あの日の合い鍵

若奈ちさ

あの日の合い鍵

 肌身離さず持っているものがある。


 なにがきっかけであったのか、鍵がかけられるものに不思議なほど安心感を覚えるようになっていた。

 次第に鍵の数は増えていき、娘が修学旅行の土産で買ってきたキーホルダーには収まりきれないようになり、もはや収集癖ともいえるほどに執着した。

 長年警備の仕事をしてきたからか、腰にじゃらじゃらと鍵の束をつけて持ち歩き、そのたびに施錠解錠するのはおっくうではなかった。


 朝起きて、枕元に置いてあった鍵で机の引き出しの開け、財布を取り出す。玄関を出たら鍵を閉めてガレージを開ける。車のドアを開けてハンドルロックを取り外し、近くにある喫茶店で朝食をとるために車を走らせる。

 妻をなくしてからは、働いているときもずっとこのルーティンだった。


「モーニングを」


 入るなり目が合ったアルバイトの女性に告げた。

 ホルターネックのベストに白いシャツという制服がよく似合う、スレンダーな若い子だ。

 朝早い時間でもシャキッとした態度で接客をする。


「はい。空いているお席へどうぞ」


 チェーン展開しているこの喫茶店は、店員との距離感もほどよくて居心地が良い。

 長く通い続けているが、アルバイトは何人も入れ替わっている。

 それでも毎日通っていれば今のアルバイトに顔を覚えられているようで、空いている席へどうぞといいながら、私がいつも座っている場所へ手を差し向けている。

 ――いやいや、思い過ごしだろう。

 マニュアル通りのことをやっているだけかもしれない。


 テーブルに置いてある新聞を広げる。

 妻は折り込みチラシをよく読んでいたが、私は見ることもないので購読をやめてここで読むことにしている。

 定年退職をしてからはいい暇つぶしになっていた。


「お待たせしました。モーニングです」

「ありがとう」


 新聞をテーブルからよけてスペースをつくると、トレイを私の前に置き、「ごゆっくりどうぞ」と軽く頭を下げて戻っていった。


 仕事をしなくなってからは新しいことをあまり考えなくなった。

 日々新しい事が載っているはずの新聞も、どこかで聞いたことがあるような事件と論評で、自分の日常とはかけ離れた浮き世事がまさに世相というのだから不思議なものである。


 自分のことといえば目新しいことはなにもない。

 今まで一生懸命働いてきた自分へのご褒美が古い思い出にすがることしかないというのは寂しい余生だが、近頃昔のことばかりを思い出す。


 遠い日の大切な思い出は心にしまいこんでいるというのに、最近物忘れが多くなってきた。

 年のせいだろう。

 きっと、大事なものをしまいこんでおける心の鍵に限りが尽きてしまったのだ。


 私は惚けてなどいない。

 娘は惚けないでよねと冷たく言い放つが、こちらだってまだまだ娘の世話になんかなりたくはない。


 これだけたくさんの鍵を持っていても、どれがどの鍵だか明確にわかる。

 もうろくなんかしていない。

 腰につけていた鍵をテーブルに載せる。

 ガチャリと大きな音をたてた。

 人差し指と親指で作った輪ぐらいのリングに十数個の鍵をつけている。


 娘は逆に不用心だというけれど、これだけのものを落とせばその大きな音に気づかないはずもない。

 そしてこれらは全てスペアキーだ。

 つまみのところに社名だとか番号だとか、何の鍵だかわかるような情報は排除している。


 これは地下室の鍵、これはウサギの檻の鍵、これは金庫、工具入れに付けた南京錠、旅行用カバンに、三日坊主の日記帳。会社で使っていたロッカーの鍵や新調してもういらなくなった物の鍵まで付いている。

