第2話 配信ボタンを押しただけなのに
薄暗い風景の中に、重厚な雰囲気の扉が見える。
ゆっくりと俺は扉に近づくと、そっと両手で扉を開く。
少し軋んだ音と共に開いた扉の先には、沢山の人々が立っている。そこには、見知った顔もいれば、全く見たことも無い人物もいる。
妹に幼馴染、会社の同期に後輩も。
赤髪の活発そうな少女や白銀の髪をしたお姫様のような少女。金髪ツインテールのギャルのような少女が居れば赤髪の女性冒険者もいる。
そのほかにも沢山の人々が扉を開けた俺を出迎えるように笑っている。
「■■■■。」
俺はその言葉をを言おうとする。
彼女に、彼女達に言わなければいけない、その言葉を。
「■■■■。」
誰かの声が脳内に響き、そこで思考が弾ける。
ふと周囲を見渡すとガタゴトと揺れる電車の景色が俺の視界に映る。
「…夢か」
どうやら残業の疲れが出ているようだ。
会社帰りの電車で立ったまま寝てしまっていたらしい。
地下鉄車内の掲示板を見れば最寄り駅の名前が表示されている。…次で降りなければ。それにしても、最寄り駅の直前で毎度目が覚めるのは現代日本人の持つ最も便利な機能だと思う。
まあ、そんなことは置いておいて、どこか現実感のある夢だった。
「降りまーす」
俺同様に残業をしていたであろうサラリーマン達を掻き分けて地下鉄を降りる。
最寄り駅から自宅であるアパートまで歩いて15分程。Twitっじゃなくて、AXで告知した今日の配信開始時刻は11時半から。…ちょっと走って帰るか。
▼ △ ▼
「ただいまーっと」
誰もいない部屋にそう言って俺は扉を開けてマンションの自室に入る。1LDKの小さな部屋、くたびれたスーツ、おもむろに脱ぎ捨てられた革靴。
まさに一人暮らし独身男性の拠点。社畜の住処である。そんな部屋に俺、
「思ったよりも早く帰れたな。」
時計の針は夜の10時半を指している。
金曜日の割には残業を抑えることができた。
「配信を始めてから俺も変わったな」
自嘲気味に笑いながら服を脱ぎ捨ててシャワーを浴びる。熱いシャワーが仕事の疲れと汚れを洗い去っていく。
「ちょっと前まで家なんて食って寝るだけの場所だったのにな。家に帰る楽しみができたのは、いいことなのかもしれない。」
独り言が浴室で反響する。
俺にVtuberという存在を教えてくれた友人を思い浮かべると、なんとなく自分の口元が少し綻んだ気がした。
「よし、ちゃっちゃと上がって配信しよう。その後どーせアイツも来るだろうから、夜食でも作ってやるか。」
風呂場を出て、タオルで髪を拭きながら、青年はそう呟く。その表情は明るかった。
…配信者になってから独り言も増えたような気がする。
パソコンの前に座り俺は配信の準備を進める。
配信支援ソフトを立ち上げ、諸々の準備を進める。
飲み物を用意し、PC画面と対峙する。
チラリと待機人数をみると20人弱と表示されている。
「…ありがたいな。本当に。」
不意にそんな言葉が口から漏れた。
こんなヤツを待っててくれる人がいる。
カーソルを動かして、自身のアバターを映し出す。画面に出てきた
白髪をした紫色の瞳を持つ優しげな青年。
肌は色白で、長い髪は丁寧に結われている。
「今日もよろしくな、相棒」
晴斗の動きに合わせて画面上の彼も動き出す。
朝霞晴斗からVtuber夢空ハルへとスイッチが切り替わる。
配信支援ソフトの挙動も問題ないようだった。
あとは配信開始ボタンを押すだけだ。
「よし、始めよう。」
いつだって配信開始前は緊張するものだ。
それは登録者が130人程度の底辺Vtuberである夢空ハルでも変わらない。
深呼吸。
そして、配信開始ボタンをクリック。
「皆さん、こんばんはー。夢空ハルで、、、あれ?」
いつものように配信が始ま、、、、らなかった。
「へ?」
突如、視界が真っ白に染まる。
魔法陣のようなものが床に現れて、ゆっくりと回りだす。
「待て待て待て待てっ!!」
輝きを増す魔法陣の白い光が視界を奪う。
思わず立ち上がったが、足を動かすことはできなかった。
「何が起きてんだあああああっ!!」
俺の叫びとともに魔法陣が消滅する。
一気に視界が暗くなり、何も見えなくなった。
そして、次に俺の視界が捉えたのは、、、
「いや、ここどこだよ。」
薄暗い洞窟の景色と、
画面などない普通の風景に混ざるように視界の端でソレは流れ続けている。
【まだかな】
【遅刻か、珍しいな】
【でも待機画面は動いてるから、、、?】
【どうかしたのかな、、、】
【ゆうて5分だろ? 待ってやろうぜ】
見覚えのあるハンドルネームたちのコメントが視界の端を下から上へと流れていき、さらにコメント欄に注意を向けると配信の待機画面や同接数が視野に展開される。
「マズい、、、」
せっかく来てくれた視聴者を待たせている。
そんな焦りで思わず右手を前に伸ばす。
「あっ」
右手が虚空を切り、そこで初めて自分の服が先程まで着ていた物と変わっていることに気がつく。
白を基調として紺と紫を織り交ぜた、和装と洋服が絶妙に混ざり合った独特のデザイン。それは幾度も見てきた夢空ハルの衣装と完全に一致していた。
