1-11
◇
洗い物を済ませて、俺は部屋の方に逃げていく。皐は俺の所作を気にも留めなかった。どうでもいいのかもしれない。彼女がどうでもいいなら、俺も何か触れることはない。
「待ったか?」
俺は部屋の扉を開けて、そこにいるはずだろう愛莉に声をかける。
愛莉は俺のベッドの上でアルバムを見ている。その詳細を目に入れることは心に痛かったが、どうしても伝わってくる写真の姿を現在の状況が近さから、彼女が中学校の卒業アルバムを覗いていることを理解してしまった。
「ぜんぜーん」
彼女はそう言って、パタンと卒業アルバムを勢いよく閉じる。立ち上がって、もともと置いてあった本棚の場所に戻す。慣れている動作だと思った。まあ、幼馴染だから理由付けはできる。
「……それで?」
俺は彼女に向き直った。
目をとらえないように意識しながら、俺は彼女を見越して壁を見る。俺が彼女を見ていると象徴するように。
「いや、別に? 最近、翔也の部屋に来ていないなぁって」
「……まあ、そうだな」
確かに、それはそうかもしれないが、俺の部屋に来たからと言って何かが変わるわけでもない。何かが起きるわけでもない。だから、この彼女の行動に意味はないと思う。そもそも、意味を見いだしてはいけないような気がした。
俺と彼女は、もうただの幼馴染だから。
恋人では、ないんだから。
「また、理由を探してるの?」
彼女は俺の目をとらえてそういった。
俺は視線を逸らした。もともと彼女を見ていないのに、それでも逸らしたくなって、俺は窓ガラスに視線を移した。それでも逃れないようにと、反射する彼女の顔が俺は後ろめたくなった。
「まだ、答えは決まらない?」
彼女はそう言った。
彼女に言われた一つの提案。
『──もう一度、最初から始めない?』
彼女の部屋で俺はその言葉を耳に入れた。
耳に入れた。耳に入れただけだった。
返事はできなかった。
なんで返事ができなかったのか。
理由がそこに存在しないから。
理由があっても、それは不道徳にしかならないから。
そんなのは、始めたって仕方がないから。
それは、あまりにも自分に都合がよすぎるから。
愛莉のその提案は、明らかに俺を絆す提案だったから。
それを受け容れれば、きっと俺は報われるのかもしれない。報われているけれど、さらに報われるかもしれない。
それでも、俺が受容をしないのはなぜなのか。
それはきっと、考えなくても分かることだ。
俺は、どこか罰を欲しがっているから。
「ねぇ」
愛莉は俺の肩をつかんだ。いいや、掴んではいない。優しく寄せるように触れている。
顔が近づく。距離単位で数えるのが億劫になるほどに、彼女は俺に近づいてくる。
彼女の顔は目の前にある。俺は視線を逸らし続けてる。
顔を背けることはできなかった。それは彼女の好意を否定することになるから。
俺はどうしたい。俺はどうすればいいのだろう。
彼女の息遣いが左耳に聞こえてくる。背中を撫でるような感触がする。いつの間にか肩に置かれていた彼女の手は俺の身体に触れていた。
衣服から滑る彼女の手。彼女の手は服の裾からさらにまさぐるように深く入り込もうとする。
「──私はいいんだよ?」
俺は、その堕落を──。
「だめだ」
……受容できなかった。
◇
正しくあろうとする姿は、世界から見ても、あらゆる意味で正しいのだろう。その姿勢というものは、何よりも強いものであり、それに逆らえるものは理不尽さしかない。
正しさは理不尽を孕んでいる。理不尽に対抗するには理不尽しか存在しえない。それならば、きっと正しさとは正しいものであれども間違っている代物なんだろう。
正論は嫌いだ。正論を吐く人間が嫌いだ。正論を吐く自分自身が嫌いだ。
それは、あまりにも強すぎるから、肯定されることを余儀なくされるから、俺は嫌いだ。
でも、俺はそれを求めている。愚直に、ある意味素直に正しさを求め続けている。
世界の指標で、俺の指標で、彼らの指標で、彼女の指標で、俺は正しさを求め続けている。
そうすることでしか、俺は俺であることができない。
だから、彼女が揺らがせる一つの誘惑は、受容できない。
◇
「わたしが嫌い?」
「そうじゃない」
「好みじゃない?」
「そうじゃないよ」
「それなら、なんで?」
「……正しくないから」
俺は、そう言葉を吐いた。
正しくないのだ。この関係性は。
正しくないのだ、これからの行為は。
それは許されないことなのだ。
「別に、他の人もやってるよ。きっとさっちゃんだってこれから経験することだろうし、私の友達だってやってることだよ」
それはそうかもしれない。
でも、それは単純に、“彼らがそうであった”だけで、それを俺に持ち込むことは許されない。
「私たち、きちんとお別れしてないよ?」
愛莉はそう言った。その通りだ。
きっと、関係性だけ見れば、少し疎遠になっただけの恋人同士。でも、俺が空けてしまった溝のようなものを、彼女の好意だけで埋めるのは、俺が許せない。
ひどく、背徳的だから。
それが、答えにしかならないから。
「別れるなら、きちんとお別れしようよ」
それも、一つの正しさだと思った。
でも、俺はそれに答えることはできなかった。
◇
「じゃあね」と愛莉は言った。俺はそれに答えることができなかった。
沈黙だけがどうしようもなく反響して、耳元で騒ぐ無音が五月蠅かった。
俺は正しいことをしている。俺は正しいことをしたはずだ。それできっと世界は救われる。
でも、心にわだかまり続ける気持ち悪さは何なんだ。
涙は出ない。出るほどに情緒が養われていない。
前を向くことができない。正しいことをしているはずなのに。
俺は、本当に正しいのだろうか?
誰にもそれはわからなかった。
◇
「死んだ顔をしているな」
屋上で煙草をふかしているルトは静かにそう言葉を吐いた。
「生きてますよ、それなりに」
「そんな嘘をつけるのならば、まあ、きっと大丈夫なんだろう」
ルトはくっくっくと笑った。俺には笑えなかった。
「そこまで思い悩んでいるのなら、俺に何か相談してみろよ。これでも人生経験豊富なんだ」
「まあ、高校生ではなかなか体験できないことをしていますもんね」
俺は煙草に視線を移してから、それを示すようにそう言った。
「一度吸ってみると、なんとなくわかるものもあるぞ。どうだ、俺の共犯になる気はないか」
「ないですよ……」
共犯になってしまえば、俺は生徒会に繰り出される結末になるのが想像できる。
「生徒会に入るのに、理由が必要か?」
彼は俺にそう聞いてくる。
別にそういうわけじゃない、そう反論したい気持ちもあるが、俺の行動原理はどこまで行っても理由付けだ。もし、そこに理由があるのならば、きっとそれを承諾してしまうだろう。
それならば、理由さえあれば俺は入るのだろう。彼がいる生徒会に。
「……あのなぁ」
ルトは、語る。
「そもそも物事に理由なんて必要ないんだよ。お前がやりたいかやりたくないか、それだけでしかないだろう。お前は何を悩んでいるんだよ」
俺は、答えることができないでいる。
「しょうがない。お前が生徒会に入る理由を作ってやるよ。明確にお前が入らなければいけない理由を作ってやろう。それでお前が納得するならば、したくはないがそうしてやろう。
──お前が入らなければ、俺は科学同好会を辞める」
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