第四章「サラサーテの盤」2

 一人残されて、優斗は芹菜のことを考えていた。

 行方不明になった理由は相変わらずわからないが、一連の事件に関係しているのは間違いないだろう。ともかく、電話さえくれれば、と優斗は自分の携帯電話を見る。やはり誰からも着信はない。

 長いため息をつこうとしたとき、ひゅう、という風切り音が耳元を過ぎていった。

「つっ!」

 咄嗟に優斗はかがむ。

 何かが自分の後ろから通り抜けたのだ。

 ザシュっという砂を蹴る音が目の前でした。

 前には一人の人間が立っていた。パーカーのフードを被り、顔は俯いている。動きに遅れてスカートが揺れた。顔は隠しているようだったが、その立ち居振る舞いで相手の見当がすぐについた。

「せり、な?」

 優斗の前にいたのは紛れもなくいなくなった芹菜だった。わずかな違和感を持ちつつも、安堵感が広がる。芹菜の表情は見えない。こちらの声が聞こえているのかもわからないようだった。

「よかった、どこに」

 優斗がそこまで言いかけたところで、芹菜がこちらに駆けてきた。一瞬で距離を詰められてしまう。

「な」

 触れられる距離まで達したところで、芹菜が右手を振り下ろす。優斗は反射的に両手を挙げて顔を守った。衝撃が腕の上からでもはっきりと伝わり、頭が揺れる。普段の芹菜とは思えない怪力だった。優斗はよろけて身体を右に向けてしまう。

「うぐっ」

 次の瞬間、芹菜の拳がみぞおちにめり込む。優斗は呼吸が止まってしまう。身体をくの字に曲げたまま、次の芹菜の行動を考えて、なんとか地面に頭を叩きつけられるのだけは避けるために自分から後ろに倒れる。

「しまった!」

 遠くて賀茂の声が聞こえた。

「割り込ませてもらうよ!」

 賀茂がすぐに近づいてくる。

 何かを感じたのか芹菜が後ろに飛び退いた。

 芹菜と優斗の間に賀茂が入る。

 芹菜に向けて賀茂が右手を出して何かを向けた。

「止まるんだ」

 賀茂が胸から出したのは小型の拳銃だった。本物なのか、あるいはエアガンか何かなのかは暗くてわからない。いや、明るくてもそれを判別することはできないだろう。

「おい!」

 優斗がそれを止めさせようと叫ぶ。

「これは『敵意』だ。君にはわかるだろう?」

 賀茂は優斗ではなく、芹菜に向けて言った。

 芹菜の動きが、はたと止まった。

 賀茂を見ているわけではない。

 風ではためいたフードの奥から、ちらりと芹菜の顔が見えた。真っ直ぐに優斗を見据えている。最近かけだしたメガネはかけていない。その瞳は、相手が優斗だと認識しているように見えた。

「芹菜」

 その言葉に、芹菜は腕を下ろした。

 そして、そのまま踵を返して奥へと駆けて行った。

 二人が残されて、一分ほどが経った。

 ようやく優斗が肩でしていた呼吸を安定させて、つぶやく。

「一体、何だったんだよ」

「一つ聞きたいんだけど」

 軽い口調で賀茂が聞く。いつの間にか拳銃はしまわれていた。

「ああ?」

「君さ、彼女に襲われるような酷いことしたの?」

「さっきの、襲われたのか」

「あのね、僕が助けなかったら死んでいたかもしれないんだよ」

 やれやれ、とでも言いたげな賀茂の言葉はあまりピンとこなかった。

「完全に殺意が籠もっているよ」

 間一髪で賀茂に助けられたものの、あのまま一人だったらどうだったろうか。

 しかし、実際に芹菜に襲われるようなことはしていない。もちろん自分が思うだけだから、裏で恨みを買っているという可能性はある。あれやこれやに付き合わせて、連れ回していたのだから、内心怒っているかもしれない。