 近頃はパスワードや指紋認証といったロックがあるが、やはり鍵穴に差し込んでひねったときの手応えに安心の実感が湧くのだった。


「そしてこれは……」


 はて。

 この鍵はなんだっただろうか。

 リングから取り外してみる。

 つまみの部分は三つ葉のクローバーのような形をしており、その真ん中に穴があいてキーホルダーが通せるようになっている。

 鍵の部分はくぼみもギザギザもなく、平べったいヘラのようだった。

 これでは鍵の役割は果たすまい。


 目をつむり、人差し指をこめかみに付けて考え込む。

 鍵に似た飾りとして購入したのだっただろうか。

 鍵以外の物をここには付けないはずだったが。


「思い出せませんか?」


 いきなり声がして顔を上げると、いつの間にか正面に青年が相席していた。

 襟元がかちっとしていないラフな白いシャツ一枚だけを着ていて、胸ポケットに黒い糸で小さなクローバーの刺繍がしてある。

 ここの店員ではないようだ。


「ええと、あなたは……」


 相手は顔を覚えるのが苦手な若者だ。

 癖のある前髪が目元にまでかかっている。

 端正な顔つきはにこりともしない。


「お会いしたのはこれで二回目なので、ぼくの顔を覚えていないのも無理はありません」

「これは申し訳ない。以前もここでお目にかかったんですかね」

「いいえ。前回はあなたの家で」

「私の家で?」


 思わず声が裏返った。

 私の家で会ったとはどういう状況だったか。

 今の家にはもう四十年以上も住み続けていて、近所でこんな青年を見かけたこともないし、今時の若者は引っ越しの挨拶に来るようなこともないだろう。

 ましてや娘が恋人を連れてきたことは一度もないはずだ。


 だいたい娘は四十半ばを過ぎている。

 恋人にしては若すぎるし、器量の悪い娘とは不釣り合いだ。

 こういってはなんだが、娘をもらってくれるような男性は今更現れないだろうと思っている。

 定職には就かず、妻の代わりに家事をやるでもなく、一日の大半を部屋に引きこもり、それでも身の回りの物を少し買う程度には何かで稼いでいるようなのだが、年金暮らしの私のところで将来のことも考えずにずっと居座っている。


「今のため息は?」


 青年にいわれ、気づかぬうちに息をついていたのだと知った。


「ああ、失礼。あなたのことが思い出せなくて。そうしたら娘のことを憂いに感じましてね。あなたのような若い青年を娘が連れてくるはずもないし」


 そこで私が自嘲すると青年もわずかに表情を崩した。

 黙ったままのところから察するに、やはり、娘の恋人ではなかったようだ。


「私の家でちょっと顔を合わせただけだとするなら、なにかの営業でうちに来られたんですか。あるいはエアコンの取り付けとか」


 そうだとするなら忘れていてもそれが普通だ。

 物覚えが悪いわけでもない。

 だが、青年は首を横に振った。


「いいえ。お会いしたのは三十年も前のことですから」


 驚いた。

 目の前の青年は多く見積もっても二十代前半にしか見えない。

 三十年も前だとすると、まだ赤ん坊の頃ではないか。

 お互いたまたま顔を合わせただけでは「ああ、あのときの」というわけにはいくまい。

 青年は前もって私の素性について調べていたのだろうか。


「私の同僚の息子さんかな。お名前は?」

「ブランクキーです」

「ブランクキー……」


 青年の顔を見つめる。

 外国風の顔立ちには見えない。

 外国人の知り合いもいないし、そんな変わった名前なら覚えていそうなものだったが、なにひとつピンとくるものがなかった。


「ごめんね。全然覚えていなくて」

「いいえ、かまいません。ただ、そのとき、あなたとは重要な取り交わしをしています」


 どうも雲行きが怪しくなってきた。

 彼は新手の詐欺師かなにかなのだろうか。

 ボケ老人をつかまえて、あなたが書いた契約書だとかなんだとか。


 毎日通っているこの喫茶店からあとをつければ自宅は簡単にわかるだろう。

 ちょっと張り込めば娘がひとりいるだけで、誰とも交流のない一家だということが知れてしまう。

 相談相手がいないからといってそうやすやすと騙されはしない。


 私は背筋を伸ばし、毅然といった。

「私とあなたがどんな取り交わしを?」

「あなたの犯した罪に時効がないということを知らせに来ました」

「なんだって?」


 突拍子もないことをいいだす青年に身を乗り出した。

 青年は少しも揺らがない口調のまま続けた。


「あなたが手にしているその鍵で、封じ込めた記憶の扉が開きます。膨大な思い出の中で、なぜ奥さんと過ごした日々の回想が極端に少ないのか。あなたは気づかないうちに奥さんとの思い出にふたをしていたのです。重大な秘密と供に」


 鍵――。

 そうだ。見覚えのない鍵だ。

 クローバーの形をした鍵。

 ぎゅっと握りしめた手のひらをひらき、鍵に視線を落とした。


 おや?


