アンダーワールド

志渡ダイゴ

アンダーワールド


 秀才である私はバカに憧れた。英語検定準一級合格、数学検定準一級合格、学力模試東京大学理科一類合格可能性八十パーセント以上、これは現中学三年生の私、片瀬紗耶香が手にした勉学ステータスである。

 教育熱心な母親の影響で未就学児の頃から塾に通わされ、中学受験をして東京でも名門と名高い中高一貫の女子校へと進学した。学校では学年屈指の優良な成績を修め、体育祭ではクラスで一番を張れるほど運動神経も抜群だった。塾では特待生の称号も得た。

 傍から見たら誰もが羨む勉強の才だろうが、私は全然嬉しくない。自分自身でこの結果を得たいと望んだ末に手に入れたのならともかくこの結果は望んではいなかった。望んでいるのは他ならぬ母親なのだから。


 父親は外資系企業に勤めて一年のほぼ全てを海外で過ごすため家では私と母親の二人だけ。実質的には母子家庭のようなものだが、毎月父親から多額の仕送りは貰えるのでそれである程度は生活に満足している。


 私は幼い頃から青春なんてものを捨てて勉強に身を捧げていた。小学生の時も友達から何度も遊びの誘いを受けたが、「塾があるから、ごめんね」や「家の都合で無理なんだ」と言って断り続けた。友達からも、紗耶香はどうせ遊べない、ということは周知されていた。

 今にして思うと、私は母親という教祖の下に置かれた宗教の信者だったのかもしれない。その時母親に反旗を翻せたら今の私は変わっていたとは常々思う。しかし純真な小学生の私は翻すことなんて到底できなかった。もし歯向かいでもしたら学校や親戚中に伝播して、たちまち問題児のレッテル貼りをされてしまう。その事を何よりも恐れていた。

 私は母親にちやほやされる良い子ちゃんでありたかった。誰よりも堅実でありたかった。誰からも尊敬される人間でありたかった。だがそんな望みなんて時の流れに従がって潰えた。


 中学三年生の冬、私は一月に控える英検一級の勉強に励んでいた。自分から望んで受けたかったわけではない。母親が熱心に勧めてくるものだから受けるべきものなのだろうと成り行きで申し込んだ。結局母親の作った流れに沿った運命しか歩めていない。

 私は人間の都合で放流されて元の川に帰れず大海原で死んでいく鮭の稚魚の無常さが分かった気がした。

 友達からは冬休みの遊びの誘いを受けたが母親が許してくれず仕方なく断った。もう断る事にも慣れてしまった。年末年始にはテレビの特番もやってはいるが見させてもらえず、年始に初詣に行くことも無くひたすら英検の勉強をし続けた。勉強机の上にも教材が山のように積んであり常に視界に英検の要素を取り込まなければならずそれが苦痛で仕方が無かった。

「英検一級があれば将来は安泰よ」これが母親の口癖だった。呪文のように唱えるものだからその声が自分の心に木霊して侵食する。家という閉鎖的な空間にいてはあの母親に洗脳されてしまい母親の思うが儘に死んでいくのだな、とこの時ばかりは本気で思った。


 そんな恐怖に怯えていると次第に勉強のやる気は失せてくる。家で勉強をしていると時々母親がドアを開けて私の様子を覗きに来る。その時だけ私はペンを持って一丁前に勉強をしているフリをする。「頑張っているわね」と言って部屋を出た母親を欺けたところで、私はスマホを取り出し音楽アプリを起動した。家のような静寂に満ちた空間の下に住む私が無理やりにでも気分を興奮状態に持っていくために選んだテクニカルサウンド系の曲がすっかり耳に馴染んだ。その中でも特に洋楽はリスニングの練習にもなるため積極的に聴くようになった。

