男が唸りながらこちらに迫ってきた。

 後ろには紗季さんがいる。僕は紗季さんを守ることだけを考えて男のタックルを受け止める。

 鈍い音が響いた。

 今までの人生で感じたことのない痛み胸を通して体全体に走った。体全体が痺れる。肺がつぶされて空気がすべて押し出されたのがわかった。

 これ以上、攻撃を受けたらまずいと悟った僕は拳を握り渾身の力で振りぬいた。生まれて初めて全力で人に暴力をふるった。

 僕の拳はタックルをして身をかがめていた男の鼻に直撃した。

 男が鼻を抑え、喚くきながらその場にうずくまる。

 僕はその隙をついて後ろで倒れたまま一部始終を見ていた紗季さんをお姫様抱っこしていその場から逃げた。

 何も考えずにただ残る力を振り絞って走った。


「翔太。翔太!」

何メートル走ったかわからないが僕の息が途絶えそうになったぐらいで紗季さんが呼ぶのに気が付いた

 僕は足を止め、男が追って来ていないのを確認してから紗季さんをゆっくりと下した。

 痛みや疲労がどっと押し寄せ僕は膝から崩れ落ちる。

「大丈夫?」

 紗季さんが背中を優しくさすってくれる。その手が震えているが直に伝わってきた。

「紗季さんこそ大丈夫ですか?」

「私は大丈夫。少し打っただけ」

 その一言が聞けて安心する。

「ならもう少し距離を取りましょう」

 僕は息を整えながら言う。辺りを見渡してみると紗季さんのマンションからはまだ百メートルも離れていない。男が追いかけてきたらすぐに見つかってしまう距離だ。

「肩貸そうか?」

「平気です」

 気持ちは嬉しかったが、目立つことは避けたい。痛みを我慢すれば何とか一人で歩ける。

 僕は何とか立ち上がる。

 すると僕らの方へ車のヘッドライトが近づいて来るのがわかった。

 幸運なことにそれはタクシーでさらに空車だった。紗季さんもそれに気が付き急いで停めてくれる。

 タクシーは徐行し僕らの横に停まった。紗季さんが乗って続いて僕も乗り込んだ。

「潤美乃中央駅までお願いします」

 紗季さんが言うと運転手は「はい」と返事をして車を走らせ始めた。

 走り始めた車の中でやっと少し安心して大きく息を吐いた。

 車はスピードを上げて見慣れた住宅街を駆け抜ける。

 朝、学校へ行くときのバスのルートと殆ど変わらないが夜というだけで景色が違って見える。

 車通りは少ないからすぐに潤美乃中央駅に着きそうだ。

 紗季さんの手がまだ震えているのが見えた。突然あんな経験をしたのだ。無理もない。

 僕は紗季さんをそのままにしておけなくて紗季さんのぎゅっと握った。最初はそう思ったがそれはいいわけでその実僕もかなり恐怖や不安を感じていた。

 静かな時間が流れる。僕らはそのまま一言も話さず潤美乃中央駅まで手をつなぎ合っていた。

 

 潤美乃中央駅に着くと時刻は一九時を過ぎていた。

 いつものこの時間はスーツ姿の社会人と潤美乃高校の生徒で九割ほどを占めるのだが今日は日曜日なので行きかう人々の服装も様々だ。

 流石にここまでは追ってこないと判断したのか、人目があるところだからか紗季さんもかなり落ち着きを取り戻しているようだった。毅然と振舞おうとしているだけのっようにも見えた。

