第5話 社会人としてのスタート

ここから第5話始まり

私は高校生になったが、高校1年生の時に自動2輪バイクの免許証を取得した。そして、高校3年生の終わりに普通自動車免許証を取得した。普通自動車免許取得にあたって、近くの建設会社の土方のアルバイトを同級生3人と共に10日間働いたので、そのお金で免許証取得の為に教習所に通った。

学科試験を合格し、実施試験の当日であった。実施試験の時は、試験車両の運転席に受験者が乗り、その横に試験官が座った。

そして、後部の座席には次の受験者と2人目の試験官が乗る仕組みになっていた。

私は、次の受験者なので、後部座席へ座った。

前の受験者が実施試験のスタートをした。当然私も後ろの座席へ座り乗っていた。

試験車両は、ギヤがマニュアル操作で、クランプ走行・バックで車庫入れ・幅寄せ停止。坂道の走行途中で一旦停止しサイドブレーキをかけて停止しここから坂道発進するという、難度の高い科目もあった。受験者は、坂道に来た時途中で一時停止した。坂道発進である。それまで順調に運転されているように私には見えた。

ところが、坂道発進の時にどうしても前に進んで行かない。私もどうして前に進んで行かないのか、不思議に思えた。

受験者は、あせって何度もギヤーを入れるのを繰り返し発進するが、どうしても前に行かない。坂道をそこから登って行かない。

私は、その時に見た。

本人は、ギヤーをローに入れて一生懸命前に進もうと繰り返していたが、よく観てみるとギヤーは、ローではなく、バックに入っていたが、本人はパニックになっているのでその事には気付いていない。

試験官は、もちろん気づいているが決して口には出さない。

私も教えてあげたかったがそれは出来ない。

そのうちに試験官が、「もういい、スタート地点の所へ帰りなさい」

と言った。

すると、受験者は頭に来たのか、ギヤーをいきなりローに入れその場所から急発進した。私も、試験官も後ろへのけぞった。

やがてスタート地点へもう発進して停車した。

試験官は怒り「何をやっているんだ」と怒鳴った。

受験者は、スタート地点まで飛ばして停車して運転席のドアをドアをバターンと強く閉め、帰って行った。試験官は2人共怒りはおさまっていない。「なんだ、あいつは」と2人で言い合っていた。

やがて落ち着いた雰囲気になり私の順番が来た。

試験官も穏やかになり、操作するたびに小声で「そう、そう」と何度かつぶやいていた。

一通り無事に大きなミスも無く私の実施試験は終了した。

終わって、車両から離れる時も、試験官に「ご苦労さん」と声をかけられる程であった。私はその時何となく「合格」を確信した。

その確信通り、一発で実施試験は合格した。

運も味方したしたような気がした。

孫の食事は豪快である」。

小さなオワンに入ったうどんの食べ方は特に豪快だ。オワンの中に手を突っ込み、手のひらでうどんをわしづかみして口へ運ぶ。

時々、フォークやスプーンもいじるがしまいには手で掴んでガムシャラに食べている。

どんな食べ方でも、食欲がある事は身体の成長に繋がると私は頼もしく思っている。

私は、いよいよ高校を卒業して地元の石油会社、釜石出張所へ入社する事に決まった。

私の高校から女子生徒2名、私ともう1人男子生徒は2人、4名の入社が決まった。

釜石出張所と言っても、そこは余り広い敷地ではないが油層所である。当時その石油会社は、世界一のタンカーを保有し、代表的民族資本系石油会社で売り上げは、首位を競っていた。

徳山、千葉に製油所を持ち、その会社の社長は個人経営で創業していた。社長諸筆、「人間尊重」の本は、私も買って読んだ事があった。

釜石出張所は、油層所となっていて町はずれの港の湾岸、海のすぐそばに2階建て事務所と1階が現場事務所と2階建ての建物があった。

現場の敷地には、ガソリン、軽油、重油等を保管する2000 KⅬのタンクが並んでいた。その建物敷地の入口前には、4m程の車道があり小型タンカーが寄り付いてタンクに石油を送油する設備となっていた。そのタンクから請負業者の人が専用のタンクローリーへポンプで各々の油を積んで、田老地区、宮古地区等釜石市内のガソリンスタンド、釜石製鉄所内や他、注文あった地区へ石油を輸送していた。その建物から100m位離れた所に釜石出張所の倉庫が建っており、ドラム缶や各種の石油の18Ⅼ缶或いは、20Ⅼ缶の丸缶そして各種ギヤーオイルの入った缶が置かれそれ等をトラックに積み込む作業があった。