 しかしそんな気の紛らわせ方も所詮は一時的なものに過ぎない。常に母が来る怯えに耐えながら聴く音楽など微塵も楽しくなかった。


 そんな私が心を安定させられる数少ない場所が塾であった。他人との約束には厳しい母も塾へ行くことに関しては咎めることはしなかった。塾へ行くと同学年の学生が一斉に物珍しそうに私を見つめた。特待生の称号を取っている私は他の学生からすれば憧れの的であり、講師からも授業の手伝いを頼まれるほどの好待遇であった。こう考えると誰からも尊敬される人間でありたいという望みは叶ったのかもしれないと不意に思った。一人の学生から数学で分からない問題の質問があったのでそれに応えた。家にいても全く褒めない母親なんかといるよりも、出来の悪い学生さんに教えて理解してもらえたことの方がよっぽど嬉しく、まるでユダヤ人の民衆を導くモーゼになった気分だった。


 一通り質問を受け終わった後は窮屈な自習室に籠りずっと洋楽を聴いた。英検の勉強なんてするつもりは全く無かった。


 一月になって英検当日がやって来た。筆記用具、受験票、本人確認用の健康保険証、交通費を持って出発した。試験会場である大学の講堂に到着するとそこからは時間が加速したかのようにあっという間に過ぎ去った。


 手応えが全くないまま試験が終わった。途端に私の心に吊るされていたおもりが消え失せた。ようやくあの母親から干渉されない自由な生活を送れると思うと安堵の気持ちで胸が破裂しそうだった。ただこの日行ったのはあくまでも一次試験。私は二次試験の事など一切考えていなかった。


 家に帰ると部屋の電気もつけずベッドで横になりスマホゲームをして時間を殺していた。

 しばらくして突然部屋の電気がつけられた。母親が入って来た。


「ちょっと彩夏、勉強しなさい」


 この言葉を聞いた瞬間、私はこの女を殴ってやろうかと思った。いつまでも勉強勉強勉強勉強と私に要求するハードルだけは高く設定し肝心な私の気持ちを全く汲み取らない利己的な考えに反吐が出た。


「あのさー、せっかく今日一次試験が終わったんだよ。なんでさらに勉強しないといけないの。二次試験の合格率なんて一次の倍以上あるんだからさ。結果来てからでいいじゃん」

「良くないわよ。二次試験の合格率なんて六割ほどしかないのよ。結果が届いてからじゃ遅いわ」

「大丈夫だよ」

「いいから勉強しなさい!」


 強く叱責されたが私はまた反論できなかった。小学生の頃からそうだった。私はあの女に反旗を翻すあと一歩がどうしても踏み出せない。私に残された良心が一歩を妨げてしまう。

 結局私は弱いままだった。あの女の言いなりになり英検二次試験の勉強のふりをするしかなかった。


    …


 二月になり一次試験の結果が届いた。結果は不合格。まともに勉強する気は無かったし何の悔しさも湧かなかった。それどころかあの女がどのような怒りを見せるのか少しばかり楽しみでもあった。私は素直に結果を見せる。あの女は愕然とした。


「何でよ、何で不合格なのよ。ちゃんと勉強したの?」

「しなかった。勉強をしたくなくなったからよ」

「何で勉強しなかったのよ。私があなたにいくらお金をかけたと思っているの?」

「さあね。そんなの興味ないよ。嫌々やらされる勉強ほどつまらないものは無いからね」

「ちょっと何よその態度。私はあなたのためを思って…… 」


 あの女の発言を余所に部屋へ戻った。英検の結果はクシャクシャに丸めてごみ箱に捨てた。

 私は父親の事を考えた。父は家庭にほとんど関われないことを分かっているからこそ、毎月多額の生活費を仕送りしてくれている。他の家庭では類を見ない程に。父は父なりに私の事を考えてくれている。私に懸る塾代や学費だって全てそこから賄われている。


