第2話 私はどうやらアロマみたい

「おじゃましまーす」


 靴を脱いでいつも通り瑞乃さんの家にお邪魔する。


 あれから私は瑞乃さんと仲良くなり、一か月も経つ頃にはすっかり入り浸るようになってしまっていた。


 瑞乃さんは小説家を生業としている上に元々インドア派なため、打ち合わせとか取材の時以外は大抵家の中にいる。


 一度酔っている所を介抱したとは言え、今では合鍵を渡され自分が家にいなくても自由に出入りしていいとまで言われている。


 一体私のどこをそんなに気に入ってくれたのか分からないけど、好意に甘えて、最近だと自分の家よりも瑞乃さん宅にいる時間の方が長いまである。


 それくらい瑞乃さんの家は居心地が良くて、迷惑かなと思いつつ、今日も今日とてお邪魔してしまう。


「あれ、瑞乃さんいない…?鍵開いてたけどな」


 いつもだったらリビングのソファか仕事部屋の椅子に座っているのに、今日はどこにも見当たらない。


「鍵閉め忘れてコンビニ行っちゃった…とか?」


 日向はひとまずリビングのソファに座り、机の上に勉強道具を広げた。


 瑞乃は一応大学まで出ているため、最近日向は勉強を教えてもらっている。


 もうすぐ中間考査と言うこともあり、今日も出来れば勉強を手伝って欲しかったが、いないのなら仕方が無いと一人でするしかない。


 高校一年生の最初と言うこともあって頭を抱えるほど難しいものがあるわけではないが、英語とか社会とか、今まで真面目に向き合ってこなかったものがちょっとしんどい。


 頭を悩ませながら黙々進めていると。


「ウゥ~…ゥゥ゛~~…」


 どこからか、獣の唸り声のような音が聞こえてきた。


「え…?」


 私の耳がおかしくなければ、多分今の音は家の中から聞こえた。

 もしかして、猫ちゃんとかが窓から入り込んできた…とか?


 猫だったらいいが、泥棒とか凶暴な動物とかだったらどうしようなんて思いながらも気になって、未だに聞こえる唸り声の方へと足音を殺して近付いていく。


 辿り着いたのは瑞乃さんの寝室。


「ここ…から…?」


 恐る恐る扉を開くと、カーテンも閉め切った暗い部屋のベッド上、布団がこんもりと盛り上がっていて、唸り声はそこから聞こえていた。


 よくよく聞けば唸り声は耳に聞き馴染んだ声で、日向はホッと安堵の息を吐いて膨らみの方へと近づく。


「瑞乃さん、なにかあったの?」


 話しかけると唸り声はぴたりと止んで、やがて布団の隙間から亀のように顔が突き出てくる。


「びなだぢゃ~ん~…」


「はい、日向ですよ」


 ボサボサになった髪の毛を手櫛で直して優しく頭を撫でると、少しは落ち着いたのか布団から上半身を出して、私の腰にしがみついてくる。


 普段はおっとりとした清楚なお姉さんと言う感じなのに、泥酔したりメンタルブレイクするとこうして幼児退行してしまうのである。


 初対面で泥酔していたのも、自信満々に語った作品のプロットを編集者からボロクソに言われ、メンタルぶっ壊れて居酒屋で吞みまくった結果だったらしいし。


 最近は酒も控えめに、割とメンタルも安定していたからすっかり忘れていた。


 しばらく頭を撫でていたら、ようやくポツリポツリと話し始めた。

 …私にしがみついたままで。


「筆がぜんぜん乗らないの…」


「筆って…小説の話ですか?」


「そーなの~!この前重い腰上げて物語の舞台にしたかった飲食店とか水族館とか取材行ってさ、話のプロットも粗方立てて結びもちゃんと考えるまでいって、さぁ書こう!って思ったら…ぜんぜん作業進まなくて……もうわたし、駄目かも…」


「なるほど、それはメンタル来ちゃいますよね」


 私は創作とか全然しないから、瑞乃さんの気持ちは今一分からない。

 だからこうして頭を撫でたり、話を聞いてあげることくらいしか出来ない。


 早く立ち直って欲しい気持ちもありつつ、こうして年下に甘えてしまう瑞乃さんが可愛くて、もうちょっとこのまま甘えてくれないかな、なんて。


 ふと、瑞乃さんが上目遣いで私の方を見ているのに気付く。


 瞳を潤ませ、布団の中が熱かったのか僅かに頬を赤らめた様子があまりにもセクシー過ぎて、ごくりと生唾を飲み込んでしまう。


 いけないいけない。


 最近瑞乃さんの距離感が近すぎて、うっかりふしだらな感情を抱いてしまうことがあるけど、飽くまで私と瑞乃さんは隣人同士で、年は離れてるけど、仲のいい友人で、それ以上を求めてはいけない。