現場には、1年年上の先輩が3人勤めていた。私ともう1人入社の予定であったが、なかなか出勤して来なかったので後で聞いた話でもう1人は、胃潰瘍と診断されて、入社が取り消しになったという事が分かった。友づきあいしていた相手なので、私のショックも大きかった。結局私は、3人の先輩の下で1人で入社するハメになったのである。

現場には、もう2人、釜石出張所には小さなタンカーを所有していた関係で専属で船長と機関士が一緒にいた。

釜石港の市場に全国から船着きする、特にイカの漁獲時の時期には漁船が集まり一定期間船着きし続ける。それ等の漁船に燃料(重油)の注文を受けて、小さなタンカーで補給する専属の社員であった。

たまにタンカーに乗せて貰い仕事を手伝った事もある。

沖に出た時、僅かな時間させられた事もあるが船のハンドルはグルグル回るので方向が把握しにくいので難しく思えた。勿論船を扱うのにはそれなりの免許証と実践が必要となるので、そうはうまくいく訳が無い。秋頃になると毎年、イカ釣り漁船が北より南まで、全国から釜石港に集まる。

夕方になると、ランランと電球の照明が船いっぱいに照らされて大漁旗を掲げて沖の方へ全船出港して行く。灯りを沢山つけているのは、イかは明るい所へ集まる習性があるのでイカ釣り船には沢山の電球が備え付けられているそうだ。そして、朝方捕獲したイカを卸しに市場へ帰って来る。釜石の市場は、漁船で溢れかえる。

その時期は私も朝方4時起きで暗い寒風の中を、50㏄バイクを走らせて出勤していた。市場へ帰ってきた漁船に重油の燃料を補給するのだ。その時期は、船長と機関士多忙だ。

油層所のタンクからタンカーへ補給する作業の繰り返しだ。

一度そのタンカーに乗って、作業した事があった。帰ってきたイカ釣り漁船に油を補給する作業で作業が終わった時に九州から来た漁船だったが毎年の事なので船長も顔馴染みなのだろう。

九州から来ている漁船の船で、朝ご飯を食べさせて貰った事がある。

新鮮なイカ、みそ汁、ご飯の米も炊き立てですごくうまかった。忘れられない味だった。

日常の作業は、各々のタンクから午前中一番でタンクローリーに、ポンプ室からの操作で補給する作業があった。

タンクローリーの運転手は、特に宮古等の遠距離へ運搬しに行く時には、帰るのが遅くならないように作業を急ぐ。私は運転手の合図のもとでポンプ室で、バルブを開いてポンプを起動して補給する。

この作業にも、トラブルはあった。特に、粘度の高いÇ重油等をタンクローリーへの補給時にポンプ停止の合図が遅れ、ローリーのマンホールから溢れさせてしまうトラブルだ。そのトラブルは、後始末が大変だった。タンクローリーの上から溢れた重油を拭きとる作業だ。タンクローリーのタンクは4つのタンクがある。

そんな、トラブルのあった時のローリーの運転手の機嫌は悪くなる。

拭きとるのにネバネバしているので時間がかかり出発が遅れて帰りが遅くなるからだ。

私も、一度そのミスをした事があった。

その後の日常の作業は、4トントラックの荷台に、ガソリン・オイル等の入ったドラム缶を積み込む作業だ。ドラム缶には、1本あたり200リッターの石油が入っておりかなり重い。1人ではトラックへ転がして持ち上げられない重さだ。

当時は、その積み込む作業方法として、枕木を2本トラックの荷台に並ぶ様に間を開けてせっとして、2人で1本、1本ドラム缶を横にし転がして2人で押し上げていき、荷台へ積み込む。もう1人は、荷台で積み込んだ横倒しの石油の入ったドラム缶を1人で垂直に立てる作業だ。私には横倒しのドラム缶を立てる動作がまだ出来なかった。先輩は、次から次へと立てていく。何かコツでもあるみたいだが、私にはそれがまだ出来なかった。

入社して何か月がしてやっと出来る様になったと思う。

釜石出張所だは、先輩3人と船の機関士、又たまに2階の事務所の営業事務員も含めて順番で宿泊勤務をする様になった時、職場を閉める前に1人でドラム缶を立てる練習をしていた。