 先ほどは先端の部分がヘラのようにつるんとしていたのに、今、手にある鍵は周囲にギザギザがある普通の鍵の形をしていた。


「これは――」


 再び顔を上げると青年の姿はなくなっていた。

 店内を見渡しても、窓の外を見ても青年はどこにもいなかった。


   ※


 家に戻るといったんソファーに腰掛けて落ち着いて考えた。

 私が犯した罪とはなにか。

 それには妻が深く関わっているという。

 昔の思い出に耽る時間が増えても、妻との思い出にふれるのは心が締め付けられるような苦しさがあったのは確かだった。

 妻がいなくなったときの記憶はひどく曖昧で、むしろ思い出さないほうが良いのだと自分に言い聞かせるようにして時を過ごしてきた。


 しかし、それを思い出さねばならないときが来たということだろうか。

 妻がいなくなったのは、そうだ、あの青年も口にしていた、三十年前のことだった。

 戻ることのない妻をなんとかしなくてはならないと、警察署へ行った。

 いなくなったときのことを詳しく説明しろといわれてもよくわからなかった。

 もう帰ってくることはないということだけは確信できたが、それをうまく伝えることができなかった。


「仕事から帰ってくるといなくなっていて……。荷物をまとめて出て行ったかどうかなんてわかりません。妻の持ち物どころか、家のことはすべて妻に任せきりで」

「実家へ帰ったとか、友人宅へ行ってるとか、心当たりは」

「実家には連絡しました。泊めてもらえるような友達だっていないはずです。友達といったって私たちと同世代ですから家族がいるでしょうし、こんな時間まで……」

「まぁ、ご主人が知らないだけかも知れないしね。いつもと変わったところは」

「いいえ」

「晩飯の支度なんかは?」

「ああ……はい。ありました。いつもしていたエプロンが折りたたんでテーブルに置いてありました」


 担当の警官はため息をついて、自分でいなくなったのなら事件性はないだろうといい、後日行方不明届けは受理された。

 なにかを捜査しようという動きは感じられなかった。

 その後、警察がうちを尋ねてくることもなく、七年が経過して、妻の死亡が認められた。


 これで良かったのだろうか。

 いなくなった妻を探さず、記憶から妻を押しやろうとして。

 心の底に澱が沈んでいるような不快な感情。

 その正体はなんなのか。


 私が忘れてしまいたかったこと、心の奥の方に封印しておきたかった記憶を解き明かさねばならない。

 この鍵を使って。


 このクローバーの鍵に気がついてしまったとき、いや、この暗示めいた鍵の出現は私に無視を決め込むなといっているのではないか。

 この鍵をつかって開けられるものを探し当てなければならない。


 封印しておくべき秘密。

 鍵をかけて何かを閉じ込めて安心できるような場所はやはりこの家しかないだろう。

 ローンも払い終え、借金も抵当もなく、四十年以上も住み続けている我が家は誰の手にも渡ることはない、私だけのテリトリー。

 ……相続権のある娘を除いては。


 そうなのか。

 私の寿命が尽きる前に、自分の秘密は自分で片を付けておくべきということなのだろうか。

 あんな有様の娘でも無様な置き土産などできない。

 とにかく、先に自分で見つけておいたほうがこの世に未練を残すこともなく逝ける。


 つまみの部分がクローバーの形をしているので、私が作ったスペアキーではないといえる。

 なんの鍵であったか。

 自室にも鍵を付けておきたかったが、もし娘が自分の部屋に鍵を付けたらもはや家族ではなくなったような寂しさを覚えるだろうから、それだけはしていない。

 だから、部屋の鍵といえば地下室の鍵ぐらいだが、それはここにちゃんとある。


 そういえばもう久しく地下室へは行っていない。

 普段使うものや季節品も押し入れやガレージに置いてあって地下室には用がないからだ。

 あそこだったら忘れてしまった何かが置いてある可能性はある。


 私は束ねた鍵とクローバーの鍵を持ってリビングを出た。

 すると、すぐそこに娘が立っていてぶつかりそうになった。


「びっくりした。いたのか」

「そんなに鍵を持ってどこへ行くの。うちには泥棒に取られるような金目のものもないでしょう」

「安心するんだよ。お守りのようなものだ」

「いっぱいありすぎても、何が何だかわからなくなっちゃうでしょ」

「まぁそうなってもこれからは時間だけはある。どうせうちにある物の鍵なんだから探すさ」

「忘れたのなら、忘れたままのほうがいいこともあるかもよ」

「惚けるなといってるくせに」

「好きにしたらいいわ」


 娘は不機嫌に階段を上っていった。

 娘が私の亡骸とこの鍵を手にしたとき、私の遺品に触れて回って感傷に浸るだろうか。

 ――まさか、そうしてほしいとでも?