 思うのはそれくらいで、やはり決定的なことは思い浮かばない。

「だけど、パズルのピースは繋がってきたみたいだ」

「何が」

「正体不明のフードの人物」

 芹菜が去っていった通路を賀茂が指す。

「芹菜が『砂』を渡して回っていた神様だって? そんな」

「馬鹿な、というわけにはいかないね」

 賀茂が屈み、指したままの指を地面に擦りつける。その指を優斗の前に持ってきた。指には、塵や埃にまみれて、ざらざらとしたものが付着している。

 おそらく、それは『砂』だ。

「……ああ。でも何か理由があって」

 否定したい気持ちは当然あるが、状況証拠が揃いすぎている。

「『呪い』を撒いていたって? まあ、どうなんだろうね」

 賀茂はそう言って、スーツのポケットからハンカチを取り出して丁寧に指を拭った。拭き取ったあとの指を賀茂は自分の鼻の近くに持っていく。

「証拠品というわけだけど、確かに、何か、普通じゃない気配を感じる。小袋のものは念のためまだ開けていなかったけど、これは道具の一部、か? 砂というか、なんだろう、何かの匂いがする。どこかで嗅いだことがあるような。何にせよ、僕は飲み込む勇気はないね」

「僕だって、嫌だよ」

 君はどう、という視線を感じて優斗が言った。

「あれ開けるかあ」

 のんびりとした声で賀茂が言う。

「芹菜を見つければ」

「そうだね、それはそうだ。まあ、そう上手くいくかな」

 最後の残りかすも、息で吹き飛ばした。

「それに、彼女、芹菜ちゃんのこと。おかしいと思わないかい、こちら二人を相手にして、あの立ち回り、人並み外れた身体能力」

「まさか、混血?」

「そのようだね。というか、そうなると余計に話がややこしくなるなあ。質問なんだけど、彼女の姓ってなに?」

「姓? 名字のこと? 紫桐、色の『むらさき』に植物の『きり』で紫桐」

「……とんだポカをやったみたいだ。それを先に知っていればまだ対処のしようもあったかもしれない」

 賀茂が右手で顔を覆って、大げさなジェスチャーをする。

「紫桐、が何か?」

「紫桐、というのはね、鬼の家系だ。いや、正確には鬼堕ろし、あるいは神堕ろし、という。確かにメジャーじゃないけど、界隈の中でも知る人ぞ知る、混血の家系だよ」

「芹菜が、でも、お父さんもお母さんも」

 いたって普通のように見える。そんな素振りを見せたこともない。

「それは隔世遺伝かな、たまに影響が強く出ることがあるんだよ」

「でも、今まで一度も」

 芹菜は聡明ではあるが、少し引っ込み思案なところがあって、一方で正義感も強くて、決して他人を攻撃するような人間ではなかった。

「生まれつきではなく、何かをきっかけに能力を自覚することはよくある。元々血が濃くない場合は特にそれが顕著だ」

 手を当てた顎を深く引いて、考え込んでいる。

「もしかして、あのとき何か言いかけたのは」

 女子生徒が発見されて芹菜が来たとき、賀茂が何かを芹菜に言おうとしていたのだ。

「うん、彼女には混血の影響が強く出ているように思えた。でも、それを自覚させるのは問題だし、多少混血の力があったとして、それだけなら『何かが人より得意』くらいで済むんだよね。うーん、でも紫桐だって知っていればもう少し注意深く見ていたなあ」

「それで、ポカ、か」

「いや、まあ、こう考えてみてもいいかな。得体の知れない混血よりは心構えができる。だが、タイムリミットも同時にできてしまった」

「タイムリミット?」

「僕があの一ノ瀬とかいう彼に言ったことを覚えている? この力はもう使わない方がいいとかなんとか」

「ああ、言っていた」

 忠告ではなく助言だったか。

「あれはね、とても重要な意味があるんだよ。あのクラスの混血の異能はね、無限無期限に使えるわけじゃない。結構な代償を伴うものなんだ」

「代償……」

 賀茂の言葉をただ反復する。

「そう、代償はね、血に呑まれる、あるいは血に負ける、とも表現される。わかりやすく言えば、それまでの人間性、人間としての自我を喪失する。もっと端的に言えば、獣そのものになってしまう、ということ」

「獣? その、異種みたいなってこと?」

「いやいや、異種はね、そう呼んではいるけど、知恵があるものが多いんだよ。ああ、いや、僕は伝聞だから多いらしいんだよ、としか言えない。自制心がある、ということかな。混血の、うーん、暴走、の方がいいか、暴走は、ただの獣だ。異能を巻き散らかして人を襲うだけの猛獣だよ」

「使わなきゃいいじゃないか」

「そうもいかないんだ。彼も言っていたね、能力があれば使いたくなるんだよ。その誘惑にあらがうことはとても難しい。どんなに自制していても、何かに行き詰まったとき、解決策としてそれが上がってきたのなら、どうしても選択してみたくなる。とっておきの武器を持っているようなものだからね。そしてそのうち、それが当たり前になってくる。こうなってくれば、もうあとがない」