「どうしますか?」

「帰りたくはない」

 俯きながら紗季さんが言う。

 紗季さんの家はあの男に特定されている。帰るのは危険だ。できれば潤美乃ヒルズの方にも近づかない方が安全だろう。

「じゃあ今晩止まる場所を探さないといけませんね。あてはありますか? ご両親の実家とか」

「お母さんの実家は熊本。もう片方はあまり行きたくない」

 熊本は流石に少し遠い。調べないとわからないが今から行くには距離がありすぎる。お父さんの実家は複雑な事情とか色々あるのだろう。

「ならホテル探しましょう。この辺なら沢山ありますし」

「そうね」

 今僕らがいる広場からも周りを見渡せばいくつかホテルがあるのがわかる。

「あと余計なお世話かもしれないですけど流石にお母さんに連絡した方がいいのでは?」

「うん」

 きっと今の事情を聴けば確かスイスへ出張中のお母さんもすぐに帰ってきてくれるだろう。

 事態は高校生の僕らで何とかなる範囲を超えてしまっている。

「あと、」

「何ですか?」

「いや、何でもない」

 紗季さんが何かを言いかけて辞める。でも何が言いたいかすぐにわかった。

「夜も紗季さんと一緒にいられるなんて嬉しいな」

 僕はなるべく自然に言おうとした。けど自分の演技の酷さに驚かされることになった。

「そうね。一緒にいさせてあげる」

 そんな僕の下手くそな演技に紗季さんは乗ってくれた。となれば今夜は紗季さんと過ごす夜になりそうだ。

 そんな事態じゃないことはわかっているのにワクワクしている自分がいた。

「じゃあ僕は少し連絡してきますね」

 紗季さんにそれだけ言ってから少し離れて僕はスマホを開きメッセージアプリを開いた。

 念のため紗季さんが視界から出ないような場所でかつ電話相手との会話が聞こえない距離に立つ。

 これから僕は友人に一人嘘をつかせる。それを紗季さんに知られて気を使わせたくないのだ。

 僕は嘘をつかせる相手へ電話を掛けた。

「もしもし、どした?」

すぐに電話がつながった。国分隼人が電話に出る。

「今、家か?」

「おう」

「誰がいる?」

「姉ちゃんと親はみんな揃って母親の実家に帰ってる。成人式の前撮りをするんだってさ。独りおいてくなんて薄情だような」

 好都合だ。かなりお願いしやすくなった。

「頼みがある」

「ほう」

「今晩僕が家に泊まったことにして欲しいいんだ」

 僕は単刀直入に言う。

「いいけど、なんで?」

「理由は話せない。たのむ今度なんでもするから」

 一から上手く説明できる自信がないし、したとしても理解してもらえないだろう。申し訳ないがここは呑み込んでもらうしかない。

 隼人からの会話が途切れる。考え中なのだろう。

「今度何があったかちゃんと話せよ」

 と電話越しから聞こえた。

「恩に着るよ。ほんとありがとう」

 僕は心からの感謝を伝え電話を切る。持つべきものは急に偽装工作に協力してくれる友達だ。

 となれば後は家に隼人の家に泊まると連絡すれば終わりだ。僕は母親のメッセージ欄を開き、すぐにメッセージを送った。

「お待たせしました、紗季さん」

 スマホの画面を見ていた紗季さんに声をかける。

「あそこの東洋ホテルでいい?」

 どうやらホテルを探してくれていたようだ。

 紗季さんの視線の先にあったのは全国に系列店があるビジネスホテルだった。ホテルの相場はわからないがあそこなら何とか金銭的にもなりそうだ。多めにお金を持ってきておいてよかった。

 僕一人なら一拍ぐらいカラオケボックスでも漫画喫茶でも大学生と嘘をついて泊まれたが紗季さんを連れて行くのは忍びない。


 ホテルについてフロントで部屋は開いているか尋ねると訝し気な顔をされたが予約もしてない高校生の男女が急に泊めて欲しいと言ってきたのだから当然だろう。学生証を見せたが紗季さんは気づいていないらしい。

 部屋での注意事項を読まされてから何とか無事にチェックインを済ませ、二人用の部屋をとることができた。宿泊料を払ってから渡されたカードキーを受け取る。カギには二〇一と書かれていた。

 エレベーターで二階へ上がり二〇一号室を探す。エレベーターのすぐそばだった。

カードをドアノブの上にある差込口に入れ、引き出す。ドアが解除された音がしたのでドアを開けた。

 二人用の部屋はまず中央にベッドが二つ置かれていてそれが部屋の半分以上を占める。あとはテレビがあって、冷蔵庫があるぐらいだ洗面所とシャワーは入ってすぐのところにあった。

 靴を脱いでベッドに座り込む。そこでやっと興奮状態が解け、安心感と疲労感が押し寄せてきた。もう座っているのすらしんどい。今すぐ眠りにつきたい気分だった。

 紗季さんもブーツを脱いでテレビの前の置いてあった椅子に座っていた。

「警察に電話しないといけないと思うの」

 わすれていたがその通りだ。紗季さんのストーカーだったのかもしれないがあんな男が街中で歩いているというのは危険だ。

「僕がかけますよ」

 紗季さんにあそこであったことを思い出させるのは酷だと思い僕が買って出た。

「じゃあお願い。怪我は大丈夫?」

「意外と何とかなりそうです」

「痛むようなら落ち着いてから病院に行った方がいいわね」

「明日になっても痛かったらそうします」

 はっきり言ってかなり痛いがここは我慢する。暫く部活は無理かもしれないが紗季さん心配をかけたくなかった。

「お風呂入る。先いい?」

「いいですよ」

「トイレ行きたくなっても我慢するか部屋の外のトイレでしてね」

 入ってきてときちらっと見たがここはシャワーとトイレは一枚の防水カーテンで仕切られているだけだ。もし紗季さんがシャワーを浴びている間にトイレを使ったらシャワールームが大浴場もとい大欲情になってしまう。

 僕がそんな下らないことを考えている間に紗季さんはもういなくなっていた。

 