 私だって妻がいなくなっても何一つ妻のものには触れず、そのまま手つかずになっているではないか。


 なんだかやりきれない思いのまま、廊下の突き当たりにある地下室のドアの前までやってきた。

 束ねた鍵からひとつ選んで鍵穴に差し込む。

 埃がたまっているのか、やけに重い手応えで解錠された。

 ドアを開けると湿気くさいよどんだ空気が漂っていた。

 採光のための小さな窓から差し込む光だけで薄暗い。

 入り口にある明かりを付けると、ここが何をするための部屋だったかを思い出した。


 手すりをつかんで階段を降りていく。

 ローテーブルと古びたソファー。

 壁際には埃をかぶり、色あせてしまったベルベットのカバーが掛かったアップライトピアノが置かれてある。


 妻は自分の夢を娘に託そうとピアノを習わせた。

 ピアノが自分のうちにあることも、自在にメロディが奏でられることもあこがれであったというのだ。

 初めこそ娘は喜んでピアノを習い、発表会のドレスもお姫様みたいだと気に入り、熱心に練習していたがそのうち飽きてしまったのか地下室へ行くとこを嫌がるようになった。

 ここまでお金かけたのにと妻が言ったとき、娘はぶち切れてそのまま長い反抗期に突入してしまったのだった。


 娘も寄りつかないこの部屋に、私はなにを隠したのだろうか。


 階段を降りた正面には、壁全面を覆うようなカーテンがぴっちりと閉まっている。

 その裏にはプロジェクターを映し出すスクリーンがある。

 だが、カーテンの裾のほうが盛り上がっていた。

 床に何か大きなものが置かれてあるのだ。

 これしかない。


 私は意を決すると真ん中からカーテンを両方に開いた。

 押し入れに置く衣装ケースくらいの大きさの箱があった。

 上蓋が開くようになっていて、その真ん中に鍵穴がある。

 目の前にしてもここに秘密があると確信が持てなかった。

 私が覚えていなくてもこのクローバーの鍵が答えてくれる。


 震える手で鍵を差し込んだ。

 右にひねるとカチリと音を立てて鍵は開いた。

 意外に重量感のある上蓋をはねのけると、中には白骨化した遺体があった。


「ああ……」


 その場に崩れ落ち、私は全てを思い出した。

 前頭部がなぜひび割れているのかを私は知っている。

 頭から血を流し、絶命した妻を見ているからだ。

 驚いたように目を見開き、妻はこの世での最後を見たまま息絶えていた。


 あの日、妻は私が仕事から帰宅する前に食事の支度を終え、エプロンをテーブルの上に折りたたんで置き、乾燥機にかけた洗濯物を畳んでいるところのようだった。

 あの年は夏の終わりからずっと雨が降り続いていて、洗濯物が乾かず、リビングもどこもかしこも生乾きの洗濯物が占拠していてうっとうしかった。

 乾燥機をせがまれ、買ったはいいが、家庭用の電気で動く乾燥機は妻が思っていたほど能力が足りていなくて愚痴っていた。


 どうして。どうしてこうなってしまったんだ。

 絶命した妻の頭を抱き、生き返ってくれと願ったがそれはかなわなかった。

 代わりに現れたのがあの青年だった。


 突然私の目の前に現れ、驚くというより、妻を隠そうと慌てた。


「誰だあんたは」

「ブランクキーです」

「ブランクキー? なんだそれは。源氏名か。ホストかなにかか。娘の知り合いか?」


 矢継ぎ早の質問に彼は首を振った。

 娘の年に近いように見えたが、学生にも見えなかった。

 妻の金遣いは荒かったがホストクラブ通いできるほど私も稼ぎはない。

 妻とこの若い男が何らかの関係を持っていたとしても、もう妻には問いただせない。

 妻はすでに死んでいるのだから。


 金属のようにひやりとした視線がなにもかもを見通すように彼は「力を貸しますよ」といった。

「どういうことだ」

「隠してしまえばいいじゃないですか。心の奥底に」

「馬鹿な。私の胸の内にとどめておいたところで、起こってしまったことは変えられない。妻はもう死んでしまったんだよ」

「残念ながら奥さんはもう戻りません。けれども、忘れてしまいたいようなことを心の奥の方に鍵をかけて閉じ込めておくことなら可能です」

「なんだって?」


 あきれてしまっていた。

 この異常な状況下、見知らぬ青年がうちにいることだけでも不可解な事態なのに、我々はなんの話しをしているのだろうかと。

 それでも追い出せなかったのは本当に藁をもつかむ思いだったのかもしれない。


「ぼくはブランクキーです。スペアキーを作る前の土台の鍵です。だからどんな鍵にもなれるんです。車のキーとか、トランクかばんとか、開かなくなって困ったとき。好きなあの子の家の鍵、他人の金庫の鍵。実在しない物でも構いません。大切な思い出をしっかりしまっておきたいとき。そして、忘れてしまいたいようなつらい出来事を記憶の彼方に閉じ込めておくことも」


