6-2

 穴は、あの殺風景な入り口からは想像できないくらいかなり地下深くまで続いていた。やっとのことで下まで辿り着いた時、そこから仰ぎ見る夜空は天に浮かぶ満月ほどの小ささにまで狭められてしまっていた。そうして辿り着いたそこはドーム上のちょっとした広場になっていた。隧道が広場を起点に放射状に何本も伸びていて、ぐるりと見回してみると魔人はその内の一つの前で僕たちを待っている。目が合うと彼はまた歩き出し、僕たちは休む間も無く歩幅の大きい彼の後を必死で追いかける。

 ヘッドライトの光が前を行く魔人を照らす。それが生み出す影が長く伸びて、天井まで到達している。道はぬかるんでおり僕たちが足を踏み出すたびビチャリと不快な音を立てるが、魔人の足音は対照的に静かである。時折隧道は別の隧道と交差し、そこで更に何人かの別の魔人とすれ違うこともあった。その姿形はやはり皆一様に同じであり、彼らもまた僕たちに対して何の興味も示さなかった。人間とは終ぞ一度もすれ違わなかった。

 そうして最奥部まで至るとそこはまた少し開けており、突き当たりの壁には遺体を焼く焼却炉を連想させる金属製の無骨な扉がついている。魔人が細長い両の手を使って仰々しくそれを開ける。僕たちが中に入ると直ぐに外から閉め直されてしまい、その際ゴォンと重苦しい音が鳴った。それはまるで旧市街に建てられた教会の鐘の音のように、グワングワンと音を変えながら彼方此方で反響してゆき長らく止むことがなくて、聞いている内段々僕は平衡感覚を失いかける。

 それが漸く止んだかと思えば、

「ご苦労だった」

と、今度は大広間の一番向こうから、そう僕たちに話しかける声がした。まるで直接脳内に語りかけられているかのような響き方であった。あまりに遠すぎて僕らの立つ位置からではその声の主を視認することができない。一歩ずつゆっくりと、足裏の感触を確かめるような足取りで近付いてゆくと、一分後、遠くからでも辛うじて見えていた、何かゴテゴテしたオブジェの正体が先ずオーギュスト・ロダンの『地獄の門』であったことが判明して、次いでその前には年季の入った執務机とハーマンミラー社のまだ新しいアーロンチェアが配置されており、そこに座して待っていたのは驚く程小柄な老人であった。

 彼は魔人たちとは違い手入れの行き届いた紺色のスーツに身を包んでおり、肌が紫色でなかったらもしかすると人間と見間違えたかもしれない。

 僕たちが十分近づいたところで、彼は「止まれ」と命じた。そこで言われた通り立ち止まると今度は、

「今日は何を持って来た?」

と、問われて、

「衣服とそれから薬品類でございます。馬車はいつものところに付けてあります」

と、キキョウが答える。その後で僕たちは背負ってきた鞄から薬品類のサンプルを自分たちの前に広げてみせ、そして恭しく跪いた。俯いてただ地面を凝視していると、彼が立ち上がってわざわざ僕らの前まで歩み寄って来る足音がして、殆ど耳元でそれが鳴り止む。そうして屈んだかと思えば錠剤の入った瓶を手に取り、カランカランとまるで僕たちに聞かせるように振る。端から端まで一通り全ての瓶を振り終えると、それで何が分かるのかは分からないけど、品質に問題はなかったようで「顔を上げろ」と僕たちに声をかける。

 服従の意思を示すようにさっと顔を上げると、眼前、一メートル離れた位置で彼が仁王立ちしている。そうして低い位置から仰ぎ見る仁王の顔には無数の皺と傷が毛細血管のように緻密に刻まれており、成る程この村の長としての風格がしっかりと備わっている。僕は自分の心臓の鼓動が加速して、代わりに手足の末端の感覚が薄れてゆくのを感じる。それが彼に見抜かれているのではないかと不安に思う。受験生だった頃、全く対策しないまま本番の試験を迎える悪夢をよく見たが、その陰鬱な嫌な感じ--蝉時雨のように鳴り止まない用紙に回答を書き殴る音、その中で一人止まっているペン先、文字化けしているかの如く一行も読めない問題用紙、無表情で用紙を覗き込んでくる試験官、滴り落ちる汗、等々--がありありと内に蘇ってくる。つまり僕は、未だ猶自分が魔法なるものを自在に繰り出している姿を全く想像出来ずにいる。