 だからあの女の”私があなたにいくらのお金をかけたと思っているの”という発言が許せなかった。

 所詮あの女は父の威を借るキツネでしかない。私の考えも父の思いやりも全て無駄にして自身の身勝手な願望を実現させることしか考えていない。私の成績が良いから喜んでいるのではない。私の成績が良いのは熱心に教育して来た自分のおかげなのだと思いたいだけだ。私はあの女の尊厳を築くための駒に過ぎない。そんな女が私に楯突く資格なんてあるはずが無いのだ。そう自分に言い聞かせた。


 その日以降、母親は明らかに不機嫌だった。夕食の量も心なしか減らされているように感じた。あの女は私の口を一切きかなくなった。無論、私もあの女の口をきく気はないが。

 私はそれが嬉しかった。今まで教育をさせて私に良い成績を掴ませることで自尊心を満たしてきたあの女が、勉強という中身を放り出して殻だけとなった私に価値を見出せなくて悔しがっている事が惨めであり滑稽だった。

 昔から楯突けずにいた私がやっとの思いで半歩前進できた気がした。


    …


 三月上旬になると卒業式が行われた。しかしながら卒業式なんてものは名ばかりで、実際には修了式にも満たない集会でしかない。教員も真剣に臨んでなんかおらず、生徒たちは尚の事だ。中学の課程を終了したらそのまま高校の課程に進学する。周りの者たちも進学するわけだから出会いと別れの春なんて言うものはこの学校の者共とは対極に位置する言葉である。

 私からしてみれば高校に通うなんて何の苦労も努力も要さない退屈な作業に過ぎないという事は分かっていた。大学受験なんて落ちようがない学力も持っている私は勉強と言う名の呪縛から解放されたかった。

 それこそが本懐だった。


 式が午前中で終わると私は一目散に帰宅した。誰かと思い出を語るわけでもない。友達とは何か話そうかなと一瞬考えたし恐らく友達側も私を探していると思うが、私は見つけられなかったフリをして学校を出た。


    …


 家に帰ると真っ先に自分の部屋へ入る。背負ったリュックは雑にベッドに投げつけた。学校用のとは別のリュックにはお小遣い五万円とスマホ、充電器を詰め込みんだ。制服を着替えることもせずに駆け出す。


「紗耶香、どこ行くの?」


部屋を出た廊下で母親が訊いてきた。


「…… わからない。さようなら」


 一瞥してそう応えた私にもう迷いはない。右手を握り締め母の頬に殴った。手の甲が皮膚をえぐる感触をはっきりと感じた。顔は壁に打ち付けられ尻もちをつく。


「さっ、紗耶香、何をっ……」


 リュックを肩にかけると振り向くこともせず玄関に一直線で歩んだ。

 事々しく頬を押さえて痛がっているのだろうが憐憫れんびんの情なんて一切湧かないし、そんな女に寄り添う気概も無い。私が十年間苦しんできたことを知りもせず、青春を束縛し続けてきたことを悪行だと微塵も思わない女に慈悲の気持ちなんて必要は無い。あの女は完全に異常者だ。悪意というのが表層意識に飛び出ていない。

 あの女は存在そのものが私にとって災いだった。自然災害というのが自然の摂理に従っているだけでそこにどれだけ犠牲者が出ようとも地球のその行為に悪意は孕まないのと同じように。

 でもその災いに苦しまなくて済む。耐えたのだ。母親がほだした私の人生はついに解かれた。


 玄関を出ると大快晴の空がこれからの私を迎えに来てくれた。

 大気中の酸素の濃度も一パーセント増えているのではないかと思う程全身に空気が染み渡った感じがする。


 これからどうなってしまうのだろうか?私は何者になれるのか? 不安と好奇心が鬩ぎ合うが考えるよりも行動に移した方が合理的だと考え、新たな私への一歩を前進した。

 目的地は無し。経路も未定。自分自身しか歯止める者がいない世界

へ出立する。同時に私の人生は底辺へと堕ち始めた。


 さよなら、輝かしい人生――。


 もう私は、粗暴な振る舞いを犯すことに何の抵抗もなくなりその事に危機感

も抱かなくなった。

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