 空夢ごとと見間違うような出来事だった。

 今でも現実と妄想の境目をうろついているのではないかと思う。

 無理に忘れよう忘れようと努力して、現実から目を背けてひたすらに欺いてつじつまを合わせようと奔走したのではないかと。


「私のことはもういい。きみのほうこそ忘れてくれ」と私はいった。

「ぼくは忘れないよ。でも、誰にもいいません。この鍵を使うか使わないかはあなた次第。だけど忘れずに。ぼくとの取り交わしは永遠ではありません」

「いつかはばらすということか?」


 彼はそれには答えず、私の目の前から消えた。

 そして、この大きな箱とクローバーの鍵が残されたのだった。

 私はこれを見たとき、何をすべきなのか不思議と理解していた。

 使われていなかった地下室に全てを運び込み、妻を箱に安置した。

 棺にしては小さくて窮屈な箱だった。


「ごめんよ。ごめん。いつかここから出してやるからな」

 つまらない約束をして重いふたを閉めたのだった。


「いつか」とはいつのことだ。

 時効が成立してからか。

 時効は事件が起こった日からであったか、それとも事件が発覚してからだったか。

 いずれにしても私は箱のふたを閉めた頃から妻のことを忘れかけていた。


 クローバーの鍵で施錠をし、カーテンで隠して地下室を出た。

 ドアノブを見ると鍵穴があった。

 鍵をかけておかないと。

 そう思い立って家中を探した。

 自室から台所、寝室、妻の三面鏡の引き出し。

 ガレージにまわり、壁のフックに鍵が引っかけてあるのを見つけ、それを持ってきたら地下室の扉の鍵はかかった。

 それからというもの、あちらこちらに鍵をかけないとどうにも落ち着けなくなってしまったのだった。


 このときクローバーの鍵をどうしたのかが思い出せない。

 地下室の鍵と一緒にキーホルダーに付けたかもしれないが、今まで鍵の存在を抹消していた。


 私は妻の遺体の処理が終わると、台所へ行き、ご飯をよそい、味噌汁を温め直して妻が用意していた晩飯を食べた。

 地下室でのことはすっかり忘れ、妻がいないのは何かを買い出しに行っているのだろうと思っていた。

 後片付けを済ませるともう十一時になることに気がついた。

 さすがにこの時間まで専業主婦の妻が戻ってこないのはおかしい。

 私は家を出て近所を探し、その足で警察に行ったのだった。


 担当の者は話を聞くと、ひょっこり帰ってくるかもしれないといった。

 何事もなかったように戻って、警察沙汰になっているのを恥ずかしく思うかもしれないから家で待っていた方がいいと諭されてその晩は帰った。

 そして、二日後に再び警察に行くと先日と同じ生活安全課の担当者が出てきて、驚くほど簡単に行方不明届けが受理された。


 娘はなにかいってくるかと思ったが、なにごともなかったように過ごしていた。

 いつもそうであったのか、好き勝手にカップラーメンや冷凍食品、お菓子などそこいらにあるものを食べて、ゴミをシンクに散らかしたままにしていた。

 だから私もなにごともなかったかのように、妻の代わりにそれを片付け、食料品を補充してやったのだった。


 妻と娘がこの家でどのように過ごしているのか知らなかった。

 知ろうともしなかった。

 ただまじめに働いて金を稼いでいれば自分の役割は果たしている。

 妻も同じだっただろうか。

