6-1

 アマアリキからまた馬車で一時間弱の道のりを進み、周りの木より一回り大きい、ボロボロのしめ縄の巻かれたある大楠のふもとまで来ると、そこに馬車を停める。僕たち三人は馬車を降りて、深呼吸をする。そうして一番最後に馬車を降りたキキョウの旧友は馬へ近づきその手綱を握る。握ったまま、彼は何秒かためらうが、その後キキョウの方を見つめ、

「死ぬなよ」

と声を掛ける。彼女は誠実だからこそ、それに対して何の返答もすることができずに、ただ、それを合図に彼の元へと駆け寄り、最後に抱擁を交わす。彼は頭ひとつ分キキョウより背が高いから、彼女の頭はすっぽりと彼の肩へと収まる。絵になっていると思うけど、そんな光景を前に、僕はさり気なく視線を逸らす。興味なんてないのに、木肌の生み出す浮世絵に描かれた波のような模様を眺め、指でなぞってみたりなんかする。すると思いの外それは鋭利で指先に若干の痛みが走る。僕は彼女について全くと言って良いほど何も知らない。そのことをまざまざと、感じさせられて、後ろめたさのようなものをつい抱いたりしたのである。

 枝葉の騒めきに混じり、ザッと足音が聞こえ、もう二度と来ないかもしれない、二人の、別れを惜しみ合う時間が終わったことを知る。キキョウがこちらへ向かってきて、僕の右斜め前に立つとそれから彼の方へ向き直る。いいのかと、半径数十センチにだけ聞こえる音量で、僕はその後ろ髪、つむじの辺りに目を向けながら問う。それに対し、多分彼に悟られないように、ほんの微かにだけ、その時吹いていたそよ風に揺られた稲穂のように、キキョウは首を縦に振った。

 その時辺りにはそよ風が優しく吹いているのみだった。だから別れのきっかけは全て自分たちで生み出さなければならなかった。

 彼は今にも泣きそうな顔をして、僕たち二人、或いは僕に向けて、

「健闘を祈っています。それではまた、明け方こちらに伺いますから」

と言って、僕たちに背を向け、一歩、また一歩馬を引いて来た道を引き返してゆく。予定通り事が運べばこの後ここには魔人が荷物を取りにやってくる。馬は臆病な生き物だから、くれぐれも魔人と鉢合わせないように遠くへ隠しておく必要があった。

 彼と馬の姿がすっかり小さくなった後、そこから更に二十分ほど、僕たちは無言で進んだ。その間、僕は彼女に、彼との関係について、旧友以上の情報を訊きたい衝動に駆られていたけれど、一方で知りたくないような気もして、結局口をつぐんでいた。彼女は僕の半歩先を進んでいたからその表情を窺い知ることができなかった。地面に足を取られないよう僕は下を向きながら慎重に歩いており、視界の端に彼女の足が動くのを一応捉えていたつもりだったが、考え事をしていたせいでやはり注意が散漫になっていたのだと思う。不意に彼女が立ち止まると、そのことに咄嗟に気が付けず、故に殆ど僕たちはぶつかる寸前まで近づいた。そうして彼女は何の予備動作もなく振り返ったから、思わず一歩後ずさる。動揺した僕は、何か会話の準備をしなければと悠長なことを一瞬思ったが、僕に向けられたその顔は至って真剣であった。そこで漸く、ほんの十メートルほど向こう、草原の只中にポツンと何かが佇んでいるのに目がいく。彼女の顔が正面に向くのと並行して、僕は目線をそれに向けたまま、彼女の横に並び立つ。それは一見樹木のように思えたが、すぐにそうではないと分かり、夏だというのに僕の身体に悪寒が走る。

 僕たちがそこで出くわしたのは三メートルは優にありそうな巨人であった。月明かりに照らされた巨人の肌は両生類のようにヌメヌメと毒々しい紫色に光っていて、衣服などは身に纏っていない。針金のような体躯をしているけれど、それが却って不気味さに拍車をかけている。手足が長く、特に手は己の身体とほぼ同程度の長さを誇り、重力に逆らわずだらりと垂れ下がっている。顔はのっぺりとしていて、糸のように細い目やただ穴が二つ空いているだけの鼻と対照的に、口だけが異様に発達して大きい。その口周りが、一際鮮やかな、真赤に染まっている。それは、シルエットこそ人型のようであるものの、人間とは決定的に異なった獣であると感じた。

