第2話 孫の手に見とれて想う幼き日の話

祭りの当日は、釜石駅~町内の中心部に出店が並びみこし等賑やかにすごせる日でもあった。今こそ約4万弱の人口だが、祭りの私は、昭和24年、岩手県釜石市小川町で産声を上げた。この年65歳である。

2歳~3歳児の事は、恐らく親からも言い伝えがあったと思うが、それすら殆ど覚えていない。

覚えている、いや記憶に出てくるのは、小学低学年の頃からところどころである。

昭和30年代、岩手県釜石市は、富士製鉄所が最盛期の頃だったと思う。

人口は約8万人以上町にも映画館が3~4箇所あったと思う。

製鉄所の他に港町であり海産物の市場も盛んであった。

人口の殆どは、製鉄所に勤める人であふれていた。

私の暮らした小川町は、釜石駅から更にバスで奥の方へ15分位走った所にあった。途中から道が分かれて、踏切を渡り小川町が終点となっていた所である。この度の3.11の津波は、幸いにも殆ど影響が無かった所である。

小川町は殆どが、製鉄所に勤めている家族でひきめしあっていた。

社宅は、木造建築で2階建てで、屋根は瓦ぶき、トイレは、落としトイレである。

1階は、6条の畳部屋と1~2畳の程の台所、階段があって、2階はやはり6畳の和室のみで1階の玄関は木造のガラス張り引き戸、そして障子の引き戸があった。

その1世帯が4軒つながり1棟の建物が4棟縦列しており、それが4mの道幅道路を挟み横列している社宅であった。

冬等は隙間風が入り部屋の天井裏にはネズミが走りまわる音も聞こえ、天井の隙間からネズミの黒い糞が落ちて来る事もたびたびあった。勿論、製鉄所の計らいで年1度か2度の一斉消毒作業は、全宅定期的に実施されていた。

1軒1軒家の中に入り粉末の消毒作業が行われる為その下準備は各々の家では大変な作業になった。消毒作業が終わってからは、一定時間いや家の中に消毒した粉末が無くなるまで家には入れずその間は外で時間を費やしたものだった。

しかし釜石には、色々な行事もあった。

秋になると、尾崎神社のお祭りが2日間催された。

朝早くその日には、天高くかんしゃく玉が音を響かせ、その音にめが覚めて、幼いながらに心が躍ったことを覚えている。

当時は賑やかであった。

当時釜石には大橋鉱山もあり、又そこで働いている人達の町から

あるいは、遠野・宮古・大槌等からも集まって来たであろう本当に心豊かになる日でもあった。

夏になるとお盆、縦列した社宅の社宅の玄関前では、どの家でも夜になると、迎え火・送り火で一斉に小さな焚き木を各家の玄関前の外で燃やしている所が縦列に並び、おだやかな気持ちにさえなれたのである。

私の家では、お盆の時には家の中に盆棚をかざる。母親は、毎年それを実行する人だった。

盆棚には、果物・線香・花等を飾り、毎朝母親は、前のお膳のごはん、みそ汁等を盆中は替えて置き、線香をあげて毎日欠かさずお祈りをしていた。

実は私には、姉がいるはずであったが、小さい時にはしかで亡くしてしまったようで母は毎年その償いを欠かさなかった人であった。

その事も分からず小学生の頃、盆棚にあげたられていた果物のうち

紫のブドウを片側半分もぎ取り、見て判らないように裏返しにして置いて食べてしまった事を覚えている。罰当たりとバレた時には、散々怒られたのだが。

小川の社宅近くには、川がありそれ程大きな川ではないが浅瀬でゆるやかに流れて釜石湾へと繋がっていた。

浅瀬なので、夏は泳いで遊ぶ事が出来ないない為一時、川の近所の社宅の人達が総出で夏になると集まり、小川をせき止め、川に入って大勢の人がスコップで石や砂利石をすくいあげ一部せき止めて小さなプールを造り上げていた。我々も少なからず手伝いをした。