「あー、マジかぁ」
ここに来てようやく俺は理解した。
どうやら自分がアバターの姿で現代日本ではない場所に飛ばされてしまったという認め難い事実に。
「ってことは、、、」
背中に手を伸ばすと、予想通りの感触がある。
アバターが背負う大剣もしっかりと再現されていた。
「やけに拘ってたからな、アイツ」
試しに剣を構えてみると、手に馴染む感覚があった。デザインをした人物に感謝をしながら剣をしまう。
「さーて、どうすっかな、、、。てか、未だにコメント流れてるんだけど、配信とかできんのか? って、うお!?」
突如、俺の目の前にメッセージが現れる。
それはアニメでよく見るVRMMORPGゲームのステータスメッセージにとても似ていた。選択肢が1つしかないこと以外は。
〘配信開始〙
たったの4文字。
この選択肢だけが俺の前に浮かんでいる。
「押すしかないんだよな。」
俺は指でそのメッセージを選択する。
次の瞬間、目の前に1つの球体が出現する。
「これは、、、カメラ、だな。多分。」
ふわふわと浮いている|球体状の物質≪それ≫にはレンズのようなものが付いており、レンズは常に俺を捕らえている。
〘10、、9、、8、、〙
視界でカウントダウンが始まる。
俺は混乱しつつも、浮かび上がる数字を凝視する。
〘3、、2、、1、、●Live〙
「こんばんはー、夢空ハルです!! えーっと、、本日は異世界よりお送りしております。 しております?」
【きちゃ】
【こんばんはー】
【待ってたぞー】
【え?】
【3D!!】
【完成度高過ぎ!!ってかこれホントに3D?映像じゃなくて?】
【リアリティあり過ぎで草】
どうやら配信画面では俺がしっかりと映し出されているらしく、Live2Dで配信をしていた俺の視聴者にとっては突然の3Dお披露目となってしまった。
「えー、突然のご報告ですが、、、」
「私、夢空ハルは、異世界に飛ばされました!!」
【どういうこと?】
【3D化したってことじゃない?】
【てかゲームみたいにヌルヌル動くやん】
【↑それな。クオリティ高い】
視聴者は俺の”異世界“発言を3Dモデルになったことと勘違いしたようだ。実際3Dにもなってるから仕方がないのだが。
「いやいや、ホントに異世界に来たんだって」
我ながらそんな事を言っても信じられないと思う。ってことで、洞窟を散策するか。異世界っぽいものが出てくれば伝わるでしょ。
「じゃ、雑談しながら少し歩くか。俺もイマイチここが何処だかわかってないから。ダンジョンとかだったりして。」
俺が歩きだすとカメラもふわふわと宙を浮きながら俺についてくる。画角がどうなっているかは分からないが、カメラを意識しないで済むのは楽だ。
【話について行けないのだが】
【ゲームの画面みたい】
【今来たけど、なにごと?】
«Gyaaaaaaaaaaaaaaaaa»
「ん?なんか聞こえた?」
遠くから咆哮のようなものが聞こえてくる。
これはもしかしたら、もしかするかもしれない。
「ひとまず、剣を抜いておきまーす。」
【マジでヌルっと動くやん】
【お披露目配信なのは分かったけどクセが強い】
【ってか変な音聞こえない?】
【↑わかる。足音みたいなの聞こえる。】
同接が少ないからこそのコメント同士の会話、いいよね。
そんな呑気なことを思いながら無意識に俺は剣を持つ拳に力を入れる。遠くからこちらに向かってくるオークの群れが見えた。
「あのー、皆さんも見えてると思うんですけど、、、とりま逃げていっすか? 僕、まだ死にたくない。」
【なんかヤベーのが近づいてきてる】
【なにあれ、めっちゃ強そう】
【10体くらいおるやん。】
【たたかえ】
【戦わないとお披露目にならなくて草】
【持ってる剣は何のためにあるんだ?】
「えー、マジで? アレと戦うの?」
俺はそう呟きながら徐々に近づくオーク達を見る。
ゲームでは散々倒したことはあるが、実物は怖いもんだなと、なんとなく考える。
「あれと戦わせるとか視聴者は鬼か!! このオーガ集団め!! お前らのこと明日からオーガって呼ぶぞ!!」
【視聴者オーガ呼びは草】
【とりあえず目の前のオークを倒してもろて】
視聴者のコメントに苦笑しつつ俺は覚悟を決める。ふと気になって同接数をみると100人位がこの配信を見ているようだった。
「よし分かった。戦ってやるよ。その代わり、、、」
「戦闘が始まったら拡散しといてくれよ?これで同接が伸びなかったら戦い損にしかならねぇからな?」
それだけ言って俺は駆け出す。
流石Vtuberの身体というべきか、イラストレーターの筋肉フェチがガチだったというべきか、引き締まった身体は動きやすかった。
大学の剣道部を引退してからは久しく運動をしていなかったが、今の身体なら問題なく戦えそうである。
「おんじゃ、いくぞおおおおお!!」
始まってしまった物はしょうがない。
せめて視聴者には喜んで帰ってもらおう。
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