第3話 小学生の時代まで

第3話

岩手県釜石市は、岩手県南東部釜石湾に臨む重工業都市と指定されていた。

当時の人口は、約8万7千人(現在は4万弱)おり釜石線、山田線の起終点である。

釜石製鉄所と市西部の大橋に釜石鉱山がある、又港には、1万トンの岸壁があり入港船には製鉄所に関する船が多かった。

一方漁業も、三陸海岸を控え沿岸で第1の漁港であった。

製氷や缶詰め等、水産関係の各会社や水産試験所等もあった。

鉄鉱、銅鉱等の埋蔵量は2千万トン~3千万トンあったと言う。

明治6年、岩手県釜石鉱山に工部省直営で大島高任(たかとう)等が高炉2基を設けたのに始まり、我が国近代製鉄所の発祥の地とされた。

しかし、この高炉の操業は失敗に終わり、田中長兵衛が払い下げを受け苦心の結果、明治18年製鉄に成功、釜石鉱山、田中製鉄所が発足した。

第一次世界大戦後の不況により、三井資本に買収されて更に昭和8年に日鉄大合同にに参加し、第2次世界大戦後の日鉄分割で、25年以後富士製鉄所に属して、鉄鋼圧延一貫の同社主要製鉄所の一つとなった。

昭和30年代は、私が小学4年生頃迄か;各家庭にはテレビも無く、電話機も置いている家庭は殆ど無かった時代である。

当時、私が住んでいる社宅の近所には、親しくしていた新婚さんの家庭があった。

昔のNHKの「お笑い3人組」や「事件記者」等はどうしても見たくてしょうがなかった。

私の家では、まだテレビが買えなかった。その2つの番組の時には

新婚さんの家にお邪魔して見させて貰い、大いに笑い転げたものだ。

新婚さん夫婦も快く毎回見せてくれたので、今でも感謝している。

私の家でテレビを初めて買ったのは、私が小学校5年生になった時の頃だったろうか?

親も、よその家にテレビを毎回見に行っている事に、可哀そうに思ったのか?情けなく思ったのか、今考えてみれば親の意地があったのかもしれない。購入したテレビは、NECのテレビだった。

この様に、昭和30年代はテレビもなかなか買えなかった時代である。

社宅の近所の家では殆どそういう家庭が多かった。

だから、学校から帰っても家に閉じこもる事は殆ど夕飯頃まで無かった。そういう時代だったから外に出て近所の子達を集め、皆でどんな遊びをやるか決めて遊んだりした。

例えば、ゴムボールで「野球」したり、「陣取り」・「ドッジボール」

「石けり」・「めんこ」(田舎では当時パッタンと言っていた)・「缶蹴り」・「おはじき」(主に女の子の遊びだったが)・「スケッチ」(長方形の絵の描いてある厚紙でじゃんけん等でやり取りした)・「相撲」・「かくれんぼ」・「チャンバラ」・「ビー玉」・「サッカー」・「クギ差し」等ありとあらゆる遊びをこなした。「めんこ」や「スケッチ」「ビー玉」遊び等は、近所で競い合って遊ぶものだから、相手に勝てば自分の物になるので特に力が入ったものである。

「めんこ」、等は、段ボール一箱蓄えた事があった。

これ等の遊びには、私は殆ど強かったかも知れない。

強い所を見せられれば、近所ではガキ大将と認められる、そんな思惑もあったのかも知れない。

釜石には、製鉄所の関係でれっきとした硬式野球場の「小佐野球場」という野球場があった。

富士製鉄時代から都市対抗に出場する為の球場であったし、実際に都市対抗に出場していた。

ラグビー等は、全国的にも有名で、全国大会の優勝10連覇を成し遂げられた事は知られている。

釜石製鉄所の硬式野球部には、山田投手が阪急でプロ野球だった頃の活躍は知られる所である。

当時は、父が小佐野球場へ野球の試合を見に連れて行ってくれた時、変な投げ方をするピッチャーがいるという事で見たのが山田投手であった。

小川地区には、製鉄所の大きな体育館の建物があった。

思い出せば当時、歌手である「フランク永井」が来ると言うので見に行った事を覚えている。

釜石の冬は寒さが厳しかった。雪は降るが、積雪は30センチメートル積もれば大雪だった。

雪が積もった時の夜間の外は、本当に静寂で何かしら日常では味わえないもの静けさを感じる事が出来た。

冬になると、近くの田んぼに水を張ってくれるので、スケートで遊ぶ事が出来た。バンド付きのスケートを持っている家庭は当時なかなか多くは無かった。ましては、靴式のスケートは持っている者は殆ど居なかった。中には、下駄スケートというものがあり、表は下駄その物、ただし裏はスケートになっている。

