2-5


「ずっと、待ってたんですよ」


「……誰を?」


「わかってるくせに」


 伊万里はやはり不服そうな顔を崩さないままに俺に返す。


 彼女は一度ため息をついてから、扉を後ろ手で閉める。適当に座り込んでいる俺との距離感を近くして、そうして彼女は塩ビで敷かれている床に座った。


「会長の手伝い、していたんですよね」


「……ああ」


「昼食の時、会長が物理室に来て、そのことを伝えてくれました。ポスターについてのこととか、会長が謝ってくれました」


「……」


「教師に申請が遅れたから、ポスターについては今回は厳しいかもしれない、会長はそう言ってました」


 ……してやられた気がする。


「でも、不思議ですよね。ポスターは剝がされたと思っていたのに、綺麗に残っているんですから」


「不思議なもんだな。誰かのおかげかもしれないな」


「そうですね。あからさまに誰かのおかげですね」


 くすくす、と彼女は揶揄うように笑った。そこで具体的な名前を出さないことは優しさなのか、それとも布石なのか、俺にはわからない。


「でも、どうして剥がさなかったんでしょうね。わたし、不思議で仕方ないです」


「なんでなんだろうな。俺にもそいつのことがよくわからないや」


 俺は、適当に返事をした。


 ……脇腹をつつかれる。結構痛い。


「どうして、剝がさなかったんですか」


「……なんとなく?」


「なんとなくですか」


「そうだ、なんとなくだ」


 きっと、なんとなくだ。


 なんとなく、という言葉はどこまでも便利だ。責任から逃れるときに、そんな気持ちであったと表示すれば、それだけで納得させる材料として成立する。


 人の感情なんてよくわからないから。ごちゃ混ぜにしか存在しないから。だから、なんとなく、という言葉は正しくないようで、どこまでも正しい人の感情だ。


 あの時の俺の行動は、なんとなく、なのかもしれない。


 正しさとか、偽善だとか、目を逸らしたこととか、あらゆるすべてが、“なんとなく”なんだ。


「なんとなくなら、しょうがないかもしれませんね」


「そうだな、しょうがないかもしれないな」


 彼女は、いつものように肯定してくれる。いつか交わした会話のような、そんな雰囲気を思い出す。彼女と過ごす時間は心地がいい。


 いろいろなことを考えすぎなのだ。考えすぎて、人と関わるから、愛莉と皐、それらに関わることが億劫になる。


 帰りの時間をわざわざ遅らせて、そうするための理由まで作り上げて、そうして人との距離を遠ざけるのは、それが理由だ。それが理由になってしまう。


「なあ」と俺は彼女に言った。彼女は俺の顔をとらえて、なんですか、と聞いてくる。俺は、雑談でもしないか、と提案した。彼女は藪から棒ですね、と返した。俺もそうだと思う。


「天体距離って知ってます?」


「地球から離れている惑星というか、天体までの距離」


「すごいですね。正解です。賢いですね」


「棒読みじゃねぇか。それがなんなんだよ」


「いやあ、科学同好会として、きちんと科学に精通しているのかのテストでした。こんなのは序の口でしたかね」


「……そもそも、天体距離っていう概念がそのままなのに、それで賢いと言われても腹が立つ」


「よしよし、高原くんは賢いですよー」


「馬鹿にすんなよ。というか、天体距離がなんなんだって」


 俺が少し怒ってる雰囲気で彼女は返すと、空に指をさした。


 青空の上。まだ夜でもないのに、月が少し外れた場所に見えている。


「地球の衛星とされている月との天体距離、知っていますか?」


「……知らない」


「三十八万キロメートルらしいです。すごく遠くないですか」


「まあ、すごいな」


 三十八万キロメートル。おおよそ地球では使うことのない距離単位だ。


「普通の車で走っていくとするじゃないですか。時速六十キロだと想定して、単純な計算をすると二百六十四日かかるらしいです。これってものすごくないですか」


「……うん、すごいと思う」


「スポーツカーとかで行っても、おおよそ百日はかかるんです。それほどまでに離れているのに、そんな月に着陸した人類がいることも、私、すごいと思うんです」


 彼女の瞳はきらきらと光っている。


「本当に、宇宙が好きなんだな」


「好きですよ。だって楽しいじゃないですか」


 彼女は楽しそうに語る。


「宇宙はずっと大きくなっているらしいんです。光よりも早い速度で。そんな宇宙の外側には何があるのかなって、想像すると楽しいんです。寝る間際に考えて、そうして私なりの宇宙を完成させると、いつの間にか朝になってることがあります」


「きちんと寝ろよ。身長が伸びないぞ」


「うるさいですね。余計なお世話です」


 彼女はふん、と顔を逸らしながらも、楽しそうな風体を崩さない。


「わたし、いつか科学同好会で天体観測がしたいです」


 彼女は語る。


「みんなで夜まで学校に残って、おしゃべりとかして、高原くんが変な冗談を言っているのを横目に見ながら、みんなで望遠鏡のセッティングとかしたりして、夜は怖い映画を見て震えたり、屋上に昇って綺麗な星を眺めたり。


 わたし、そのために頑張りたいです」


 彼女は、そう言って、俺に何かを渡す。


 俺は、彼女が持っているものを一瞬理解することができなかった。そもそも彼女が何かを持っていることさえ理解できなかった。


「一緒に、勧誘活動、頑張りましょうね」


 そうして彼女が俺に対して渡してきたのは、──科学同好会のポスター。


「……お前」


 なにか、言葉が出そうになった。


 でも、それはやめておいた。


「──ああ、頑張ろうな」


 きっと、彼女なりに前を向こうとしているのだ。人と関わることに対して。


 それなら、俺から言うべきことは何もない。



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