1-10


「ねえ」と彼女は言った。


 対面する彼女の顔を俺は見つめることができなかった。もともとそこまで顔を見つめるようなこともなかったけれど、今日は特に見れなさそうだった。


「なんだよ」


「……いや、やっぱなんでもないっす」


 彼女はそうして言葉を躊躇う。俺は彼女が躊躇った言葉を推測することはできなかった。推測する材料は記憶の中にたくさんあるが、それをするのはどこか背徳的だ。彼女の気持ちの裏側や、俺がしてきたことのすべてを振り返らなければいけない。俺はそれが嫌だった。


「科学同好会、入ったんだね」


「ん、ああ」


 俺は彼女の言葉に頷いた。彼女の言葉は突発の思い付きだっただろうが、適当な話題にしては盛り上がる要素がある。


「翔也が科学好きだなんて意外だった」


「まあ、別に好きではないんだけどな」


「だよね。翔也文系だし」


 文系でも理科系統が好きな可能性もあるだろ、とそう言葉を返しそうになったが、事実そこまで興味はない。


「なんで、科学同好会なの? 文芸部にでも入りそうなもんだけれど」


「文芸部ないんだよな。うちの高校」


「こっちはあるよ。こっちに来ればよかったのに」


 ──チクリと刺さる、一つの言葉。


 何の気なしに彼女は呟くから、きっとそれに他意はないんだろうけれど。


「なんか、私の友達、結構書いてるんだよね。文化祭の時には部誌も発行するらしいし、来てみるといい刺激になるかも」


「そう、なのかもな。別に俺に書く趣味はないけれど」


「前はポエム書いてたくせに」


「そんな過去は燃やし尽くしたから存在しない」


「覚える人がいるなら、それは存在していたも同義でしょ」


 彼女は揶揄うように笑いあげた。俺は目を伏せたくなった。


「もう、文章は書かないの?」


「もともとそんなに書いてないしな。もう書くことはないだろ」


「それならしょうがないね」


「しょうがないんだ」


 俺は彼女にそう返した。


 きっと、全てのことがしょうがない。


 そうオチをつけることができれば、どれだけ気が楽だったことだろうか。





 きっとすべてのことはしょうがない。そう理由をつけることができたのならば、俺は報われたのかもしれない。


 ……報われたのかもしれない? もともと報われているだろうに。


 なんの困難も抱くことなく、特に苦労しているわけでもない。


 俺がここまで迷い続けているのは、自分の行動に正当性を持てない不安定さからだ。ただそれだけに苦悩して、いつまでも心の中で燻りをあげている。


 別に、迷う必要なんてない。そもそも素直に生きれれば、それでいいはずなのだ。


 だが、素直さはどこに行ったのだろう。


 いつの間に素直さは俺から消え去ったのだろう。


 いつも隣に彼女がいて、それでも彼女に独占欲を晒すことはなく、いつも独りで感情を積み上げていた。


 それなら、彼女と付き合っていたころから俺は素直さを持っていなかった。


 どこに行ったのだろう、俺の人間らしさのようなものは。


 俺の思考は、なんなのだろう。





 帰路につく途中、彼女と適当な会話をした。


 科学同好会で何をしているのかと聞かれれば、時間をつぶしている、と答えた。


 それならなんで今日一緒に出掛けたのかと聞かれれば、暇だったからと答えた。


 嘘だね、と彼女は言った。俺はそれに反応することはしなかった。


 図星だったからだ。


 彼女に嘘は通じない。





「お帰りなさい」と皐は言った。その後、俺はただいまと返したが、後ろにいる人影を見て、それ以上の言葉を皐が返すことはなかった。


「お邪魔します」と愛莉は言った。皐は彼女に一度だけ会釈を返して、そうして皐は居間へと帰っていった。


 皐は、愛莉のことがそこまで好きではないようだった。それがいつからなのかは思い出せない。俺たちが小学生の頃には、二人はとても仲良くしていたはずだ。


 顕著に仲の悪さが露呈したのは、俺が進路を変えた頃くらいだった。


 何があったのかはよく知らない。俺が選択したことがきっかけになったのかもしれない。


 どうでもいい。そこまで考える内容ではないだろう。


「俺の部屋行ってな」


「あーい」


 愛莉はそうして階段を昇っていく。俺はそれを見届けて、皐のいる居間へと歩いて行った。





 静けさを誤魔化すようなテレビ音、それを眺める皐の姿。だが、彼女はテレビを見ているわけではなかった。


 テレビを見越して壁を見つめている。まるで私はテレビを見ていると俺に示すように。


 俺に話しかけられたくないのだろう。


 それなら俺も彼女に声をかけることはしない。


 気まずいわけではない、でもきっと気まずいのだ。彼女からすれば。


 何が気まずいのだろう。それを推測することができないのだから、俺は彼女に踏み込むことは許されない。


 すべてに理由があればいい。その理由を知ることができれば、俺の世界は救われるのに。


 俺は、居間に置いてあるラップがかかった料理を電子レンジに放り込んで、そうして電子音が鳴るまで時間を待つ。


 今日の夕食は何だっただろうか。放り込む前に見ればよかったのに、そこまで興味は湧きあがらない。


 じりじりと熱を帯びさせる電子レンジの擬音が耳元にこだまをする。テレビの音の方が大きいはずなのに。


 でも、すべてがどうでもいい。


 いろんなことに意識を向けすぎている。


 考えることをやめたい。やめてしまいたい。


 俺は、電子音を鳴らして温まった料理を取り出す。素手で触れないほどに熱いのに、ミトンをつけることなく、手で持ちテーブルに置く作業。それはどこか自罰だと感じた。


 ……どうでもいい。俺は食事を摂ることにした。


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