ある日、私の玄関に、他の下駄と同じように並べてあった為、親戚のおばさんが帰る時に自分の下駄と間違えてはき、外に出たとたんに、スッテンコロリと転んでしまった事を覚えている。

笑ってしまう事よりも、怪我をしなかった事が何よりだったが、何事も無かったを知ってから大笑いした。

氷が張り詰めた田んぼでは、夜になっても照明で明るかったので、スケートで楽しんで遊ぶ事が出来た。人が集まると「アイスホッケー」等も出来た。おかげで寒さ等は感じず、むしろ汗だくとなって遊んだものである。

他に、社宅の棟間の道路には雪を積もって土俵を造り相撲をして競って遊んだ。

道路に土俵を造ってしまったので、車両が通れずあきらめて隣の棟間に替えて道路を通行していた。夜になると土俵も凍結する。

余程のトラブルが無い限り、そのままの土俵が据え置かれる。

でも、相撲を競っている時は、近所の大人も自然に集まり、賑やかな状況になった事を覚えている。

他に橋からの坂道に夜水を撒いて凍らせて、ソリや竹スキー等で遊んだりしたのだが、この道路は市道で車両の行き来する道路で通行妨害になる事をしてはいけない場所であった。

後から叱られて、その坂道に灰を撒いたり、土をかぶせたりして、滑り止めの作業をさせられた。テレビの無い時代に家の中で過ごすと言えば当時近くに漫画の貸本屋があり、よく借りて(有料)読んで過ごしたものである。借りた本である為指定された期間内に必ず返さないと追加料金が取られた。1~2回見過ごして貰った事がある。

ここでまた孫とじいじの話に戻る。

今やスマートホン、パソコン等でラインというものが発達して、孫と私は埼玉県と川崎にには慣れているが、ラインを使っていつでも孫の今の表情、行動の映像が確認出来るので離れていても常に身近に感じられる。昔ではありえない事である。

会話も映像を見ながら交わせるのでうれしい。

またその映像で孫の成長もうかがえる事に安堵感みたいなものがある。しかし、こうして2歳の孫と接触しているが、孫が大人になった時、この時の育児の状況が記憶に残っているかが多少不安になる事も事実である。私自身殆ど記憶が無いからだ!

私が小学3年生の時、釜石市小川町では、新たに小学校の新設工事

が完成した。

それまでは、小佐野小学校の仮校舎で通学していたが、生徒数が多かったのであろう。

新設した小学校へは歩いて20分位だったろうか、私が住んでいる社宅より更に小川地区の奥の方へ行った所へ新設された。

小学校のすぐ上の方には、豚殺場があり、時々豚の悲鳴みたいなものが聞こえてきた。当時の豚殺の方法はどんなものであったのか、私には分からなかったが。

勿論、体育館もあったが、冬になると薪ストーブだったので冬近くなると校舎の周りには、薪が山のように積まれていた。

授業の3時間目が終わるとその薪ストーブの上には、4時間目終了後の昼食用である各自の持参弁当が目いっぱい乗せられ温めるのに都合の良い利用方法もあった。

小学校より更に上って行くと、釜石製鉄所で利用された石灰山があり、時々ダイナマイトで石灰岩を破砕する音が聞こえて来る。

これは、家にいても時々聞こえて来たが当たり前の日常出来事でもあり特に気にならなかった。石灰岩は釜石製鉄所で、高炉の炉頂から投入される原料でもある。これが無いと高炉は成り立たない。