「うむ。特に問題はないな。報酬は他の荷物を運ばせる際についでに持って来させる。八歳オスと、十歳、十一歳のメスの三体だ。文句はないな」

 そう言う魔物の声はどこまでもビジネスライクであり、きっとこれまでこうした取引が数えきれないくらい行われて来ただろうことを暗に示していた。何も、特別なことではないのだ。ティーバ王国の北部地域において、表には決して出ないところ、好事家な富裕層のコミュニティで、戸籍に記載のない人間が奴隷として、或いは臓器として、それなりの値打ちで流通しているらしい。彼らは元を辿ると皆、南部の魔物の村から出荷された子供たちだ。人間として見た時、彼らは無価値であるが、物として扱われる途端に引き手数多となる。場合によっては愛という名の劇薬を注いでも貰える。

「ありがとうございます」

 そう返すキキョウの声は震えており、

「どうした。声が震えているぞ」

などと魔物は目敏く追求してくる。

「おい大丈夫か」

 そう、僕が彼女にだけ何とか聞こえる音量で、吐いた息に忍ばせるように囁いたそのとき、キキョウはポケットからガラスの小瓶を取り出した。非常に俊敏な動作で、また、それは特に事前の打ち合わせなどをしていない咄嗟の行動であったから、つい呆気にとられてしまった。

 彼女は恐怖ではなく怒りに打ち震えていたのだ。……渾身の力で彼女の手からぶん投げられたそれは魔物の額のど真ん中に命中し、粉々に割れた。魔物の皮膚は頑丈であるため、それしきのことで無論血は流れないが、しかしながら瓶の中には或る液体が入っており、それが飛び散って付着した箇所が早速溶け始めて、重度の火傷を負ったかの如くだらんと爛れている。

「クソ、貴様何をした!」

「硫酸です。ちょっとは効いてくれていると良いのですが」

というキキョウの言葉が終わるか終わらないかのうちに、魔物は目と口とを極限までかっ開いて、そのままジャンボジェットのエンジン音のような唸り声をを上げ始めた。あまりの五月蝿さに両耳を塞ぐが、今度は地下空間であるはずなのに彼の周りに砂塵が舞い始め、目を開けているのが殆ど困難となる。その中で垣間見えたのが、小柄だった老人のスーツが弾け、あらわになった筋肉が泡のようにぶくぶく肥大化していく様子であった。そうして唸り声が止み、砂塵が晴れると、彼は最終的に当初比で百倍程のサイズとなっていた。

 何故この魔物のためにこれ程馬鹿でかい部屋が必要なのだろうと薄っすら疑問に思っていたが、きっと彼の本当のサイズはこちらなのだと合点がいった。

 巨大化した魔物が大義そうにその巨大な右足を振り上げる。その右足は、僕たちのいる地点が丸々その影に覆われるくらい巨大である。だから一刻も早くその場から逃げなければならないが、僕はそこで、目前に迫った死への恐怖に支配されて身動きが取れなくなる。こちらの世界で死んでも単に意識が元の世界に還るだけであることを、頭では一応理解しているつもりでも、それは遥か昔、まだ我々の祖先が食物連鎖の最下層に位置していたときから脈々と受け継がれてきた遺伝子由来のものであり、身体中の穴という穴から汁が噴出し、僕の身体はカラカラのミイラのように乾涸びてゆく。視界を通じて知覚する世界がぐにゃりと歪み、鼓膜は先程の唸り声のせいでまだ痺れている。その代わり、主観的な世界の速さは限りなくゆっくりになり、肉体から解き放たれた僕の精神は恒久の旅へと出る。数多の世界線、マルチバースを行き来して、粘土細工のようにひしゃげ床と同化する己の哀れなイメージが加速器の中の陽子の如く脳裏を高速で何周も、他人事のように駆け巡る。時間にしてたった数秒ほどの間に、玉手箱を開けた浦島太郎のように僕は実に何年分も年老いた。そうした極限状態にあって、遂に僕は、己の魔力を開花させたのである。

 僕の右手、日差しを避けるように額の前にかざしていたその掌底の丁度、生命線が途切れているあたりから、一条の青色の閃光が煌めき、それは寸分の狂いなく、真っ直ぐ魔物の心臓を貫いた。