 主婦として炊事、洗濯、掃除、家のことをしっかりやっておけばそのほかのことはなにをやっていてもよいと。


 不意に物音がして振り返る。

 階段の上に立っていたのは自室に戻ったはずの娘だった。

 隠す必要もあるまい。

 娘は不信感も見せずただ立っているだけだった。


「なにやってるの」

「いや、なんでもないんだ」

「いつもそうやってお母さんのことを見てたの」


 娘は知っていたのだ。

 私が地下室に妻の遺体を隠し、失踪をよそおっていたことを。

 私の嘘につきあい、妻が撲殺されたことをなかったことにした。

 もしあのとき、私が警察に通報していたら、娘はありのままを話しただろうか。


「しばらく地下室には来ていなかったと思ってたけど」

「そうだ。あの日以来だ」

「だからいったのに。忘れておいたほうがいいこともあるでしょうって」

「どうして……」

「思い出したくもないでしょ。自分の娘が自分の妻を殺したなんて。だから隠したんでしょ。私の未来を案じてくれた? それとも保身のため?」


 答えられなかった。

 娘を犯罪者にはしたくなかったし、犯罪者が家族にいるということも、家族が家族に殺されたことも、何もかも知られたくなかった。

 この家で起こったことは誰も見ていない。

 隠し通せる。いや、隠さねばならない。


 娘は自分が妻を殺したといわなかったし、その後どうしたのかも聞かなかった。

 私に合わせて、いつもと変わらない生活をしていた。

 この世から一人の人間が忽然と姿を消しても騒ぎにもならない。

 妻が行き先も告げずに失踪したとわかれば、皆は哀れんで話題にすることを避けていた。


「どうしてこんなことを」

「今聞いてどうするの。うるさくいうからついカッとなってしまっただけよ。憎んでもいなかったし、いなくなったらむしろ困ってたよ。私の世話をしてくれる人がいなくなるし。お父さんって役に立たないから。けどいなくなったら困るの。生活できなくなるから。でもなんだって喫茶店に毎日通っているのよ。死んだらぴたりと来なくなって、死んだのがばれるじゃない」


 老い先短い父親の年金をあてにしてるというのか。

 娘はいうだけいって、ぷいと姿を消した。

 一緒に抱え込んだ罪をこれからどう償うのか、娘に相談しようだなんてどだい無理なことだったのだ。

 何歳になっても、父が自分を捨てるはずはないと確信している。


 妻の元へ旅立つ手前、私は急に申し訳が立たない気持ちになった。

 握りしめたクローバーの鍵に問いかける。


「きみはどんな鍵にでもなれるといったね」

 すると手のひらの鍵は消え、目の前にブランクキーと名乗る青年が現れた。

 胸元の刺繍あたりに右手を当て、うやうやしく会釈した。


「もう、この世は充分だ。妻の元へと案内してもらえないかな」

「残念です。ぼくには唯一、作れない鍵があります。それは天国への扉を開ける鍵です」


 そういうと青年は鍵と供にどこかへと消えてしまった。

 その間際、青年の声が聞こえた気がした。


 取り交わしは永遠ではありません。

 いつかまた思い出すときがくる。

 罪滅ぼしに時効はないのです。


 私はまだ、あの世へと行くことは許されていない。


 いや、地獄の扉なら、開くのだろうか。

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