 巨人は斜め上をぼんやり見ていたが、その体勢のままおもむろに、欠伸をするかのように、金切り声を上げる。そうしてボトボトと己の尻から固形の糞を数個垂れ流した。それは、元々人間であったものだ。その匂いがこちらまで漂う。匂いは、あまりに糞そのものであったから、僕の脳は混乱をきたし、吐き気を催す。横のキキョウは平然としている。僕なんかよりも彼女の方がよっぽど勇者であると思う。僕は手を口に当てて何とか吐き気を堪える。目に涙が滲み視界がぼやける。

 キキョウは巨人の方を見つめたまま、無表情で、独り言を呟くように僕に言う。

「あれは見張り番の魔人ですね。恐らくここが領土の始まりなのでしょう」

 僕は無言で頷き、口の中に溜まった唾を飲み込む。

 意を決して更に何歩か近づくと、魔人は僕らの存在を漸く認め、その大きな口を最大限開き、ベージュ色の歯をむき出しにして、その隙間からピシャーともがり笛の原理で音を出して威嚇してきた。或いはそれは威嚇ですらなく、食料がのこのことやってきたことからくる舌なめずりのようなものなのかもしれない。その油圧プレスのような上下の歯を器用に駆使し、僕らの固い頭蓋も、きっとせんべいのように粉々に砕かれ、胃袋に収納されるのだ。

 しかしながら、キキョウが

「我らは売人だ。村長の元へ案内してもらおう」

と声を張り上げ嘘の素性を堂々と名乗ると、魔人はあっさりと威嚇をやめ、その顔は水死体を想起させるのっぺりとしたものへ、そして辺りには静寂が戻った。それからまるで、僕たちに対する興味をなくしたかのように踵を返すと明後日の方角へのそのそと歩き出した。一応僕たちの言葉を理解は出来るものの、話せるほどの知能は備わっていないらしい。きっとついて来いということなのだろうと察し、のそのそと言っても魔人の歩幅は僕たちの何倍も大きいから、糞を踏んづけてしまわないようにだけ気をつけ、僕たちはその後ろを早足で追う。

 魔人の後をついていくと、割合すぐに細い道が現れて、その両脇には畑が広がっている。そこには様々な種類の植物が整然と植えられており、そしてそこから、微かに先ほど嗅いだ糞と同じ匂いが立ち昇っている。前をゆく魔人がふと立ち止まり、道に面したところになっていた果実、恐らくトマトを一つもぎ取ると、僕に投げ渡してきた。そしてベージュの歯を見せ不気味な声をあげる。

 それは恐らく笑みを見せているのだと伝わる。

 キキョウが耳打ちする。

「食べてください。多分毒はありませんから」

「でも……」

「躊躇う理由は分かります。でもそれを食べない限り進めませんから」

 かつて人だったものを肥料に育てられたそれを齧ると口の中に見知った酸味と青臭い香りが広がった。勢いよく齧ったから、口周りに果汁がまとわりついている感覚がある。魔人は僕の食べっぷりを見てプシーと奇声をあげた。僕もそれに合わせて白い歯を見せて苦笑いを浮かべた。魔人はそこで一連のやり取りに満足したようで、また前を向き歩き始めた。十分に距離が離れたことを確認した後で、歯の内側に隠していた果実の破片を路傍に吐き捨てた。そうして袖で口を拭うと拭った箇所がべっとりと真赤に染まってしまった。

 畑の中の細い道がやがて終わると、僕たちを待っていたのは地平に空いた、直径三メートル程の殺風景な穴であった。そしてその手前には、僕たちを先導してきた魔人と瓜二つの魔人が一体、微動だにせず立っている。それは僕たちが現れても何のリアクションも見せず、斜め上の方、夜空を見上げている。宇宙と交信でもしているのだろうか。そうしていると彫刻のようで、真横の穴とセットで前衛芸術のような趣があるが、その穴は、地下に膨大に広がる彼らの帝国の、入り口のうちの一つである。

 僕たちを先導した魔人もまた、もう一方の魔人には見向きもしなかった。何のためらいも見せずにその穴に向かっていき、滑るようにその中に落ちていった。その後幾ばくか待ってみても穴からは何の物音も聞こえてこなかった。それで僕たちも穴へと近づき、中を覗くがそこにあったのはクレヨンで塗りつぶしたかのような暗闇であった。同じように残された魔人の方を見上げてみる。斜め上を漫然と見上げているその水死体のような顔からは何の表情も、芸術的含意も読み取れそうにない。

 キキョウの方を見遣ると彼女も丁度此方を見た。そうしてお互い無言で頷き合うと背負っていた鞄からヘッドライトを取り出し装着し、穴の側面に設置されている、色あせたロープの梯子に慎重に足をかけてみる。微かに軋んだが強度に特に問題はなさそうであったから、キキョウに合図を送り、二人一緒に梯子を伝って穴を降ってゆく。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る