第4話 大袈裟に言うなら僕の世界
7
紗季さんと買い物に行った翌日、僕が起きると世界から女優天野紗季は消えていた。元の世界に戻っていたのである。
驚くべきところなのかもしれないがこの事態は僕の予想の通りだった。
僕は紗季さんの願い叶え伝説に対してある仮説をたてた。
それは世界が二つ存在するという仮説だ。
一つ目の世界は僕らが元々いた世界。つまり高校生天野紗季の世界だ。
もう一つの世界が女優として紗季さんが子供のころから活躍していた世界。これは紗季さんの願い叶え伝説によってつくられた世界だ。名づけるなら女優天野紗季の世界。
僕が一つの世界が変化したのではなく世界が二つあると考えた理由は紗季さんの記憶だ。
世界が変化したのだとすると紗季さんの記憶が高校生天野紗季の記憶のままで女優として活動してきた記憶がないのがおかしい。
僕も紗季さんが女優として活躍している姿は知らない。だが昨日連絡した隼人は女優としての紗季さんを知っていた。
きっと僕は高校生天野紗季の世界の僕、昨日連絡した隼人は女優天野紗季の世界の住人なのだろう。
今は二つの世界の住人が一つの世界の中でせめぎ合っている。きっと些細なことで高校生天野紗季の世界と女優天野紗季の世界は切り替わるのだ。
僕は世界が切り替わってから紗季さんにこの仮説を伝えた。 紗季さんもおおむね同じことを考えていたみたいですぐに理解してくれた。
そのまま世界に変化がないままカレンダーはめくられ、きたる日曜日。
僕はできる限りお洒落な服装をして、いつもより少し多めにお金をもって家を出た。
集合時間にはまだ早いが紗季さんを待たせるわけにはいかない。
自分が待つ分には何の問題もない。これから紗季さんとデートだと思えば待つのは苦ではなく楽しみだ。
集合場所はくじら池公園博物館。
買い物の帰り道、紗季さんの家まで荷物を運んだのだが、紗季さんの家は僕の家のすぐそばだった。徒歩五分ほどだ。家を知ったときはこんなに近くに会ったのにすれ違っていない記憶がないので損した気分になった。
通学の時、同じバスで行って帰ってきているはずなのに一緒になった記憶はない。一緒になることがあっても気がつかなかったのかもしれないが、僕には部活があって紗季さんはバイトがあることを考えると一緒になった回数はそんなに多くないだろう。
高校へ行くときと同じ道でバス停まで向かう。集合場所は紗季さんが決めた。
信号に足止めされたタイミングでいまいちど髪型が変じゃないかスマホのカメラを鏡にして確認する。
「青になったわよ」
一瞬、心臓が完全に止まった。僕はバッと振り向く。
「おはよう」
振り返ると僕の驚き方が面白かったのか満足気な顔をした紗季さんがいた。徐々に動悸が収まっていく。
「おはようございます」
時刻は午前九時。デートが始まった。
青が点滅する信号を僕らは早足で渡った。
今日の紗季さんは袖のところがレース生地になっている白のトップスと膝丈のスカートを合わせている。紗季さんの清純な感じを十二分に引き出している服装だ。
ブーツを履いている分いつもより視線が近く、ふいにドキッとしてしまう。
髪型も何と呼ぶのかはわからないが手がかかっていそうなものだ。デートということを覚えてくれていたらしい。
「可愛いです」
はじめてのセリフはかなりぎこちない。
でも今日のために準備してくれたのだから言わないわけにはいかなかった。
「ありがと。橘君もいい感じよ」
そう言われればちゃんと悩んだ甲斐があったというものだ。
「僕だけ紗季さんだとあれだから紗季さんも下の名前で呼んでください」
自分で言ったのだが「あれ」とは何だろうか。きっと特に意味はない。
「じゃあ行こうか、翔太君」
「翔太がいいな」
「はいはい、翔太ね」
ただ名前を呼ばれただけなのに体が幸福感で宙に浮いた気がした。
「今日はどこへ行くんですか?」
「まずはここよ」
僕らがいるのはバス停だ。バス停に何の用事があるのだろうか。
「博物館よ。潤美乃について調べるならここは行っておきたいでしょ」
紗季さんがバス停の後ろに立つくじら池公園博物館を指した。
毎日見すぎて盲点だったが潤美乃の歴史や文化をまとめたこの博物館なら確かに何かわかるかもしれない。
