嫌いな猫と、嫌いな掃除

降霰推連

嫌いな猫と、嫌いな掃除

 ある日の事だ、我が家に生後間もない子猫がやってきた。


 何の相談もなしに猫好きの母が急に連れてきて、家族の誰もが反対した。


 誰が世話するんだ、どうせ飽きて見捨てる、泣き声がうるさいなど、まるで暴言のような反対意見を皆で母に浴びせた。


 それでも母は折れなかった。

 飼うと言って他の意見は聞かなかった。

 こうして誰もが母の折れない態度と、もうすでに家にきてしまっている怯えた小さな命を受け入れた。


 当時の私は不登校だった。

 周りの人とは意見が合わず、日々誰かの陰口を聞いて、誰かが虐められ、無視され、僻み合う、そんなくだらない上部だけの関係でも放置していた大人たちに嫌気がさして引きこもっていた。


 もう何もしたくない、そう思いながらただ天井を眺めているだけの生活。

 そんな中に、一つの小さな、けれど大きな雑音が入ってきた。


 母が連れてきた子猫はとても元気だった。

 家中を駆け巡り、ご飯がなければ鳴き叫び、しまいには寝ている私に飛びかかってきた。

 そのくせ触ると怒るし、一緒に寝てくれないし、抱き抱えれば引っ掻くし、本当になんて自由で勝手な生き物なんだと思った。


 皆がその命に納得し始めても、私だけは拒み続けていた。


 ある日のこと、母に

「うるさいから、他所に連れてって」

 と相談したことがある。

 すると母は、

「あなたも少し前まではああだったじゃない」

 と答えた。


 何も言い返せなかった。

 確かに、そうだった気がした。けれど、自分のはずなのに、どのようにして騒いでいたのかが思い出せない。

 私はどうやって、他の誰かと接していたんだっけ。




 気がつけば私が子猫の世話係として定着していた。

 一日中家にいるのだから、そうなって当たり前だけど、何と連れてきた母が一番世話をしないのだから、私は呆れていた。


 世話自体は思っていたよりも簡単だった。

 水はペットボトルに淹れて台座にセットするだけだったし、ご飯だって定期的にあげればいい。


 でも一つだけ嫌で面倒なことがあった。

 トイレ掃除だ。


 猫は砂にトイレをする。もうそれは盛大に、砂をその前脚で掻き上げ、勢いよく周りに飛散させ、それからトイレをする。その後始末が面倒だった。


 トイレの中の排泄物を片付けるだけならまだ知らず、その周りに飛び散った砂も掃除をしなくてはいけない。


 面倒だから放置をすると、部屋中が悪臭に見舞われた。だから仕方なくすぐに始末しなければいけなかった。


 排泄物をトイレへと流し、またしやすいように砂を補充し平らにならす。毎回そんな事をしていると、猫は近くに寄ってきて、じっと私の作業をみていた。


 何を考えているのだろうか。いつもじっととして、もしかしたらご飯をもらえると思っていたのかもしれない。

 

 そして飛び散った砂を片付けようと掃除機を持ち出すと、事態は一変した。


 シャーっと猫は尻尾を太くして掃除機に対して威嚇をするのだ。

 まるで親の仇のように、ものすごい血相で威嚇し、掃除機が近くに来るとバシッと勢いよく猫パンチをして距離を取る。


 スイッチを入れれば余計に怒る。掃除機の音と一緒に猫が威嚇する音が部屋中に響き渡り、私を困らせた。


 後で知った事だけど、ほとんどの猫は掃除機が嫌いらしい、理由までは知らないけど。


 初めはそこまで気にしていなかったけど、こいつの為にしているのに怒られている感じがして、さらにトイレ掃除が嫌になっていった。


 いつまで経っても懐かない猫の世話を、誰かに感謝される事もなく続けた。


 そして、掃除機をかけるたびに猫に怒られていると、ふと学校のことを思い出した。


「ああ、私も一緒か」


 あそこにいる誰もがそれではいけないと分かっている事を続けているように、私もこの子が嫌がる事を続けている。


 その事に気づくと、何だか自分が一番馬鹿らしく思えた。


 まずはこの子が嫌がらない方法を考えてあげよう、そうして考え出すと、答えは簡単ですぐに思いついた。


「追い出せばいい」


 掃除をするときだけ、この子を部屋から追い出せばいい。


 そうすれば掃除機とは会わないし、私も変な視線を感じなくて済む。どうしてこんなにも簡単なことに気づけなかったのだろう。


 いざ実行に移すと、今まではご飯の時しかまともに近寄らなかったこの子が少しづつ近づいてくるようになった。

 そうなると可愛く感じるもので、私も段々とこの子の事が好きになっていった。


 そして日はたち、私も不登校だった学校を卒業して、新たな学校へと通い始めた。


 そこではふしぎと他人と過ごすのに違和感を感じなかった。

 

 もちろんその学校の人たちだって陰口は言うし、虐めも沢山あった。先生たちだって見て見ぬふりをしているのは同じだ。


 けれど、そんなのどうでも良かった。結局あの人たちは他人で、それぞれに価値観があって、気に入らない事もある。私だって皆から好かれているわけじゃない。どうでもいい道端の小石のような存在。


 そう思えば、意外と気が楽で、何をするにも身が軽く、やる気が出た。


 小石が何を思っても、誰も気にしない。それならば、自分のやりたいように生きよう、そう考えると自然と未来に希望を持つことができた。


 そうやって日々を生きて、やがて会社に就職して一人暮らしを始めて数年が経ったところで、母から連絡があった。


「もう、ダメだって」


 すぐに何の事かわかった。その声は涙を必死に抑え、喉を振り絞って出していた。


 会社に休みをもらって実家に帰ると、あんなに元気だった猫はぐったりと横たわっていた。


 前は家に着くなり鳴き声をあげて迎えにきてくれたのに、今はやわらかくて暖かそうなモーフの上に横になり、苦しそうに息をしている。


「もう、耳も聞こえないし目も見えない、トイレもできない」


 それでも、生きているんだ。凄いなと感じた。こんなに小さな生き物なのに。


 この子の体に触れると、まだ痛覚はあるのかビックと反応して苦しそうな鳴き声を出した。

「ごめんね」といってあげたけど、耳も聞こえないのだからきっと届かなない。

 

 毛繕いをしていないせいでごわごわになった毛並みに触れるたびに、この子との思い出が溢れてくる。


 いつも引っ掻かれたり、噛みつかれたりして傷をつけられたけど、この姿を見ればその日々が恋しかった。


 そうして過ごしていると、すぐに休日は終わりを迎え、ここを離れなければいけない時が来た。


 きっともう会えない。予感ではなく、そう確信していた。


 多分、今日この子は息を引き取る。そのくらい、来た時よりも弱っていた。


 それでも、この子は生きていた。辛く、苦しんでいるけど、まだ力強くその心臓を動かして。


 だから、私も頑張らないといけない。この子に負けないように。


 もう鳴く元気も無くなったこの子に手を触れて、届く事もないお別れの言葉を頭の中で思い浮かべる。


「今まで一緒にいてくれて、ありがとう。私は元気になれたよ」

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