 それは、わかるような気がする。だが、優斗はそれを口に出す気にはなれなかった。

「一ノ瀬君だってその徴候自体は自覚していたみたいだね。あの能力だって、そんなに軽はずみに使っていいものじゃない」

 優斗にはそんな風には見えなかった。飄々とした一ノ瀬は、これからも軽々と能力を使うのではないか。

「昔は血に負けた混血を、それこそ統世五見なんかが『処理』をしていたんだろうけど、最近は統世五見自体は滅法衰退しているし、そうなると被害が大きくなるなあ。『使節』はこんなところに出張ってくるとは思わないし」

「処理、って」

「そのまま、殺すってことだよ」

 殺す?

 人間を殺すのか?

「……そんな、説得とか」

 もう能力を使うのはやめろ、これ以上はだめだ、そう言えばいいだけの話なのではないだろうか。

 そんな優斗の言葉を、あっさりと賀茂が否定する。

「獣に説得が効くわけない。これが現実だ」

「それは確定なのか」

「残念だけどね、過去あらゆるこちら側の人間が研究して試した結果では、これは覆られないとされている」

「だから、タイムリミットなのか」

「そう。今なら芹菜ちゃんはまだ引き返せるかもしれない。おっと早合点しないでね、かもしれない、だ。ただ時間が経てば経つほどその可能性は低くなっていくのは間違いない」

「じゃあ、はやく芹菜を見つけないと」

 タイムリミットが訪れる前に芹菜を救い出さないといけない。

「そうだね、それが先決だ」

「それで、芹菜の、その、能力って」

「僕が知っている範囲だと、まずさっき味わった身体能力の強化だね。これは多くの混血に共通しているから、あまり有益な情報とは言えない。一ノ瀬君だってもっと進行すればあれくらいはできるようになるかもしれない」

 あの一ノ瀬が直接的に攻撃をするとは思えないが、ともかくそういうものらしい。

「それと、紫桐の家の特徴は、さっきも言った、神堕ろし、と言われている。要は、何かしら、を憑依して、その能力を借りるというものだ」

「何かしら?」

 賀茂が空を見上げて、指を空中でくるりと回した。

「ううん、それは、なんていえばいいのか。神とか、精霊とか、そう呼ばれている存在だよ。実際にいるかどうかは別にしてね、大気中のエーテル濃度がどうとか、まあ、僕も正直なところよくわかっていない」

「結局よくわからないのか」

「大事なのは、そういう外の気に対して感応性が高いということかな。依り代型とも言われているね。昔の巫女さんみたいなもの」

 神懸かる、というやつか。

「これで、まあ、彼女が黒だということはわかってもらえたと思うんだけど」

 芹菜が黒だとして、何がどこまで、何の目的でしているか、優斗には皆目見当もつかない。

「でも、どうして?」

「それは、これからだね。理由はあとでいくらでも探せばいい。彼女を見つける方が先だね、そうだろう?」

「ああ」

 芹菜がどういう意図を持って『砂』を配っていたのかはわからない。それよりも大事なのは、彼女を見つけて、異能の力を使うことをやめさせることだ。そうしなければ、賀茂の言うように、暴走をしてしまうのだろう。

「そういえば、なんだけどさ」

 話を変えるかのように賀茂が言う。

「月村兄妹は『呪い』を集めたあと、どうするつもりなんだろう」

「何かで消すんじゃないの? 魔術とか道具とか、そういうのがあんたの専門なんだろ」

「うーん、『呪い』の浄化かー。道具ではあまり聞いたことがないなあ。それこそ彼女に使ったペンダントなんかは多少抑えるくらいならできるんだけど、魔術ならあるんだろうか」

 賀茂が悩むくらいなら、優斗は考えても仕方ない。

「で、どうなの?」

「何が?」

 賀茂がくるくると話題を転換させる。

「それで、本当に身に覚えがないの? 芹菜ちゃんに襲われるようなこと。あれは確実に君を狙っていたと思うよ」

「……ない、と思う」

 自信なく答える。

「まあ、人はいつどんな恨みを買うかはわからないからね」

「それはそうだけど」

「さて、彼女を止めるには、彼女を知る必要が出てきたね。ここからは少し君の仕事だ」

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