 その時、最早、風圧が感じられるくらいに魔物の足は迫り来ていたが、そこで魔物は己の生命活動を完全に停止させた。形の崩れた一房の葡萄のようだった肉体が、みるみる色を失ってゆき、ついには石化する。それを認めた瞬間、全身の緊張が解けた僕はパタリとその場に仰向けに倒れこむ。反対に傍らのキキョウが軽やかに立ち上がる。彼女の頭上数十センチのところに魔物の足裏がある。何を思ったか、彼女はそれに手を伸ばし、指で軽くつついた。すると石像に亀裂が入って、それが稲妻のようにピキピキと音を立てながら身体中を走った。そうしてついに脳天にまで到達するとそこで瓦解して、最終的には大量の砂埃になる。放心していたから僕はまともにそれを吸い込んでしまい、結核患者のように激しく咳き込む。それを見て、彼女は彼女で痙攣みたいな笑い声を立てていた。

 砂の雨はしばらくの間止むことが無かった。

「……無茶苦茶だ。死ぬかと思った」

 今回は謂わば偵察の意味合いが強く、僕の魔力が開花するまで何回か往訪を重ねるというのが当初計画であった。

「やりましたね」

 キキョウが僕の頭の横に体育座りでしゃがみ込み、上から覗き込むように僕の顔を見てそう言った。

「自分でもどうやったのかよく分からないんだ」

 僕は仰向けのまま応答する。

「通常勇者はこちらの世界に来ると直ぐに魔力が開花するはずなのですが、やはり貴方は平常時では引き出せない程の強大な魔力を持っていました。それにしても魔物を一撃で倒すとは恐れ入ります。光魔法とはまた良い力を得ましたね」

「光魔法?」

「その名の通り光を操る魔法です。魔族との相性は一番良いとされています」

「そうなんだ」

「なんか反応薄いですね」

「薄いんじゃなくて、疲れてるだけだよ」

 僕は腕を顔の前まで持ち上げて、そうしてしげしげと自分の手のひらを眺めてみる。キキョウもその方を見てくる。反対側の手で光が放出された箇所を揉んでみる。しかし、そうした点検によって、何らこれまでと変わった点を見つけることは出来ず、その内億劫になってきて無造作におろし、ごつんと額とぶつかる。

「でも、まだまだ練習が必要そうですね。ともかく、まずはこの村の人々を解放しに行きましょう」

「しかし、ボスは倒したけれどまだあの細長い奴らがいっぱい居るだろう。どうしよう、もう気力が全然残ってない」

「ああ、そう言えば伝えていなかったですね」キキョウが不意を突かれたように目を細めて、すると彼女が先程から纏っていた雰囲気が、そこでやっと少し柔らかみを帯びた。「魔物が魔王から生み出されたように、魔人はそれぞれの魔物から生み出された隷属です。ですので、主たる魔物の命が途絶えると彼らもまた死んでしまうのです」

「そうか、なら良かった。でも、もう少しだけここで休ませて」

「しょうがないですね」

 そう言うとキキョウも傍で仰向けになった。

 木の根のように地下に無造作に張り巡らされたその都市の内部には、実に千人もの村民が息を潜めて暮らしていて、その全ての人に僕らが魔物を討伐したことを知らせ、再び地上に戻った頃にはもう、東の地平線付近で生まれたばかりの太陽がめらめらと燃え盛っていた。その対角の空に目を向けると満月が沈みゆきつつある。僕らはふと思い出して貰った発煙筒に火を点けた。ド派手な煙が真上の夜と朝の境界の空へともくもくと立ち昇ってゆき始めると、何処からともなく歓声が上がった。

 魔物を討伐してから三日後になって、漸く義勇連合の使者はゴイへとやって来た。

「ゴイ村は義勇連合に加わるということでいいのだな?」

と訊かれ、とりあえず頷いておく。

「それにしても、こちらに来てたったの数日で魔物を倒してしまうとはな」

「そんなに凄いことなの」

と、僕が尋ねると、

「新たに村が解放されたの自体、三年振りとかなんだ。だから連合内では逸材が現れたとお前の話題で持ちきりだ」

 正式に義勇連合に加盟したことで村の復興は急速に進んでいったが、一方で旧来の村民の中には活気溢れる新しい村に馴染めず、あの地底都市にわざわざ戻る者も少なからずいた。特に、魔物の悍ましさをまだはっきりと知ることのなかった子供たちにとって、そこは大人が何と言おうと確かに純粋な思い出の詰まった故郷には違いなくて、治安上の理由から当初は立ち入りを取り締まっていたのだけど、それに気付いて以降、僕たちは彼らのことを黙認することに決めたのだった。

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