その時、営業勤務から帰ってきた、神戸出身の事務員が帰ってきた。

私の練習している姿を見ているうちにひと言った。

「力じゃないよ、コツだよ」と言ってニヤニヤ笑いながら2階の事務所へ上がって行った。勿論その事務員もドラム缶を立てているのを見た事があった。

宿直と言えば私が宿直の時、現場を閉めて夜8時頃だったか、私はテレビを見ていたが入口のドアを何度も叩く音がした。

私がドアを開けるとイカ釣りで来ていた九州の漁船の乗組員が血相変えて来て「電話を貸してくれ」と来た。

慌てた様子で電話していたが、まともな九州弁で話しているので私にはなかなかよく聞き取れなかった。

後で分かった事だが、漁船の船長が酒を飲んで帰り自分の船へ渡し板を歩いていた時に海へ転落してしまったようである。

そのまま、浮かんで来ず水死したらしい。

勿論、警察のパトカーや救急車等物々しい騒ぎとなった。

その内に、死体が引き上げられたが私はそれを見てしまった。身体は水ぶくれで、顔も紫色に膨らんでいた。その時、宿直だったので見なければ良かったと思った。

静かな会社の周囲は波しぶきの音だけが響き眠れない宿直の晩を過ごした。

1年上の先輩は、3人共普通自動車の免許証を持っていなかった。

会社には、日産セドリックの長いバンである乗用車で座席には白いカバーがかけられ所長が出かける時にはよく営業の事務員が運転していた。

ある時、2階に事務員が留守の時に所長が下に降りて来て、私に釜石製鉄所迄乗せてくれないかと言って来た。

私は、車の運転にはさほど違和感は無かったが先輩をおいて私が指名されてきた事は何となく入社したばかりの立場だったので、妙な感慨を覚えた。しかし、所長の命令だから仕方ない。

その時に運転免許証を持ったいる人が居なかったから指名されただけの事である。

私は、作業着のままセドリックを運転して釜石製鉄所まで所長を乗せて車に戻るまで駐車して待ち会社へ帰って来た。後で聞いた話であるが先輩3人は、その時には既に自動車教習所へ通っていたらしい事を知った。

会社には、もう1台日産のピッグという小さな荷台を持った乗用車があった。勿論、私も運転した事が幾度かあった。

ある程度勤務日数が流れ私も大分仕事を覚えた来た時に、出勤すると急に今日は宮古方面の津軽石にある当社のガス充填施設へ仕事の手伝いに行ってくれないかと指示された。私は初めてなので営業の人と2人で会社のピッグを運転し宮古方面へ向かった。

津軽石迄は、約1時間半位かかったろうか。津軽石のガス充填所は、ガスボンベにガスを1本1本充填する作業の所であった。

田んぼばかりの周辺にポツンと事務所と充てん施設が建っている所であった。

そこには、盛岡出張所から泊りで単身勤務している主任と宮古から通って勤務している2年先輩とやはり2歳年上の事務の作業をしている女性と3人で営んでいる充填所だった。

勿論、事務所の奥には、宿泊用の施設も整っていた。私は、先輩は気さくな人で一緒に仲良く仕事をしていく事が出来た。

その日には、盛岡の主任の奥さんが体調を崩し病院に入院したので盛岡へ帰った為人手が不足し私にお呼びがかかったらしい。

ガス充填所へ宿泊勤務した時は、先輩と一緒に泊まり勤務した。

先輩の宮古の実家に1度泊まらせてくれた事もあった。楽しかった。

共に、事務所で働く女性は心優しいおっとりとした静かな女性事務員で、いつもニコニコ対応してくれた。怒った表情、気難しい表情は一切見せず本当にあまり見た事が無い良い姉さんタイプの女性であった。ただ話を聞くと女性は体が弱く、胸を患っていた女性であったという。普段は、その様には一切見えなかった。

私がこの会社を退職して2年後位に、その胸の病で若くしてこの世を去ったいうその話を聞いた時は、本当に悲しく思え残念に思えた。

そして、こういうう女性程長生きして欲しかった。

ある日、釜石出張所で昼休み来た時に船長が2階の事務所の女性を含め現場の全員を小型タンカーに乗せ沖に行って昼の弁当を食べる事に予定を立ててくれた。その日は、天気も良くすがすがしい陽気だったので、釜石湾の沖で楽しく昼食を取る事が出来た。

実は、私は、バスや船に酔うたちであった。特にバスでは一番後ろの座席に座るとバス酔いする程であった。排気ガスに酔うのか、バス内に乗った時からもう気分 が悪くなった。今はその様な事はないが揺れる船には弱い。しかし、タンカーに乗って仕事したり昼食したりした時は、一切その様な酔いは表れなかった。

自動車免許取得と社会人1年生としての働く姿を描いた内容

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