この石灰岩を運敗する為のダンプカーがこの小学校前、いや小川の川に沿った4m幅の道路を日常釜石製鉄所迄行き来していた。

又、小学校より車で30分位奥だったと思うが、やはり釜石製鉄所の保養施設として天然の小川温泉という施設があった。

山奥の施設で施設の周りは林に囲まれその中を澄んだ小川のせせらぎががあり、

心が落ち着ける保養にはもってこいの場所であった。製鉄所の家族であれば誰でも安く利用出来る施設であった。

これは親から話を聞いた事だが、私が小学1年生の頃にその小川温泉での遠足があった日に、4歳の弟も一緒に母と参加したが、その弟が川に溺れかけて母親が着のみ着のまま小川に飛び込んで助けたと言う話を聞いている。母は強しだ!。

私の母親は、父は酒も、タバコもやらない人であったが、キキョウというきざみタバコを長いキセルで吸っていた人であった。

そのキセルは、タバコを差し込む先端と口で吸いこむ部分が合金の鉄で出来ておりその間は長い竹の筒で出来ている物だった。

その、きざみタバコのキキョウを買いに行かされたものだった。

近くの知り合いのなじみの八百屋さんだったので子供の私が買いに行っても親の使いだと分かっているので普通に売ってくれていた。

母は歩く事は出来るがそれ程足が丈夫では無かったのでよく八百屋さんへの買い物は頼まれたのだ。

ただ、日頃悪い事をすると、そのキセルでよく叩かれた。

キセルの先端は鉄で出来ているので、叩かれると結構痛かった。

そのキセルを持って追いかけられる事もたまにあった。

駄菓子屋で買い物をしたくて10円を貰うのに母親にねだってもけっしてすぐには渡すような母親ではなかった。

泣いて、粘りに粘るがけっしてすぐには貰えなかった。

そして、諦めかけて、大人しくなった後でそっと黙って10円玉をくれる母親であった。

母親には、同じ近所の4地区に住んでいる姉の家族があった。

よくそのおばさんは、家にお茶飲みに来て世間話をしに来ていたのを覚えている。

そのおばさんが来ると、たまにこづかいをくれる事があるので、私には嬉しい日課でもあった。

おばさんの家族は、若い時に夫を戦争で亡くし、長男と4人の娘、90歳近いおばあちゃん、そしてトラ猫の家族構成である。

長女は、釜石製鉄所の社員として働き、一生独身で働き通し家族を支えてきたと聞いている。長男は、大学を卒業して建設会社に入社し、東京で結婚した為殆ど釜石にはいなかった。

小学生の頃は、たまにおばさん宅に遊びに行った。

夕食も食べた事があったがその時にたまに、赤玉ポートワインを、瓶の蓋位を飲んだりした。

私自身小学生ながらまんざらでもなかったがそうでなくとも、おばさんの所は娘が4人いてむしろ私は勧められた方かも知れないが、私は意外とひょうきんでやんちゃな性格と思われていたので、赤玉ポートワインを口にすると余計に明るくなり、娘4人を大いに笑わせたものだ。

おばさんの娘さん達3人とも、画家を目指して人生を歩んで行ったという。

おばさん宅で飼っていたトラ猫は、いつもどっかり伏せており大きい体型のどっしりした猫であった。

年もとっていたが、大人しい「タマ」という名前の猫であった。

やがておばさんの所からいつのまにか姿を消したという。

猫は、年になると死に場所を見つけにいなくなるという。

恐らく死期が近い事を知り、静かに姿を消したのではないかと、おばさんは言っていた。

話は、小学生に戻る。

小学3年生の頃か、同級生が小川小学校の更に奥から通学している子もいた。

その同級生とある時、小川温泉の方へ自転車で2人乗りしながら「トチ」という栗の形に似た物を採りに行こうという事になった。

勿論私が自転車を運転し、後ろの座席に同級生を乗せて行ったその帰り道で又同級生を後部座席に乗せて坂道を下る時にブレーキが効かなかった。

その下る道の一方の脇は、山の林、片一方は崖っプチであり、道幅は4m位であった。

スピードは増すばかり、石灰岩を運搬しているトラックがいつ正面から走って来るか分からない。

ハンドルを間違えれば、崖から転落する。後ろに乗っている同級生は私に抱き着いて、「どうする、どうする」と騒ぎまくる。私もどうしたら良いか分からずこのまま事故死かなと思った。その時に考え付いたのが、もう一瞬故意に転ぶしかないと判断した。