川の流れをせき止めて出来たプールが完成すると暑い日は毎日大人から幼児に至る迄水遊びに来る人が絶えなかった。

しかし、小川の上流の方には田んぼの一角に豚殺場があった為市ではその小川の水質検査を行うようになった。大腸菌の数である。

その大腸菌の数が多い結果が出ると、その小川のプールでの遊泳は禁止されたのである。

その時から、今日は大丈夫か、明日は大丈夫かと常々心配していたのを覚えている。

小川町の社宅には各、ので家の中にはお風呂が設置されていなかったので地域ごとに共同風呂の建物が設けられていた。いわゆるセントである。私達も社宅の人達もそのお風呂に洗面器、タオルを持って  通った。冬等には外へ出ると帰りに温まった体が冷める事もあったが、お風呂に入ると気持ち良かった。

各地区ごとにあったので、通うのには近い距離だった。

お風呂の入り口は、男風呂、女風呂と入り口が並んでおり、入浴の際の入浴券は製鉄所の給料日に無料で家族の1か月分配布された。

お風呂を管理する人は、その建物で家族と住み込んでいた。

燃料は、石炭系の豆炭を使用し製鉄所から定期的に搬入されていた。

それを「かまど」にスコップで搬入して共同風呂を沸かしていたのである。

一度だけ共同風呂のある裏道を歩いている時に、そこで働いているおじさんに会いその時に窯風呂焚きの様子を見せてくれたのを覚えている。その作業は、おじさんが1人で賄っていた。

奥さんやその家のおばあちゃんは、共同風呂の入口で座って入浴券の切符取りをしていた。

夕方4時頃明け、夜8時30分に閉める共同風呂だったが、そこには当然赤ちゃんも等も入浴しに来る。

4時からの入浴時間帯に、浴槽の中でたまたま赤ちゃんや乳幼児等が、ウンチをしてしまうとその時点で男女別のお風呂は閉鎖されてしまった。私も何度かそれで入浴を逃した経験があったが、それ以来なるべく早い時間帯に入浴するよう心掛けた。  

そう言えば、共同風呂に兄と兄の友達と3人で行った時に、着替え場所で中学低学年の不良っぽい2人が居たが兄達はそれよりも1~2学年下だったと思う。

私もまだ小学1年生かその頃だったと思うが着替え場所で兄と友達が何か不良っぽい2人の行動を笑ったらしい。

それを見た2人は兄達に腹を立て兄達を外の近くにある田んぼの方へ連れて行った。

それを見た私は、急いで家に走り玄関の扉を開けて「ホイジョ」

「ホイジョ」(包丁の事)と家に駆け込んだらしい。

驚いた親は、何で「ホイジョ」なのか、あっけにとられたらしい。

そして、「悪い奴らに、兄ちゃんと2人が連れて行かれた」と大声で親に告げたみたいだ。その時普段おとなしい父親が、場所はどこかと私と一緒にその場所へ行ったらどうも1,2発殴られた後みたいだった。父親はその場所へ近づいて何やらその不良と話し合いをしていた。やがて兄と2人は、家に連れて行かれ戻った。

いつも大人しい父親の勇敢さをかいま見えた出来事であった。

私の父親は、やはり製鉄所の現場で働く従業員であつた。

毎日、欠勤も無く、仕事から帰ると通勤で通っていた自分の自転車を磨いて綺麗にする事が日課だった。

酒も、タバコもやらず何事も無く会社へ通勤する人であった。

しかし、その父親にも一生涯貫いた父なりの趣味があった。

母から聞いたが、父親は若い時から民謡に没頭した人だったと言う。仕事より民謡という父親だったらしい。

確かに家には、民謡のレコードが沢山あったのを覚えている。

父は亡くなるまで、小川地区民謡会の会長をやっており、又その民謡会の先生という立場でもあった。

仕事よりも民謡、その人生の意気込みは父の姿を見てきた私には分かるような気がした。

そんな大人しい父親が、ある大晦日の晩だった

母親は正月の大晦日には決まって定番の料理を振舞う人であった。

正月元旦には、一人ひとりお膳を並べそれも又きちっと実行した人だった。

その大晦日の晩、お膳の料理が並べられ、いざと言う時に私もよく覚えていないが、小学5年生の頃に、田舎の言葉で言えば何かに「むんつける」(へそを曲げる事)て外へ飛び出したらしい。