 僕はスマホから一一九番に電話を掛ける。子供のころから知っている番号なのにこうして掛けるのは初めてだ。実際にかけてみると結構緊張した。

 何故か少し怖いイメージを持っていた警察だったが掛けてみるととても親切に取り合ってくれた。

 なるべく早めに詳しい話を聞かせて欲しいそうだが願い叶え伝説について話すといたずら電話かと思われるのでその辺はごまかしてただ不審者がいたという報告だけをした。

 電話は三十分ぐらいで終わり、僕が電話を切ると丁度紗季さんシャワーを浴びて出てきたところだった。

 湯上りの紗季さんは男子高校生の僕には少々刺激が強すぎて直視できなかった。ほんのり火照った身体からは湯気が立っている。シャンプーの甘い匂いが漂ってきた。

「電話ありがとう。シャワー開いたわよ」

 僕を惑わしている紗季さんは全くその自覚がないようだ。

「少したったら入ります」

紗季さんがテレビの前の椅子に座ってドライヤーを始めた。

僕はその場から動くのに数分かかった。

 

  11


 僕がシャワーを浴びて出てくると紗季さんはベッドで横になっていた。

 気高に振舞っていたが今日の一日でかなり疲れているのだろう。

 僕は紗季さんを起さないようにそっと服を着る。

 部屋には適度にエアコンがきいていたので半そでのTシャツでも快適だった。

 正直、僕もかなり疲れていた。朝から紗季さんとデートをして夜にはあんなこともあった。もう朝の博物館が何日か前の出来事のように感じる。

 僕はさっき自動販売機で買ってきたペットボトルの水を蓋を開けて一気に飲む。冷たい水が風呂上りの温まった体を駆け抜けていった。

 色々考えたいことはあったけど疲労で考えがまとまらないので今日のところはおとなしく寝ることにした。

 僕はベッドに身を任せる。一瞬で意識が奪われていく気がした。

「ねぇ」

 隣のベッド、紗季さんからか細い声がした。どうやら起きていたらしい。

「なんですか」

「私を覚えてる?」

「どういうことですか」

 一度はとぼけてみる。紗季さんの言いたいことは僕にもわかっていた。

「お母さんに電話したら『あなたは子供のころから女優じゃない』だって。もう女優じゃやなった私のことは覚えていないみたい」

 願い叶え伝説で女優になりたいと紗季さんが願ってからこの世界は徐々に紗季さんは子供のころから女優であることを当たり前にしてきている。だが同時に女優でなかった紗季さんのことは忘れつつあるのだ。

「覚えていますよ。演技ができないって僕に言われてキレた天野紗季さんですよね」

 おどけて言ってみたが紗季さんを元気づけるには足りないみたいだ。 

「私は役者になりたい。その気持ちに嘘はない。でも今の私をみんなに忘れられるのがどうしようもなく怖いの」

 とてつもなく大きなものに怯えるように紗季さんは言う。

「僕はわすれません。夜に二人で買い物に行ったことも、博物館に行ったことも、一緒に海を見ながらハンバーガーを食べたことも、図書館で映画をみたことも全部忘れません」

 紗季さんと会ってからの出来事を一個ずつ思い出していく。最後にあんなことがあったけどそれ以外はどれも本当に楽しくて忘れようがない思い出だ。

「怖かった。急に知らない男の人に話かけられて身体をつかまれてどうすることもできなかった。もし役者として有名になったらまた同じようなことになるかもしれない」

 僕と反対側を向いている紗季さんの肩が小さく震えているのがわかった。

「僕が守ります。だから紗季さんは大丈夫です」

 一世一代の勇気を振り絞ったセリフだった。現実的には僕一人で紗季さんを守るのは不可能だ。でも言わないといけないきがした。紗季さんのためなら何でもするという覚悟だ。

 換気が終ったのかシャワールームの換気扇の音が静まった。室内には僕らとそれから冷蔵庫の音だけだ。冷蔵庫がこんなに音の出る家電だとは知らなかった。

「紗季さんが言う役者ってなんですか? 映画やドラマに出てれば役者なんですか? 素人の僕が言うのは違うのかもしれないですけど僕はそうは思いません。役者って何か資格があるわけじゃないし、そこは本人の覚悟の問題というかそんな感じで」

 紗季さんがこちら側を振り返る。紗季さんが僕をじっと見る。暗闇のなかで紗季さんに見つめられていることだけがわかる。手を伸ばしても届かない距離なのに紗季さんが重なるよりも近くにいるような気がした。

「翔太が生意気だからもう寝るわ。明日からまた学校があるでしょ」

 紗季さんは僕とは反対側に身体をやる。紗季さんの寝顔を見られないのが少し残念だが見ていたらずっと眠れないかも知れない。

「ありがとう」

 紗季さんはそう言ってすぐに眠りについたようだった。紗季さんの穏やかな寝息が聞こえてきた。

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