 欲望に任せて手を出して、瑞乃さんに拒絶されてしまったら立ち直れない。


 軽く深呼吸をして湧き上がった劣情を鎮め、にこりと笑顔を向ける。


「どうしました…?」


「なんで日向ちゃん…昨日来てくれなかったの…?」


 こてんと顔を傾げる姿があざと可愛すぎて、噴き出そうになる鼻血を抑えつつ。


「ご、ごめんなさい。昨日はちょっと高校の友達と遊びに出掛けてて、帰ったら疲れて寝ちゃってたから…もしかして、寂しかった…とか?」


 まさかと思いつつ尋ねると、瑞乃さんはコクコクと頷く。


「全然文書けないから日向ちゃんに慰めてもらおうとおもったら、いなくて…だから、私が今こんなになっちゃってるのは日向ちゃんにも責任がある…から、責任…取って?」


「ど、どう取れば、いい?」


「ここ、来て」


 瑞乃はしがみついていた日向から離れて、自分の隣をポンポンと叩いた。


 瑞乃がいる場所はベッドの上で、それはつまり。


「そ、添い寝して欲しい…って、ことで合ってます?」


「うん、日向ちゃんは今から私の抱き枕となる刑に処されます」


 そんなの私にとってはご褒美でしかないんだけど、いや、必要以上にドキドキさせられて心臓に悪いと言う点で言えば、罰とも言えるのかもしれない。


「わかりました…それじゃあ、えーと、おじゃまします」


 瑞乃さんの隣で横になると、すぐに両腕を背中に回され顔を胸に引き寄せられる。


 流石に春の真昼に密着すると少し熱いが、それを上回る幸福感が胸中を満たす。

 私の頭に顔を埋めてぐりぐりと擦りつけられ、スンスンと鼻音が聞こえてくる。


 瑞乃さんの癖なのか、こうしてくっつくとよくにおいを嗅がれる。

 別に嫌とかじゃないんだけど、私の体、臭くないかなとか少し不安になってしまう。


 お返しとばかりに、スンと瑞乃さんの匂いを嗅ぐ。

 自分のはともかく、瑞乃さんの匂いは何だか安心する。自然と頬が緩んでしまう。


 なんてしていたら、


「…今、私書けそう」


「…え?なんて言いました?」


 突然瑞乃は立ち上がり、日向の手を掴んでベッドから降りる。

 そのまま部屋の外へと引っ張っていく。


「ちょっ、あのっ、瑞乃さん!?どうしたの!?」


「いいから来てっ」


 連れられた先は瑞乃さんの仕事部屋。


 作家の部屋と言えば本棚だらけで紙を丸めたゴミとかそこら中に散らばっているイメージだが、瑞乃さんの仕事部屋は少し大きめの机の上にデスクトップパソコンやメモ帳などの作業道具があって、背の低い座椅子とかカレンダー以外にほとんどものがない。


 瑞乃さん曰く、部屋にごちゃごちゃ物があると書く時落ち着かないらしく、そもそも部屋自体狭めでぼんやりと暗く、ちょっと秘密基地感がある。


 話が思いついたから書きに来たんだと思うけど、だとしたら私まで連れてくる必要はないのに、一体どうしたんだろう。


「ここ、座って」


 瑞乃は座椅子に腰を下ろし、胡坐を組んだ足の間を指さす。


「わ、わかり…ました」


 日向は戸惑いながらも、有無を言わせない視線に疑問を返すことなく瑞乃の足の間にちょこんと座る。


 一体何が始まるんだろうとパソコンの画面を眺めていると、何故か瑞乃さんは「ス~~~」と私の頭に顔を乗せて、思い切り鼻で息を吸い込み、


「よしっ、これだ」


 と言いながら、キーをカタカタ文章を打ち込んでいく。


 何がどれなんだと思いつつも、何だか瑞乃さんがいつもより調子が良さそうだったから何も言わず、ストーリーが作られていく過程をボーっと見ていた。


 やがて一段落着いたのか、私を抱きかかえながら背凭れに「あ゛~~、つがれだぁ~~」と凭れ掛かった。


「突然ごめんね、日向ちゃん。なんか私、日向ちゃんの匂いを嗅いだら筆が乗るみたい」


「えっ…と、ホントに?」


「うん…今までもそういう兆候はちょくちょくあったんだけど、さっき添い寝した時に確信した。日向ちゃんの体臭は私のメンタル安定剤なんだ!…って」


 瑞乃は少し恥ずかしそうに言った。


 俄には信じられないが、本人が言うなら本当なんだろう。


「それでね…これはちょっと、その、日向ちゃんからしたら気持ち悪いと思うかもしれない提案なんだけど…聞いてくれる?」


「はい、聞きます」


「時々でいいからさ、作業する時、またこうやって私の膝の上で匂い嗅がせて欲しいな~って…ダメ、かな…?」


 何だかちょっと、いやかなり恥ずかしいけど、自分だけいつもお世話になって何か返したいなと常々思っていたから、こんなことで役に立てるなら嬉しい。


 少なくとも、気持ち悪いなんて微塵も思わない。


「もちろん、いいですよ。私の匂いなんかで役に立つなら…いくらでも」


 見上げながらそう応えると、瑞乃さんは花開くような満開の笑顔を浮かべ、


「ホント!?日向ちゃん大好きっ!!お礼にまた、日向ちゃんが美味しいって言ってたカステラ買って来るからね!!」


 そうして、私はその日を境に瑞乃さんの作業時、アロマ役として出陣するようになるのであった。

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