なかなか帰って来ないので兄が捜しまわりやっと見つけやっと見つけて家に帰るなり、父親に首をつかまれて放り投げられ、蹴るは殴られるは、しばらく続いた。

私は泣いていたと思うが、兄に言わせるとあの父親の怒りはそうとうなものだったと言う。

父親にしてみると、年1回の正月家族皆で祝うこの大事な宴席で1人のわがままな行動でつぶされた事が余程悔しかったのではないかと思う。

私は後で自分が悪かったことをつくづく痛感し反省したのである。

それ以来この様な行動は一切取らなくなった。

私の住んでいた小川町の社宅は、4軒1棟の最初の端の位置の家だった。

家の台所側の向えにはまた同じ様な台所と向え合わせになっている他の家があり、その裏通りの棟と棟の間には、1~2m程の道路があり、又棟と棟の間には各々3mの道路幅で仕切られていた。

台所側の向え側の他の棟の玄関前には、10m程の道路があり、その他の棟の向え側には八百屋の店が間を置いて2軒並んでいた

勿論その店とは顔なじみとなっていた。

今では、私の実家も兄の家族が千葉へ転勤になって実家は無い。

但し親のお墓は、釜石・石応寺のお寺に安置されている。

3・11の地震の後一度帰りお墓参りしてきたが、草が生え渡り1~2時間かけて掃除した。お墓には地震の影響は大きくなかったが、私の家のお墓は少しズレていたのでまっすぐに直した。

私達の1地区である社宅のすぐ奥の方には田畑が広がっている地域でもあった。

小学生高学年になると、自分達でも小遣いを稼ごうとする風潮があった。例えば、豆腐や納豆、油揚げ、ちくわ、コンニャク等を、手さげの取っ手付きで細長い蓋付きの木箱の入れ物に入れて社宅の裏通りをまわって売り歩いた経験もした。

社宅の台所側の通路を、「豆腐・納豆・油げ・コンニャク」よござんすか!(入りませんか?)と大声で朝早くから売り歩いたのを覚えている。しかし、いつも全部売り切れるわけでもない。

売れ残った物は、親戚の近くのおばさんの4地区に住んでいたので売れ残った物全部買って貰った事を覚えている。

全部売り切れる事は、そうは無かった。そのたびに、おばさんの所へ行って処理して貰った。でも、そう長くやっていた訳ではない。

又、釜石は港町であった事から、近くに製材所があった事で魚を納める木箱、これを釘を打って仕上げるアルバイトみたいな仕事があった。勿論、親の許可を得ての事だが一個仕上げてげて何円の仕事

材料を家の裏側へ少量だが運搬し釘を打ちながら台所側の外で仕上げる作業、数多くつくれば金になるが、そんなに多くつくるのはなかなか難しい作業でもあった。作った個数の割には、入るお金は少なかった。それもそんなに長くはなかった。

もう1つ当時は、リヤカーを自転車で引き歩いて、「金物類」を買い取る個人の業者がいた。

たまに、社宅間の道路を引き歩いて通う。

その業者来るまで、ありとあらゆる小物の金物類、クギ・針金等鉄の物であれば何でもよかった。

特に、アカと呼ばれる針金は高く取ってくれるのだが、なかなか見つかるものでは無かった。

集めた物を渡すと、おもりの付いた秤で計測し、それに見合った現金をくれた。

だがそんな大きな金額になるものでは無い。売ったお金はどうしたか?それは、近くの川の橋を渡った所に駄菓子屋が2軒あった所で

お菓子や、色々と駄菓子を買って、腹を満たしたり、遊び道具等を買って小遣いの足しにしたものである。昭和30年代、釜石製鉄所の給料は現金で支給されていた。

給料日になると、近所中のお母さん達の顔は、朗らかで明るい雰囲気であった事を覚えている。

製鉄所の景気が良いと言え、その現場で働く人々は、仕事は相当にきつい物だったと聞いている。

三交代勤務、連続操業の工場が多くあり、又その中で発生する災害等もよく耳にした。

例えば構内の貨物車両の先乗り、旗をもって車両の先端に乗り、そのまま止まる迄乗り続けて走行中に飛び降りるその作業等が死亡など重大災害に繋がっていたと聞いている。

仕事がきつくなれば、当時災害発生等も多分高かったのではないだろうか。

仕事がきつかったせいか、仕事の終わりには酒に溺れた人も多かったと聞いている。

ある夕方、その日は給料日の次の日であったが、私がたまたま家にいた時、近所のおばさんが涙を流してお願い事をしていた所を見た。家の中が狭いのですぐ目につく。

「昨夜の給料日に、貰ったばかりの現金の給料を帰りに飲み屋で殆ど使い込んでしまい、来月の給料までどうやって生活したら良いか」と泣きついて来たみたいだった。

子供も3人いる、40代の女性か?この次の給料日迄お金を貸して欲しいとの、頼み事であった。母は何とか近所に相談にまわり何とか生活費を渡す事が出来たみたいだが、今こそ会社の給料は、銀行等に振り込まれるようになったが、当時の現金性では様々な人間模様があったみたいである。

こんな事もあった。

ある晩に親は2人共外へ出ていて、私と弟が留守番していた時であった。

私は小学4年生位、弟は4歳下でまだ小さい頃だった。

急に玄関の扉の引き戸をガラガラ開けて(当時は、玄関のカギはかけないことが多かった)酒に酔った50歳位の男が、フラフラと入って来た。

何かぶつぶつと一人言を言いながら障子の引き戸を開けて入って来ようとしたので、私と弟は怖くなって急いで2階へ駆け上がって行った。

その男は、一人でブツブツ喋りながら家の中へそれ以上は入らずやがて帰って行った。私と弟は、安堵して下へ降りて急いで玄関の引き戸に鍵をかけた。

その事は、父母共に帰宅した時に話をした。

翌日、玄関の横に自転車等を置く小さな小屋が連なっているが、その腰掛の所に紫色の風呂敷に包まれている物が置いてあった。

母にそれを持って行き、母が風呂敷包みを開けたら、現金30万円が入っていた。当時の金額では大金である。

母も驚いたが、もしかして昨日のよ酔っ払いかもと言う事で一晩様子を見る事にした。

すると、夜7時頃であったか、家に訪ねてきた男性がいた。

真っ蒼な顔をしていたが、「昨日、此処へ来て紫色の風呂敷包みを置いてなかったか?」訪ねて来た。

昨夜は、あれ程酒に酔っていても、何とか私の家を記憶の中でたどり着いたのであろうか?

母は、ゆっくり昨夜の状況を話した後、その紫色の風呂敷包みを男性に渡した。男性は、やはり近所に住んでいるっ製鉄所に勤めている人であった。

昨日、急きょ必要なお金があり、会社から借りて来たお金らしい。

男性は、涙ぐんで何度も頭を下げて帰って行った。

ここで3歳の孫である。

孫は、「あんぱんマン」「トーマスの機関車」「いないいあないバー」等のテレビ番組が好きである。

娘の所に1泊して朝起きていると、孫が起きてきて差し出すのは、テレビのコントローラである。

娘の家では、孫の為にこれ等を録画している。

孫は私にアンパンマンと言ってコントローラを持ってきて差し出して来る。

アンパンマンの録画を私に映してくれとの事である。

それを映すと、孫はテレビの前でじっと見つめている。

時々、テレビの映画の前で見ている時があるので、孫の目が心配になって来る。

私は思った。娘も家で忙しい時が、こうしてテレビの録画を映して孫に家事を邪魔されない様に利用しているのかなと。

とにかく孫は、アンパンマンが好きである。

ここで、釜石市について紹介して行こう。


続・第3話へ

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