博物館の開館時間は九時かららしい。博物館の入り口に書かれている。それを考えての集合時間だったのだろう。
早速僕らは中へ入る。円柱状の自動ドアが開き、銀色のひよこの像が僕らを迎えた。
この像は前に来たときもあった。確か潤美乃出身のデザイナーの作品だった思う。駅前の金の卵も同じ人の作品だ。この作品は三部作で残りの一つ銅色の鶏の像がある。
チケットカウンターの券売機でチケットを買って受付の人に学生証と一緒に見せる。僕らが買ったのは潤美乃内の小中高に通う学生用のもので割引価格の百円。実に良心的な価格だ。
博物館は二階建てで中央に大きな階段があり階を行き来できる。
一階は主に潤美乃の海に関することと例のデザイナーの作品の展示だ。二階は潤美乃の歴史についてだ。
「何かわかるなら二階ですかね」
「そうね。でも私ここ来るのは初めてだし、折角だから一階から順にみましょ」
「小学生の頃とか来ませんでしたか?」
「私、潤美乃に引っ越したの高校に入ってからだから。それまでも潤美乃には来ていたけど」
「潤美乃に来ていたのは劇団に通うためですか」
「そうだけど。私が劇団に通っていたこと言ってないわよね。誰から聞いたの?」
秋葉から聞いたことを正直に話した。隠しておくのはフェアじゃないと思ったから。
流石に知らないところで自分の話をされるは嫌だったらしいが紗季さんはそこまで怒らなかった。別に隠しているつもりもなかったらしい。
紗季さんは潤美乃海岸周辺に住む魚について興味深そうに見ている。でもやはり願い叶え伝説に関連することはなさそうだ。
一階の展示物を一通り見て僕らは本命である二階に来た。
二階は半分ほどのスペースが年表と共に各時代の潤美乃の写真が飾られている。
僕は願い叶え伝説に関する記述がないか端から見ていくことにした。
デートとしては少し残念ではあるが博物館ということもあり先ほどから会話は少ない。
でも紗季さんは展示物を楽しんでいるようで退屈している様子はない。
なんでも興味をもってじっくり見ている。勉強家な一面があるのかもしれない。
「翔太」
順々に年表を見ていた紗季さんがこっちを見て手招きをしていた。
何か見つけたのかもしれないと思い僕は紗季さんの元へと向かう。
「どうしたんですか?」
「ここ、潤美乃神社について書かれてる。願い叶え伝説って潤美乃神社の神様が起こしている説もあるのよね」
「そうですね」
「それならやっぱり潤美乃神社の人に話を聞くのが一番だと思わない?」
「それは微妙だと思います」
「何で?」
「昔、願い叶え伝説について扱ったオカルト雑誌があったんです。でもその記事によれば潤美乃神社としてはその噂が本当かわからないのでコメントできないということなんです。つまり潤美乃神社の神様が夢に出てきて願いを叶えるという話は潤美乃神社には伝わってないということだと思うんです」
「もしその類の言い伝えがあるなら正直にそう言えばいいものね。じゃあ誰が言いだしたのかしら?」
「わかりません」
僕も日常生活に支障がない程度に願い叶え伝説について調べてきたが噂の発信源はわかっていない。
「ところで翔太が体験した願い叶え伝説についてまだ聞いてなかったわね。どんな願いだったの?」
「そういえば話していませんでしたね。僕が願い叶え伝説を体験したのは中学生の頃でした」
今でも夢を見た夜のことは鮮明に覚えている。
寝苦しさを感じるほど暑い七月の夜のことだった。
「僕は中学の時、今考えれば大した悩みでもなかったんですけど少し悩んでいたんです。それでその答えを教えてくださいって願ったんです」
口にしてみるとなかなか恥ずかしいことだが当時の僕は本当に悩んでいた。
「それで翔太は教えてもらったの?」
「その場で教えてもらうことはなかったです。でも僕はその後に潤美乃神社の境内で一ノ瀬琴美さんという人に出会ったんです」
「その一ノ瀬さんが教えてくれたの?」
「まぁ、そんな感じです」
琴美さんは僕に大切なものをくれた。それは僕の今でも大きな糧となっている。
中学時代の大事な思い出。琴美さんを形容するならそんな感じだ。
「でもそれだと願い叶え伝説のおかげかはわからないわね。偶然ってこともあり得るし」
「僕があった一ノ瀬さんは僕が中学を卒業する直前急に会えなくなってしまったんです」
