目覚め

 さざなみが聞こえる。


 酷い頭痛の中、ゆっくりと目を見開く。

 何か見ていたような気がするが、何も思い出せない。

 

 サラサラとした感覚が体の前面に伝わり、足先が濡れているのがぼんやりとわかる。


 どうやら、うつ伏せに倒れているようだ。

 次第に意識が鮮明になり、耳や肌から様々な情報が入ってくる。

 視界の右半分が砂に埋め尽くされて、左半分しか景色を伺えない。

 大きな河口が視界の下に、そのすぐ上には森林が広がってることしか、今はわからない。


 手を使い、体を起こそうとするが、腕が石のように凝り固まっていて動かない。

 ならと、首を動かそうとするがビキッと割れるような音が体内から鳴り、激痛が襲う。

 

「……ゔあ゛……あ゛あ゛」


 あまりの痛さに声が漏れる。

 ガサついた声にも内心驚愕しつつも、ビキビキとなる首に歯を食いしばって、今動かせる範囲で、辺りを見回す。

 自分の周りが少し陥没した砂地と、どこまでも続いているだろう海岸。

 少し奥に行くと、草が生い茂りやがて木が鬱蒼と生えた森林へと続いてゆく。

 その奥は暗くて見えない。

 殺風景。そう思った。


 それよりも、重要なのはそこではない。

 記憶にない土地だ。なんでここにいる?どうしてこうなった?

 そもそも、俺は何しにここへ?

 …覚えてない。

 というか、……俺は誰だ?


「な、まえ?………そう、だ。名前は、覚えている」


 思い出すようにボソボソと呟く。

 アデム・モナーク。

 それが自分の名前だ。だが、それ以外は何も覚えていない。

 まるで、目覚めるまでの記憶が抜け落ちているかのように、何も、覚えていない。


 自分のことなのに、なんでわからないのか。

 心が空虚に埋め尽くされる。


 だが、このままでいるわけにはいかない。

 足先から伝わる冷たい感覚が、生命の危機をじわじわと知らせるような気がするのだ。


 とにかく、動かないといけない。


 石のように固くて動かないのはわかってるが、無理にでも動かさないと手段がない。

 ふうっと細く、震えるように息を吐き、歯を食いしばって上半身に力を込める。


「ゔぉああ…あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」


 体が砕け散るのではないかと思うほどの激痛。

 指先の一点から筋肉、骨、細胞、血液のひとつひとつが、悲鳴を上げるかの如くアデムの行動に抗ってくる。

 少しずつ、盛大に震えながらも右手を前に突き出し、五指を砂に食いこませる。

 腕に力を込めて、体を前進させようとするが、力を入れたそばから力が抜けていき、思うように動かせない。


「こ…のぉ!!動けぇ!!」


 言うことを聞かない体に向けて、怒りを迸らせつつ、ズリ…ズリと着実に砂に体を引きずりながら前へと進んでゆく。


 息も絶え絶えになりながら、数十分かけて草むらが茂るところまで到達し、ひとまず休憩と思い脱力する。

 体中砂まみれ。腕と足はズキズキと痛む。


 やはり力が思うように入らない。入れたそばから、反抗されるかのような痛みを返される。

 理不尽な痛みに、歯を剥き出しにしながら声にならない怒りが満ちる。


 這うのでさえこの始末、立ち上がるのはもっての他だ。


「やっぱり、這って…進むしかない」


 怒りがこもった声を腹の奥から込み上げつつ、さらに進む。

 指先の皮が少しづつ剥がれてさらに痛みが増してもなお、進むのを止めない。


 止まりたい。ここで動けるようになるまで楽にしたい。

 そういう思いとは裏腹に、何か急きたてられるように、あと何故かはわからない悔しさがアデムを動かす。


 若干、足が動き始める。膝を立て腕は上体を完全には支えられず、前腕が地面にべったり付いた四足歩行になり、速度が少し上がる。

 草むらを越え森林地帯の手前の木まで、とうとう着いた。


 達成感を携え、木の幹に全体重を預けるように寄りかかる。

 

「…はぁ……はぁ、……この先は、流石に立てないと、厳しいか」


 チラッと森の奥に視線を向けて、顔を若干歪める。

 盛り上がった木の根や、大小様々な岩が転がり進むには歩くしかないからだ。


「……もう、痛いのは分かってるんだ。なるようになれ」


 自分に言い聞かせるように、鼓舞しつつ足に力を込める。


「おぉぉあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」


 獣のような雄叫びを上げ、痛みを紛らわす。

 ビキバキと、より一層強く体内で鳴り響くのを、耳にしながらも震える足に力を込め続ける。


 途中、足が何度も何度も崩れながら地面に転び、懸命に立ち上がろうとする。

 思うように立ち上がらない足に、若干心が折れそうなるが、試みはやめなかった。


 辺りが少し赤みを帯びた光景に変わった頃、足を小刻みに震わせながら直立していた。


「……立てたな」


 己の頑張りに少々感心しながら、顔を上げる。

 森は先ほどよりも暗くなっていて先の様子は伺えない。

 波が打っている方へ体の向きを変えると、そこは伏していた時とは違った光景が広がっていた。


「…綺麗だ」


 緩やかな円弧を描いた水平線に触れそうな夕日、その光を受けて海がキラキラと輝いている。

 砂地も滑らかな凹凸が生む影が美しさを助長してる。

 さっきまで殺風景と思っていたのに、今まで抱いていた黒い感情が嘘のように霧散し、感嘆の吐息を漏らす。


 目覚めてから初めて柔らかな笑みを浮かべ、輝く海面を眺めていた。


「おっと、こうしてる場合じゃないな」


 思い出したようにひとりごとを呟くと、緩慢な動きで向きを変え、森の奥を凝視する。

 いつまでも眺めていたかったが、このままでは野垂れ死ぬ可能性は高い。

 どうにかして、生きる手立てを見つけなくてはならない。

 しかし、どんな事が待ち受けてるか何もわからない。取れる手段も限りなく無いに等しい。

 そんな胸の奥に不安がじわじわと込み上げる中、一歩ずつ森の奥へと震える足を踏み出す。

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