そして、右側の肥溜めがある、一寸膨らんだ場所におもいっきり、横滑りに故意に転びかけた。

その打撃はすごいものがあった。顔はすりむき、どうも口をおもいっきり地面に叩きつけたらしく、前歯2本その時に折ってしまった。

胸も強く打ったみたいで、しばらく息がつけない状態が続いた。

かれで終わりかと思った。

後ろの同級生は、わたしにしがみついていたにでクッションになっていたのだろうか、手足をすりむいただけで軽症で済んだ。

私に、「大丈夫か?・大丈夫か?」としきりに声をかけていた。

やがて少しずつ息が出来る様に落ち着いてきた。

勿論前歯が2本折れたので、口のまわりは血だらけである。

それでも2人は何とか立ち上がり、その場をゆっくり自転車を引きながら帰って行った。もしも正面からトラックが来ていたら間違いなく正面衝突して命は無かったろう。運もあった。

又、肥溜めの中へ突っ込まなかったのも運が良かった。

何とか、命拾いした一面であった。

特に病院にも行く事は無かったが、前歯を2本折ってしまったので、その治療はする事になった。同僚も特に大怪我も無く終わった。

私の社宅の棟の並び敷地近くに、釜石製鉄所に関係する酸素工場の敷地があった。その人達の社宅の敷地がまた近くにあった。敷地内の端にまとまった社宅の建物があり敷地のまわりは、木造のへいで囲まれていた。

広場みたいな敷地も社宅の間にあり、私達はその広場でよく遊ぶ事が出来た。出入りは、自由に出入り出来る囲いだけの門だった。

その敷地の一角に酸素会社の所長宅が別に建っていた。

社長宅の家のまわりには、又更に木造のへいに囲まれその出入口はロックされる構造となっていた。野球等で遊んでいると、ボール(やわらかい物)がへいの敷地に入ってしまい、ピンポン鳴らして出して貰う事もあったが何度もとなるとさすがに怒られる事もあった。

小学3年生の時にその所長が代わり。東京から新しい所長の家族が入れ替わり転入してきた。5人家族であった。

長女、長男、次男と居たがその次男が私と同級であり、私のクラスに転校して来た。

私は家も近い事から仲良くなったが、その転校生は都会で育った割には余り勉強に励むようなタイプには見えなかった。

とても活発で、元気で外を飛びまわって遊ぶような行動なので、私とは気が合っていた。

都会と言えば私が中学生の頃、おばさんの長男が東京の新宿に世帯を持っていた事から母と一緒にその家に泊まりに行った事を覚えている。

たまたま、釜石に住んでいる長女の方がやはり新宿に来ていたので、その長女の方が私をニューオオタニホテルの回転展望台へ軽食しに連れて行ってくれた。

最上階のニューオオタニホテル展望台は、わかるかわからないくらいにゆっくり回転する食事所でもあった。

長女の方は、長男の所へよく行き来していたので東京には明るかった。この展望台は周囲がすべてガラスで覆われている事から食事を楽しみながら夜の夜景を楽しむ事が出来る、初めての体験であり、又その都会の夜景は素晴らしく思えた。

その都会の同級生とは、よく相撲を取って遊んだ。

負けず嫌いの性格で、相撲でも真剣に取り組んで来た。

たまに所長宅の庭は広いので相撲を取って遊んだが、その時には同級生の母親、兄妹が見物していた事もあった。何度か取り組みしたが、同級生の見物している家族は笑いながら楽しんでいた。

相撲が終わると、ケーキとコーヒーを飲ましてくれたりもしたので、それも私にとって楽しみでもあった。

やがて同級生は、中学進学と同時に、また東京へ引っ越して行ってしまった。その後何度か手紙のやり取りをしたが、今はどうなっているのか分からない。


     第3話は、ここまで。

釜石の紹介と、小学生までの出来事紹介

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