「引っ越したとか?」
「違うと思います。一ノ瀬さんはいつも潤美乃高校の制服を着ていました。なので潤美乃高校に入学してから昔の卒業アルバムを確認させてもらったんですけど一ノ瀬さんの名前はありませんでした」
紗季さんはそれを聞いてシャーロックホームズのように顎に手を当て考え込む。
「まず考えられる可能性としては翔太が調べた年の卒業生じゃなかった可能性ね」
「それはないと思います。その可能性もあると思って十年近くは調べたので」
「それ以降は?」
「三十代には見えませんでしたし、一ノ瀬さんが来ていたのは新制服にだったので」
潤美乃高校の女子の制服は最近になってデザインが変更された。時代の影響を受けて女子もスラックスが選べるようになった。それに合わせて変化したのだ。
「一ノ瀬さんって女子なんだ」
「はい」
「今でも好きなの?」
「へ?」
唐突な質問に戸惑ってします。
「僕、一ノ瀬さんが好きって言いましたっけ」
「そういう顔してた」
好きだったのだろうか。多分、その時は好きだったのだろう。今ではその感覚は不確かだ。
「好きでした」
だから「好きだった」というのが正しい。僕はあきらめて認める。
「なんか怒っていません?」
紗季さんの視線が冷たい視線を送ってくる。もう五月も半ばだというのに吹雪の中にいるような気分だ。
「デートの最中に、他の女が好きだなんて最低」
「『好きだった』ですから。過去形です」
「ふーん」
博物館を出てから約一時間後。時刻は丁度正午。
僕らの目の前には二つのハンバーガーとポテトとドリンクのセット、それから水平線が広がっていた。
場所は潤美乃海岸のハンバーガーやのテラス席。程よい日差しと波に乗って流れてくる潮風のおかげで雰囲気はばっちりだ。
このハンバーガー屋は最近できたらしい。紗季さんが教えてくれた。行ってみたいと思っていたそうだ。
「特に収穫はなかったわね」
紗季さんはポテトを一本つまみ口に運ぶ。ただポテトを食べているだけなのにロケーションも相まってかなり魅力的だ。
風になびくさらさらの髪と憂い自然に憂いを含んだ大人な目元、それに絵画のように緻密な横顔、どれもずっと見て居たいほど魅力的だ。
「でも楽しかったですよ。前来たときよりもずっと」
「そんなに展示の内容は変わってなかったんでしょ」
「紗季さんと来たからかな」
多分間違いない。そうでなければハンバーガーを食べているだけの時間がこんなに楽しいわけない。
「午後はどうしますか?」
「本当は神社にいって話を聞こうと思っていたんだけどさっき翔太の話を聞く限り神社の人が何か知っているとも思えないし、行き詰ったわね」
「なら図書館はどうですか?」
「図書館?」
「さっき博物館で思ったんですけど潤美乃について詳しく知るなら図書館もありかなって。潤美乃小学校の近くにある図書館って潤美乃についての本がまとめられている場所があるんですよ」
「なるほどね」
高校から潤美乃に来た紗季さんがこのことを知らないのも無理はない。どうやら午後の行き先は決まったしい。
「ところで根本的な話なんですが女優になってからどうするんですか?」
前から聞きたいと思っていた。なぜ紗季さんが願い叶え伝説で女優になりたいと思ったのかにつながっている。
「色んな映画とかドラマとかにでるのよ。知らない場所に行って、知らない人を演じて、人を感動させられるようになりたい」
さっきまでの今を楽しんでいるのが伝わってくる表情を残しながらも真剣さが伝たわっくる。
「紗季さんなら願い叶え伝説なんてなくてもいい女優になれると思うな」
「何日か前に演技ができないなんて言ってきた人のセリフとは思えないわね」
内容に反して紗季さんが怒るっている素振りは一切なかった。むしろ僕の言ったことに照れ隠しで言っているのは明らかだった。
自分より頑張っている人に頑張れということに少し抵抗があるのと同じように紗季さんに「きっとなれます」なんて言うのは無責任な気がしたので僕はその言葉を心にとどめた。
その代わり僕のできる最大の努力で紗季さんを応援しようと決めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます