焦り
あたり一面が急に暗くなってきた。
ただでさえ進む速度が遅いのに、これでは這って進んだ時と変わらない。
焦りが徐々に正常な判断力を奪ってゆく。
「…くそ、まずいな」
ついつい悪態をつきつつ、歩を進める。
途中、河口があったのを思い出しそこに向かって、今はそこに沿って進んでいる。
故に水分は大丈夫だ。
問題は、食べ物だ。
水では一時凌ぎにしかならず、腹の音がより強く鳴り、早く食べろと急いている。
空腹を紛らすように、荒く息を吐く。
「…ふぅ…ふぅ。…うおっ!?」
焦って急ぐあまり石に足を引っ掛けて、転んでしまう。
その拍子に、小石にひっかけ上腕が擦りむける。
擦りむいたところから血が流れ、ジクジクと痛む腕に顔を盛大にしかめる。
「くっそ!…とりあえず水で洗いながら、進めばいいか…血を止める方法なんて、わからんぞ」
水で腕を洗い流すも、止血してないので再度流れ始める。
やむ得ず、そのまま進むことにする。
しばらく歩き続けて、時々血を洗い流しながら進むも、腕の痛み、体の疲れとこれまで積み重ねた苦痛が、歩くのを躊躇わせる。
ついには、足を止めてしまう。
よろよろと近くの木の幹まで歩き、ぐったりと寄りかかる。
目線が自然と空へと向かい、夜空を映す。
暗闇が辺りを染め上げ、また見知らぬ世界を映し出す。
その暗闇が、疲労を増すようにアデムの心身にのしかかる。
「…星が綺麗だな」
現実を逃避するように、暗闇に輝く星々を見てぼんやりと漏らす。
なんでこんなことになっているんだろう。
当然、わからない。
わからないものは、考える余地がない。何かを忘れてるそんな気がしてならない。
そんな、かきむしりたくなるようなもやもやが、胸中を這い回るように疼く。
疲れがある閾値を超えたからか、食欲より睡眠欲が勝り始め、まぶたが急に重くなってくる。
意識が後、もう少しで落ちる。
今は回復が優先だ。
生き残るために、少しでも頭を働かせるために。
そう言い聞かせる。
だが、そんな僅かな安寧も許してはくれなかった。
「ギャオオオオオオオン!!」
耳をつんざく咆哮が、木霊する。
その声に、ビクッと背を揺らしながら飛び起きる。
「な、なんだ!?今の音は…」
辺りを見渡す。暗くて見えないので、どこから響いてきた音なのか、判断できない。
そもそも、音なのか声なのかも見分けがつかない。
数秒後、メキメキという音が対岸から鳴り響き、同時に地も揺れる。
しばらくして、対岸の木が薙ぎ倒されるのを見て、音の正体は姿を現す。
「ギャオオオオオオ!!」
そいつは口を大きく開け、雄叫びを上げる。
立派な牙に、四足歩行で、体長は4メートル余り。高さは、3メートル弱。
眼光が鋭く、牙の隙間からダラダラと唾液を流してる。
赤く光る目をこちらに睨みつけ、右前足裏を地面に、前へ後ろへと擦りながら今にもこちらに向かってきそうである。
「なんだ…あれ?こっちに突っ込むのか?」
まさに命の危機である。
だがアデムは、相手がどういう習性かわからないため、相手が仕掛けてくることすら知識が欠如していた。
ただ一つ。この背中を走るひりつくような寒さから、逃げた方が良いのだけはわかる。
逃げる。
蓄積した疲労を無理やり押し込め、上流に向けて走り始める。
先程まで歩くのに精一杯だったのに。こんなに早く走れることに少々驚く。
同時に、牙の怪物も突進してくる。
河の流れに半ば逆らうように進んでいるためか、なかなか到達しない。
逃げ切れる淡い希望が芽生えつつ、懸命に手をふって、足を動かす。
疲労が消えたわけではない。足取りは重たくなってゆく。
動かなければ自分の身に何か起こることは、間違いない。
「はあ…はあ…。今、相手は半分渡ったか?
どうにかして、安全なところを、見つけなくちゃな」
後ろをチラ見する。まだ猶予はありそうだ。
肺に送られる空気に喉が痛みを覚えながら、酸素がまわってない頭で懸命に速く走れるルートを叩き出す。
足の痛みが、高まりすぎて感覚がなくなってきた。
ぼんやりとだが、河が二手に分かれている。
一方は、横幅が30メートルくらい、もう一方は、5メートルないかくらいだ。
咄嗟に横幅が短い河に舵を切り、北東方向へと突き進んでゆく。
地鳴りが大きくなってるきてる気がしないでもない。
後ろをチラッと見る。
後方から木々を薙ぎ倒し、地を砕き、河を渡っていた倍の速度で沿岸付近を進み始めている。
「もう渡ったのか…。急がないと…!!」
追いつかれる…!
血の気が引く感覚と共に、さっきより懸命全身を動かしてゆく。手足がもげそうだ。気を抜いたら転んでしまう。
「ゴアアアアアアアア!!!」
先程よりも獰猛な雄叫びが鮮明に耳を打ち、じわじわと距離が詰められてゆくのを感じる。
絶対に仕留めんとする眼光が、アデムの背中に恐怖と焦りを増長させる。
「やばいやばいやばい…!どっか、何か、ないか!?」
恐怖のあまり、目尻に涙を浮かべ必死に周りに使えるものがないか探す。
「ゴアアア!!ゴルァアアアアア!!!」
息遣いが、鮮明に聞き取れてきた。あと少しで追いつかれる。
体が恐怖で固まってしまいそうだ。
だが生き残りたい一心で、限界をさらに超えるように、手足を動かしまくる。
「はあ!…はあ!…はあ!……っ!?」
視線が吸い込まれるように一点を見る。橋のようになっている幅が50センチくらいの倒木だ。
もう、あれしかない。
縋るような勢いで一直線に突き進んでゆく。
「グルアア!!ゴフルアァァァアアア!!!」
十…八…五メートルと迫ってくる。もう目と鼻の先だ。
「お…りゃあああ!!…っ!!」
恐怖を押し流す裂帛の声と共に、倒木の橋を半分以上渡り切り、後もう少しのところで倒木に衝撃が走り、体が宙に浮く。
倒木に必死にしがみつき、首を限界まで捻り、衝撃の原因を見る。
渡ってこようとした牙の怪物が——流石に幅が狭いから渡れないのか——沿岸で倒木の端っこに足を食い込ませたまま、踏み止まっている。
さっきの衝撃も落とそうとして放ったのだろう。
そこから、何回も倒木に足を叩きつけて落とそうとする。
響く轟音、天地がひっくり返るような感覚に、ぎゅっと倒木にしがみつき目を瞑る。
「ぐぅうううううううう…!!………止んだ?」
耐えに耐えて、耐えて…耐えて。
永遠かのような衝撃が終わった。
と思い目を開けると、大きな口を開き、ぬらっと光った牙が視界を覆う。
「ゴアアアアアアアア!!!」
「うわあああぁぁぁぁ!!」
雄叫びと悲鳴が重なる。
逃げられない。そう悟って、なけなしの身を守る様に固く、目を瞑る。
「おわぁぁぁぁ!!」
「ゴア!?…ぐるぁぁぁぁぁ…ぁぁぁ…」
状況は呆気なく終わる。
怪物の前足が倒木に着いた瞬間、そこからひび割れてなすすべなく川に入水。そのまま転がるように流されて行った。
対岸側に陣取っていたのが幸いしたのか。流されずに、沿岸付近に打ち上げられていた。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
まだ思考が追いつかない中、呆然と怪物が流されていった方をしばらく見続ける。
「……っはああああ。怖かったわ本当に…」
何もないとわかると大の字に寝そべって、荒い呼吸を繰り返す。、
緊張の糸が解れ、どっと疲れが押し寄せる。
生き残れた。
安心しきって、足が石みたいに重くのしかかり、急速に眠気が襲ってくる。
(あ、まずい…ココで寝たらまた何かに襲われる…!でも抗えない。…もう、むり、だ……)
意識を戻そうと、必死に眠気を振り払おうとすが酷使しすぎた体は、休息を訴えて次第に意識が遠のいていくのであった。
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